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第二部 虚構の楽園
42狭間を抜けて②
エベールは肩の傷を押さえながら笑いをこらえていた。
うまくいったぞ! とうとう異母兄を出しぬいてやった!
……エベールはサリエルに告げてやったのだ。もうこの冥界にきみの居場所はないのだと。
動揺するサリエルに、水晶玉で証拠も見せた。
映しだされたのはナシェルとヴァニオンが睦みあう光景……。
衝撃を受けるサリエルに「これでもう分かっただろう、お前はもう用なしなんだよ。今すぐここを出ていく術を教えてやる」と告げ、この『裂け目』まで連れてきたのだ。
その前にこの計画のカギを握るルーシェを、また『洞窟探検』をしようと云ってこの場所まで誘い出しておくことも忘れなかった。
何も知らずに現れたルゥに眠り薬を嗅がせ、エベール自身が姫を負ぶって(サリエルにそんな膂力はないのだから仕方がない)、サリエルを地上界側の出口まで案内して戻ってきたのである。
アシュタルと鉢合わせさえしなければ、異母兄に気づかれるのはもっと遅くてすんだはずだが……、ガキのせいで少し計画が狂ったな。まさかこの洞窟の存在を知られていたとはね……。ルーシェが以前に、後をつけられてでもいたのかな。
だがそのアシュタルとて所詮は子供。その裂け目がどんな代物であるかまでは思い至らなかったのか、大人たちにこれまで内緒のままでいてくれたのは幸いだった。
異母兄にこの風穴の存在がばれていたら、計画そのものが白紙になるところだった。
さようなら、サリエル! そしてルーシェも……。
あどけない王女のことを考えると少々胸が痛まぬでもなかったが、仕方がない。全てはあの異母兄が悪いのだ。自分を見下し、不貞を働いた今でさえ、なお温水につかるがごとく父の寵愛を独占している兄が。
もう何時間も経っている。今ごろ、間違いなく天上界の迎えが来ていることだろう。眠り薬が切れるころだ。眼を覚ましたルゥが騒ぎ立てれば、その波打つ気に天上界の神々が反応しないはずがない。すぐさま手勢がやってくるだろう。
兄はもう遅い。彼らは天上界の門をくぐったころだ。追おうにも黒天馬がないし、得物も、自分が貸したあの短剣ひとつでは……。
エベールは楽しくて仕方がない。笑いをこらえきれず吹き出しかけたところへ、アシュタル少年に先導されてヴァニオンがあらわれた。
「兄上なら二人を追っていったよ」
エベールは問われる前に親切に教えてやった。肩を押さえて痛みに顔を顰めてみせるのも忘れない。
だがヴァニオンから向けられた眼差しは、信用とは対極のそれである。
息を弾ませながら、ヴァニオンは肩の傷に冷たい視線を注いでくる。自演とばれているのか。
ヴァニオンは己の剣のほかに一振りの長剣を携えていた。ナシェルのものだ。これを取りに行ったせいで遅れたらしい。
「……エベール、一体どういうことだ、何しでかしやがった!」
「ヴァニオン、王子である僕にそんな口きいていいの? それに僕は刺されたんだよ、あなたの情夫に」
「嘘つきやがれ、サリエルがそんなことするはずがない! あいつが誰かを傷つけるなんて……」
「まだ分からないのか、ヴァニオン、そんな決め付けは無意味だって。現にサリエルはあなたの予想に反してすでにこの世界を後にしたっていうのに?
どうせサリエルが疑似天を出て行くわけがない、出られるはずがないと、決めてかかっていたんでしょう。
あなたも兄上も、サリエルがどれだけ故郷を懐かしみ帰りたがっていたか、知らなかった。彼の葛藤を考えたこともなかったでしょ?」
「……!」
瞠目するヴァニオンにさらに追い討ちをかけるように、
「……僕を詰る前に、あなたは何をしていた? サリエルはずっとあなたを待ってた……あなたの気持ちだけが、彼をこの世界に繋ぎとめる碇だったのに。だけど貴方はサリエルを避け、こともあろうに兄上と……」
「それはお前が、酒に何か細工を……」
「ああ、あの酒? あれは兄上に差し上げたんだよ。父上と楽しんでいただこうと思って。まさか貴方が飲んじゃうなんて」
「……てめえ……!」
しゃあしゃあと嘯くエベールに対し、ヴァニオンは己の剣を抜きかかった。
「……ところでヴァニオン、こんなところでのんびりしているヒマないんじゃない?」
その言葉にヴァニオンはハッと裂け目の亀裂を振り返った。無音の闇のその先に、彼の大切な者たちが消えてから、一体どれほどの刻が過ぎ去ったのか?
ヴァニオンは無言でエベールを睨んでから、踵を返して躊躇いなく裂け目の奥に走り去った。
帰ってきたら覚えてろよ、かな? それとも……あとでぶちのめしてやる、かな……。
どちらも陳腐きわまりないや。あの男らしい……。
彼の最後のひと睨みに込められた台詞を想像し、エベールはとうとう声に出して笑い、そばにアシュタル少年が怯えた表情で立ち竦んでいるのに気づいて、笑いをひっこめた。
「何ぼやっと突っ立ってんだよ! 早く他の誰かを呼んで来いよ。僕、怪我してんだぞ」
「は、はい。もうすぐ城の下男が来ます、さっきエベール様のお怪我のことも伝えました」
「あっそ」
一瞬不機嫌になりかけたものの、すぐ気を改める。痛いからってガキ相手に当たっても仕方がない。それに僕はいま、昨今稀に見るほど機嫌がいいんだった……! 楽しまなくちゃ損だ。
急ににっこりと、自分に微笑を投げかけてきた第二王子を、アシュタル少年は息を呑んでただ見つめるしかなかった。
良き遊び相手であったはずの、王女の優しき異母兄が、今はなにかしら恐ろしい異形のものに見える。だが、少年はその禍々しい微笑の奥に潜むものの正体を悟れるほど、まだ大きくないのだった。
◇◇◇
行けども行けども、眼前にはただひたすら暗黒の細き通路が続いていた。
黒々とした靄を胸に抱きながら、ナシェルはぬるぬるした岩壁に手をつき、足場を確めながら出口を目指す。
地中であるならばここも冥界の一部であろうに、なぜこうもざわざわと落ち着かぬ。
未知の昏黒のなかで今、どれだけの距離を歩いたのか、洞窟に入ってからどれほどの時間が過ぎたのかも、もう定かではなくなっていた。冥界に於いては初めて直面する、感覚の麻痺。
暗闇には慣れている己の視覚のみが、唯一の救いであった。
歩を進めながら徐々に冷静さを取り戻し、ナシェルはこの一連の出来事が間違いなく異母弟の企みであるという確信を得ていた。
サリエルは、夜目は利かぬ。これほどの闇の中、しかも足元もごつごつとした岩。
手探りで、しかも王女を連れた状態で彼がこの長い距離を踏破しえたとは思えぬ。先導がいたはずであった。
エベールめ!
彼の嫉妬心には薄々感づいていたものの、よもやこれほどはっきりと己を追い落とす策略に打って出るとは、正直思いもよらぬことであった。
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