泉界のアリア

佐宗

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第三部 天 獄

14遠き、そなたの呼び声①

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 ……冥界の入り口たる暗黒界エレボス

 そこはごうごうと吹き荒ぶ風と腐敗臭に満ちた洞窟世界。魔族の集落もなく、怪鳥以外の魔獣が迷い込むことも稀だ。訪れる者といえば三途の河を渡ってきた死者たちの行列のみという、都・冥府の喧騒に比べれば何とも味気なく辛気くさい世界である。

 だが、そこは三途の河ステュクスを隔てて地上界と接する、ある意味においては前線とされ、重要視されていた。

 暗黒界において警戒すべきは他の小世界にみられるような魔獣どもの悪行暴走などではない。異種族の侵入である。冥王は、他の二界を眼前に見据えているのだ。
 とくに、万が一、天の神々によってこの地が脅かされるようなことになりでもすれば、こちらも神のちからをして対せねば、決して守ることなど出来はすまい。
 だからこそ、冥王は己の分身を、ここの護りにあてているのだ。…あの王子神を。

「そう、あの万年サボリ領主を……だ」
 ひとり執務卓に肘をつき指を組んで、アシュレイドは悪口を己の手の中に吐き出し、溜息とともに包んだ。ずんと据わった視線の先には大きな扉があるが、固く閉ざされたまま、まだ招聘した部下が現れる気配はない。

 冥界軍最年少の将軍位にある彼は、冥府からここ暗黒界に派遣されているおよそ5万名…(全て歩兵。そのほか黒翼騎士団2400名)のエレボス方面守備隊を預かる、前線司令官でもある。
 だが不本意ながら、将軍職としての執務以上に時間を割いているのが、悪態を込めて呼んだ主君の補佐……といえば聞こえはいいが、実のところは執務代行、体のいい尻拭いであった。

 領主ナシェルにはふらふらと行方をくらます悪い癖があり、上述のような領土の重要性を本当に貴方は理解しているのかと、たびたびアシュレイドは彼に説教を垂れざるを得ない。
 叱りとばすたびに領主は鼻でわらい、「天上の神というのは暗い場所は好まぬと聞く、ならばこんな場所にまではるばる遠征してくるはずもなかろう?」、と一蹴するが……。

 先程、その領主の滞在していると思われる疑似天アルカシェル―――アシュレイドの妻も姫君の乳母としてそこへ勤めている―――から急を要する派兵の要請があった。

(……疑似天に至急人手をまわせだと? 殺伐とは無縁の、あのふわふわしたお花畑にか?)
 不穏きわまりない伝文に、アシュレイドの眉間の皺はますます深くなる。
(姫君や……殿下に何かあったのだろうか……。いや、殿下が何かやらかした、か?)
 主君に対し不敬極まりない想像だが、常日頃の領主の素行からすればアシュレイドの心配も端から杞憂と言い切るわけにもいかない。
(ナシェル殿下がおられるのではないのか……? ならばなぜ部隊を回せなどと……しかも殿下ではなくあのお方が……?)

 人智を超越した力を持つ御子神ナシェルが疑似天に滞在しているならば、黒翼騎士団を差し向けたところで一体何の手助けになるというのか。

「閣下、副団長ヴァレフォール子爵がおいでになりました」
 そこへ扉外の従卒が口上したので入室を許可する。

 入ってきたのは今年、およそ2400騎の騎士団内でわずか4名と定められた副団長、つまり大隊長のひとりに昇進した有望株で、魔獣界の領主ヴァレフォール公の一門に連なる若者だ。名をイルファランという。
 肩より少し長い、紫がかった黒髪を右耳元で束ねた、涼しげな濃紫の眸の優男である。いつもにこにこと笑顔を絶やさないが剣を持たせると性格が一変し、彼の通った跡には雑草すら生えぬという噂だ。何をしでかしてついた渾名か、騎士団内のみならず駐留部隊全軍において「冷血の鬼」「歩く非常識」などとその笑顔すら恐れられている。
 副団長は十個中隊600騎からなる大隊を預かる重責。若い彼からはまだそれに相応しい威厳は感じられないものの、とりあえず剣技において卓越していることだけは確かだ。

