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番外編
かけがえのない日々⑩
しおりを挟む王の裾を追うように、いくつかの回廊を通り抜ける。無言の王の本気度を測りかねてナシェルは戸惑う。
……王は私のことをどこまで詳しく把握しているのだろう。過去のことは仕方ないとして、ファルクの家に私の絵がまだたくさん存在することをなぜ知っているのか? ……怖くて聞けない。これは、公爵邸の絵画が父王のもとへ続々と運ばれてくる前にさっさと領地へ引き上げたほうが得策かもしれない。
冥王宮は、地上と地下、それぞれ数十階にも及ぶ広大な王宮である。下層階と上層階を行き来するためには移動陣が設けてあり、それを踏めば階段を経ずとも階の移動は簡単にできるようになっていた。
書庫があるのは中層階。王の住居(内殿)は上層階にある。
双面の神々は移動陣を渡って上層階へと戻った。
自室が近づくと王はナシェルを振り返る。さきほどの不興の面差しは階をまたげば既になく、紅炎の色をした瞳は優しい揺らぎを湛えてこちらを見つめていた。
「さて……残念だがそろそろお別れだナシェル。もっと構ってやりたいが余も予定が詰まっておるのでな。魔族どもの陳情も聞いてやらねばならぬし重鎮らとの合議もある。そなたも、暗黒界へ帰らねばなるまい?」
「はい、残念ながら私もちょうどお暇を申し上げねばと思っておりました。ですがそれほどまでにお忙しいとは露も知らず、無理矢理に書庫などへお誘い致しまして……お許しください」
「いいのだよ。書庫でもたっぷりそなたを可愛がってあげられたし、第一、そなたを独りであそこへ行かせていたら今ごろ危なかったからね」
「重ね重ね、ご寵愛と庇護に感謝申し上げます」
ナシェルは軽く膝を折るようにして王を見上げた。
「そんなに堅苦しく礼を言わずともよい。とばっちりで嫌味を言われたからとて急にしおらしくして、……本当に分かりやすいねそなたは」
「……じゃ、もう怒ってないです?」
「そなたに? 怒るわけがない。気分で態度をころころ変える所も愛おしいね」
気分屋は誰かの遺伝です、とナシェルは内心で反論する。それに嫌味を言ったという自覚はあるようだ、父も。
「……じゃ、あとで私の裸の絵を見ても激怒したりしません?」
「……実物によるが、努力はしよう」
眉をひくつかせながら王は応え、ナシェルを立たせ正対した。
「寂しいことだなぁ…、もう少し暗黒界が近ければ――せめて今より半分の距離ならば、毎日でもそなたに逢いに行くのだが」
ナシェルの紺青の瞳の奥に煌めく無数の星々を見つめ、冥王はうっとりと嘆息する。
「今より半分の距離だったとしても、往復で丸一日はかかるでしょう。毎日私に会いに来たらご政務のほうはどうなります?」
「……いちいち細かい揚げ足を取るでない、言葉の綾で言ったのだ。……そなたが領地を得てこの王宮を離れて以来、そなたを想わぬ日は一日たりとてないのだよ。分かるであろう」
「それは……承知しております。私も同じですから」
ナシェルが小刻みに肯くのを見て王は破顔する。
「本当に? 特にどんなときに余を想ってくれるのかな」
「……毎晩、寝台の広さを持て余すときに貴方の下さる愛と、貴方の指の熱さを想います、我が君」
王はこれ以上ないほど満足げな表情でナシェルの二の腕を掴んだ。
「なんという可愛い台詞を吐くようになったことか! これは本当にあのナシェルだろうか?」
「……私ですよ。幻でも見ているとお感じですか? 頬をつねって差し上げましょうか」
「否、よいよい。そなたに抓られても、愛おしいばかりで毎回じつは全く痛みを感じぬのでな……」
王はそのまま手を滑らせ、ナシェルの白い手の甲を掬い上げて口づけた。
「離れがたいものだが、本当にもう行かねばならぬよ。ほかにもう、父に用はないか?」
「――お言葉に甘えて最後にひとつだけ、お願いが」
ナシェルは王の袖を握り返した。
「そなたの願いを余が叶えてやらなかったことがあるか。なんなりと申してみよ」
「……アシュレイド将軍からの陳情の件、父上からも軍務卿に一言お口添え頂けますでしょう哉? とても返事が遅くて――」
「分かった分かった。一言云えばよいのだな」
と優しく答えてしまってから王は「む?」と首を傾げた。
「こいつめ、ちゃっかりしておる。三連砦に関してはもう余の管轄外だよ? 全ての采配をそなたに任せてあるのに――さてはこのためにいっしょうけんめい歯の浮くことを抜かしたな?」
「え? ふふ、ちがいますよ。アシュレイドからの頼みごとなど二の次です……本当に。
大好き、父上。ほんとうに、大好き」
ナシェルは首を伸ばして王の頬に軽く口づけた。
冥王は最後に何度もナシェルを抱きしめ、髪に唇を寄せ、帰りの道中の無事を願って目に見えぬ神司でナシェルの全身を豪奢に飾り立て、精霊たちを散りばめた。それは、帰省のさいごに両手に抱えきれないほどの(さほど必要でない)お土産をあれもこれもと持たされる感覚によく似ている。
しかしナシェルも王の、まさに「目に入れても痛くない」といった親心についてはよく分かる。だから溢るる王の慈愛に素直に感謝を述べ、口移しにも闇の神司を受け取って頬を夢見がちに赤らめた。
それが済むと、王は名残惜しげに二度振り返り、上等な絹織の衣を戦がせて回廊を歩み去った。
身を離した瞬間から、もう寂寥が押し寄せてくる。こういうとき、自分が冥王と神司を共有する分かちがたい伴侶であることを改めて実感する。
ナシェルは王が見えなくなるまで振っていた手をようやく下げた。王の去った回廊の端を見つめてその場に佇み、やがてとぼとぼと床を蹴るようにして王の部屋へ帯剣を取りに戻った。
「……?」
冥王の部屋の前に黒山の人だかり(魔族だかり?)ができている。一個中隊30名強の兵士と、上位階級の騎士らが部屋を覗き込んだり配置につこうと右往左往していた。ナシェルが、彼らの後ろから
「一体なんの騒ぎだ?」
と声をかけるとほぼ全員が振り返り、慌ててわらわらと跪礼した。
「こ、これは陛下!」
「いや陛下ではないよく見ろ私だ……。父上の部屋がどうかしたか」
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