泉界のアリア【昔語り】~御子は冥王に淫らに愛される~

佐宗

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第三章 蝶の行方

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 ぶるる、と身を竦ませて、ナシェルは昨夜の絶頂の記憶を脳裏から打ち払った。
 姿見から目を剥がし、膝を抱えて丸くなった。
 父はどうかしている。


 ――床に落ちているそのピンを、もう見ることができなかった。
 父は気を失ったナシェルの髪に、それを挿して出て行った。
 まるで征服の印のようにだ。
 狂気の所業のような気がしてくる。

 むろん自分だって、さいごは浅ましく腰を揺らして何度もって、悦んでいたのだけれど……。


 父と、自分。
 老いをしらぬ種族で、この世に互いしかおらぬ同族である以上、たぶん、ほぼ未来永劫、この関係を続けねばならない……。

 ナシェルも本当は父を好きだ。愛してはいる。けれど自分の中にあるその愛とは、一体どんな種類の愛だろう?
 父を“父”として、ただ尊敬し崇拝したいのではないのか?

 あまりに稚い頃から烙印を焼き付けられてきたために、“親子愛”の正常な形というものを、ナシェルは知らずにきた。

 けれどもう今は、何も知らぬ幼子ではない。
 親友ヴァニオンが彼の父親との間に築いている、無遠慮で限りなく対等で、それでいて真っ当といえる親子関係を、羨ましくさえ思うのだ。




 父は自分をどうしたいのだろう。自分のこの体を、鳴らせば響く品質のよい楽器のように造り変えてしまって、このあと何を求めるのだろう?

 時おり父のそうしたわけの分からない所業に、無性に脅威を感じるのだ。なりふり構わず、父の腕から逃げ出したくなるといってもいい。

 なにせ鏡の向こうの自分は、父をそのまま小さくしたような姿形をしていて。
 紛れもなく父と全く同じ血が流れているのだと思うと、大きくなったら己も、あのような狂気に冒されるのではないかと―――。
 そういう恐怖があるのだ。


 もう充分、父の手管に、毎夜のようにとろかされてしまっている。嗜虐的な愛に応えてしまう自分がいる。

 ナシェルは枕で頭を覆い、寝台に俯せた。声を殺して泣いた。

 あんなところで性感を感じ、快楽に乱れつくしたことへの罪悪感と、
 この先どこまで堕ちればいいのかという、恐怖で。

 これ以上進んだら、自分も、きっと父のように、狂ってしまう―――。




***



 微睡まどろみながら、ナシェルは自分の背中に大きな瑠璃色のはねが生えていると錯覚していた。
 ……どうやら、夢を見ているらしい。
 彼は翅のきれいな蝶になって、花を求めてあちらこちらを彷徨っている。

 蝶は精霊たちのようにとても儚く、取るに足らず、それでいてとても自由な存在だ。
 彼は体の軽さが嬉しくなり、籠から解き放たれたように、翅をはばたかせて奔放に常世の野を巡る。

 ここはどこだろう、幻獣界あたりだろうか……?

 幻獣界は冥界の中でも幻霧界同様、植物の多数生息する場所だ、むろん得体の知れぬ植物ばかりだが。
 ともかく瑠璃色の蝶に変じたナシェルは喉の渇きを満たすため、艶やかなる花の、うまし蜜を求めていた。

 やがて浮遊するナシェルの目の前に巨大な、紅色をした八重咲きの花が現れた。棘のある幹の先で、勝ち誇るように堂々と、一輪だけ咲いている。

 それは運命的なまでに美しい花で、ナシェルは是が非でもその蜜を吸いたいと渇望するのだが……頭の片隅では、その紅色の花の危険性に感づいている。

 その花は虫を食らう花で、雄蕊おしべには強力な麻痺作用があり、触れればたちまち花びらの獄に囚われて、邪悪な毒に翅を蕩かされてしまうのだ。

 それを知っているのに、ナシェルはその花に惹かれてふらふらと近づいてゆく自分を制することができない。

 紅の花の発する強力な芳香が、彼から自制心を奪っていた。
 紅の花は大輪の花びらを拡げてナシェルを導く。まるで絡め取るような仕草で、妖艶にナシェルを招く。

 サアオイデ、ソナタニタップリト甘イモノヲアゲヨウ……

 ナシェルは嬉々として花びらの上に降り立ち、うっとりと悩ましげな溜息をつきながら紅の花の逞しい雄蕊おしべを口に含み、甘い汁を口いっぱいにほおばる―――。

 花のほうは、可憐な蝶を補足した歓喜に奮え、大きな花びらでナシェルを包みこもうとする。甘い花蜜は神経毒。蝶をあやめ、その美しさを糧として、花はより一層咲き誇るのだ。

 己の失敗に気づいて逃れようとしても、もう遅い。
 花びらは、ナシェルをつつんでぎゅっとつぼみのように窄まる。閉じ込められたナシェルは、足もとにじわじわと翅を溶かす溶液が満ちてくるのを感じる。

 熱い、溶かされる! 溶かされて、花の一部になってしまう――

 ナシェルは花びらの檻から出ようともがき、助けてと声を張り上げる。
 ……ずいぶん長い時間囚われていたような気がする。もうだめだと諦め、気が遠くなりかけたとき、急に視界が開け、ナシェルは外気に晒された。

 何者かが大きな手でつぼみをこじ開け、ナシェルを救い出してくれたのだ。
 けれど叫び疲れたナシェルは、それが誰なのかも判らぬままぐったりと倒れ伏した。

 蝶を救ったその誰かは、ナシェルの瑠璃色の翅をこわれないようにそっとつまんで、あたたかな布の上に移動させてしてくれた。

 ――翅が壊れていないなら、また飛べるさ。元気出せよ……

 優しい声が上から降り注ぐ。
 頬に心地よい肌触りの布だった。
 うっすらとした意識のなかで、頬に触れるその布の、目にも鮮やかな緋色だけが強く印象に残った――。
 この布、どこかで見たことがあるような気がする。そう、とても身近で……。




「……あまり身が入られぬようですな、殿下?」

 ナシェルの居眠りをたしなめるヴェルキウス公ジェニウスの声はいささか尖っていた。
 はっと目を覚ましたナシェルは、とっさに背筋を伸ばす。
 びくっとした瞬間に、手にしていた羽ペンをつよく紙に押しつけてしまい、黒インクがかきかけの文字の上にじわりと染みを広げた。

「あっ……いけない、」

 インクを拭くものを探すナシェルの目前に、ジェニウスがついと自分の手巾を差し出す。
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