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第三部 天 獄
15遠き、そなたの呼び声②
追い払うように手の甲を振りながら、アシュレイドはこの日何度目かの深い溜息をついた。このイルファランにしろ、あのヴァニオンにしろ、自分の周りの冥界貴族というやつは、どうしてこうも飄々と軽薄に、事態をわきまえない発言をかますのだろう……。
イルファランが辞した後、溜まった雑務を処理しようと書類の束に手をかけたその時である。
背後の露台で、大きな翼の羽ばたきが聞こえた。
アシュレイドはとっさに振り返り、窓の外に、黒天馬の伝令の姿をとらえ慌てて露台に出た。とたんに、この世界特有の血生臭い風がぶわっと髪を巻き上げる。
黒天馬に跨る伝令の蒼い腕章には『Ⅲ』の文字。『三号砦』からだ。それは冥界の入り口を守る三連の砦のうち、外側から数えて三番目の砦。つまり、もっともこの城に近い砦だった。
「閣下! 緊急伝達!」
翼のはためきごとに舞う黒い羽毛。緊急伝令用に選び抜かれた、速翔けに最も優れた黒天馬である。アシュレイドは眼を眇め、黒天馬が露台に降り立つのも待たずに声を張った。
「何事だ!?」
司令官執務室の横の露台は、このような場合にそのまま緊急伝令兵が馬ごと降りられるよう、広大に設計されていた。
石畳の露台に着地した馬から伝令兵が飛び降りてきて、敬礼もそこそこに報告する。
「一号砦より伝達! 越河して領内に侵入してきた騎馬集団と、現在交戦中であるとのこと。至急応援を求めております!」
「―――何だと!? 越河!?」
アシュレイドは耳を疑った。
「何者かが河を越えて暗黒界に侵入したというのか」
伝令兵は固い表情のまま、判っていることだけを伝えてくる。
「一号砦に現れたのは、白い天馬に乗った十名ほどの異能の集団であると」
「白い……天馬だと、」
聞き返す声が掠れる。何か、心の奥底で危ぶんでいたことが現実になろうとしているのか。
白天馬、それは天の神々の乗り物以外にはあり得ぬ。異能の集団………異能の!
「伝令を冥府へも繋げ! 緊急事態だ」
露台に面した隣の伝令室からも、詰めていた兵たちがわらわら駆け出してくるのを横目に、アシュレイドは室内にとって返した。
扉外にいる従卒に命じて騎士団司令室、歩兵部隊司令室など城の階下にある主要な直轄部門へ出兵準備を伝達する。
(一体、何が起こっているというのだ! いまだかつて、こんなことは一度としてなかった……三途の河を越えて、白い天馬が侵入してくるなど、)
疑似天からの珍しい派遣要請、そしてこの緊急事態。二つの異変が一つに結びついているなど、まだこのときのアシュレイドには思いもよらぬことであった。
(よりにもよって、ナシェル殿下のおられぬこの時に!)
ハッと我に返り、アシュレイドは司令官室を出て騎士団の詰所へ向かう階段を駆け下りた。途中行き交う者共に向けて、緊急事態と臨戦命令を声高に伝えながらだ。
先ほど別命を下したばかりの副団長イルファランを、階下の詰所の前で捕まえることに成功する。
「イルファ! 越河してきた正体不明の武装集団によって一号砦が攻撃を受けている。今すぐ我々は出撃準備に入る。お前は別動隊を編成して先ほどの命令のままに行動しろ。任務完了ののち速やかに引き返し我々に合流しろ」
イルファランの表情が変わり、どの質問から発するべきか迷うように口が開いたが、こちらには細かい質問を受けている余裕はない。
イルファランも好奇心を満たすために時間を費やしている場合ではないことを悟り、黙して頷くにとどめた。ただ一言、
「何か、嫌な予感がしますよ」
と呟いた。
と、そこへ運の良いことに、手入れ済みの馬具を抱えた弟騎士イスマイルも現れた。
アシュレイドは彼も呼び、兄弟騎士ふたりを前にして声を低める。
「イスマイル、経緯は道中、兄に訊け。今から兄に従い疑似天に向かうんだ。
それと重要な件がもうひとつ。殿下がこの城に戻っておられぬこと、これは必ず他言無用だぞ」
イスマイルはステュクス河への遠乗りの帰りに撒かれて以来、ナシェルと顔を合わせていない。よって領主の不在を知る数少ない人物でもあった。
「こちらも全軍をもって一号砦の応援に出る。私も行く。砦にて落ち合おう」
「司令官閣下が自ら出られるのですか? 城の留守はどうなさいます、殿下もおられないのに……」
イルファランは周囲を憚る様子で語尾を低めた。
「ナシェル殿下のご在城を装うのであれば、私が出るしかないだろう。疑似天にて、とにかくまず殿下を捕まえろ」
「ですが殿下のことです、すでに領土を侵す者のことにお気づきになり、こちらに向かわれているのではないですか?」
副団長イルファランの云うことはもっともだった。ステュクス河周辺の精霊たちがざわめき、いち早く風に乗って主君たる神に異変を告げるであろう。
アシュレイドは出撃準備のため踵を返しながら応じた。
「もし、途中でばったり殿下と行き会ったりしたら、そのときはすれ違いざまに首技でもかましてやれ。我々にはそれぐらいの権利はある!」
司令官らしからぬ狂暴な発言に兄弟は思わず顔を見合わせた。
だがアシュレイドがそんな軽口を叩く余裕を失うのは、そう遠からぬ先のことである。
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