「御用でしょうか、閣下?」
 イルファランは踵を打ちあわせ敬礼を決めるも、すぐに飄々とした顔に戻る。この男はあの領主の乳兄弟ヴァニオン・ヴェルキウスと懇意にしており、たびたび城内でカード賭博に興じている姿を見かける。
 ヴァニオンに限らず、こうした根っからの大貴族……育ちのよさが表れた優雅な物腰と風貌に彩られた、やんごとなきの身分の相手が、平民出身のアシュレイドは実は苦手だった。
 とくにヴァニオンとイルファラン、この二人は貴族連中のなかでもずば抜けて苦手だ。ヴァニオンの無官の身ならではの能天気さがときおり無性に癪に障るし、このイルファランに至っては、重責にあるにも関わらずの無神経さを併せ持ち、そこへきてこの相手を見透かすような余裕の眼差しとくる……。

 別に、かつてカードで激しく負けたことを根に持っているわけではない。それに無論、苦手だからといって任務に区別や差別をつけるつもりも、ない。
 ちなみにこのイルファランには騎士団内にイスマイルという新米騎士の弟がいる。近年まで王子の小姓を勤めていた例の少年だ。ああ、いや、もう青年か……。

「イルファラン、悪いがすぐに騎士団内で速翔けの馬を5、60騎ほど集めて疑似天アルカシェルへ向けて出立してくれ。何やらよくは判らんが不穏な気配がある」
疑似天アルカシェル?」
 鏡に向かって毎日手入れを欠かさないのだろう、細く綺麗に整えられたイルファランの眉が、僅かに持ち上がる。うちの部隊の警備区域からは外れてとますよ、といいたいのだろう。

「そうだ。冥府へも応援要請が行っているらしいが、疑似天ならばこちらからのほうが早いだろう」
「冥府へも要請が? すると紅標あかじるしの連中と現場で鉢合わせることになりますよ。嫌だなぁ~」
「好き嫌いを云っている場合ではない。云っておくが本隊を相手に次元の低い張り合いはするなよ。先任士官級が来ていたら、ちゃんと指揮下に入れ」
「そんなことは分かってますよ、子供じゃあるまいし」
 イルファランは唇を尖らせ、珍しく拗ねた表情をつくった。

 『紅標あかじるし』とは騎士団本隊の蔑称……いや通称である。
 黒翼騎士団は冥府に本部を置くが、こちら暗黒界エレボスに駐留する部隊とは肩の徽章と旗色で区別されており、向こうの本隊は『紅』、こちらは『蒼』を旗色とする。

 団員もほぼ同数で演習を行えば戦力も拮抗するこのふたつの部隊が、互いを色でのみ呼び合いことあるごとに張り合っているのはアシュレイドも承知する所だ。諫める立場の彼ですら実際、閲兵式において恒例となっている模擬戦の際には『こっちは最前線の精鋭部隊だ。ナシェル殿下の御名において絶対に負けるな、負けたら歩兵に戻して死者行列の見張り役に降格するぞ』などと泡混じりに檄を飛ばす始末だ。向こうは向こうで首府を護る『本隊』としての誇りもあろうが……。
 冥王とナシェルは己の配下のそうした平和な意地の張り合いを、勝者への褒美は惜しまぬが高処より傍観するにとどめている。

「して、不穏な気配とはいかなるものです?」
「それが分かればこんな辛気臭い顔はしなくて済む。ナシェル殿下にお会いしたら恨み言のひとつでもぶつけてやれ」
「ナシェル殿下があちらにおられると? ではこれは殿下のご命令ですか。え? なんで冥府にまで要請を出すんだ……?」

 最後のほうは口中でぶつぶつと呟き、意味が分からないなといいたげに蒼い徽章のついた肩を竦めるイルファランを、アシュレイドはしぃっと黙らせた。

「いや、殿下ではない、伝文の署名は第二王子エベール殿下だ」
「……何ですって?」
「詳しくは文にては憚りあるゆえ書けないが、大至急部隊を回してくれとのことだ。
 さあ、分かったら至急手勢を集めて向かってくれ。疑似天で何事かあったのかもしれん」
「は、了解しました」

  踵を返しかけたイルファランは、何か思いついたように急に振り返り
「あ、弟を連れて行ってもいいですか」
と云う。アシュレイドは執務卓の上で指を組んだまま、無表情に応じた。

「部隊編成はお前に任せると云った。……が、遠足じゃないんだぞ。あの子はまだひよっこヽヽヽヽだ」
「イスマイルはれっきとした騎士です。それに僕が直々に鍛えているんですからじきに比類ない黒翼騎士になりますよ」

 云い返してきたイルファランの表情は、弟を半人前扱いされ憮然としているかと思いきや、悪戯っ子のように笑んでいる。

「と、いうよりね。あの子がいたほうが殿下に文句が云いやすいんですよ。分かるでしょ」
 「勝手にしろ。早く行け!」

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