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第四章 明けぬ夜の寝物語
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しおりを挟む公爵家は領地の『炎獄界』とこの都に、あわせて二つの屋敷を持っている。
家長である公爵は冥王の重臣で、軍の統帥職にあることから多忙の身。よって王から直々に、王宮の中層階にも私室をひとつ賜っていて、普段の寝食は職務に就きながらそちらで済ませることが多い。
そこで別邸とよばれるこの都屋敷は主に妻の公爵夫人が切り盛りし、本邸と呼ばれる炎獄界の城館は、息子ヴァニオンが、その管理をいちおう任されている、のだが……。
(親の目がないのをいいことに、俺が本邸を奴隷小屋みたいに使っちまってる、と知ったら……親父もおふくろも多分卒倒するだろうな)
ヴァニオンは母親からの問いかけの言葉を反芻しながらその都屋敷の、離れの2階にある自室へ向かって階段をのぼる。
冥界貴族の慣例やしきたり、世間体、そういうものの全てに彼はうんざりしていた。黒天馬を駆って闇の世界を自由に翔けまわったり、乳兄弟と賭博場に繰り出して大勝負したり、場末の酒場で平民達に混じって騒いだりすることのほうが、どれだけ自分に生きている実感を与えることだろう?
絨毯の敷かれた廊下を歩みつつ、緋色の裏打ちのついた夜会用マントを外して襟元を寛げた。
『誰か、心に決めた方がいるの――?』
そう問われて、思わず同時に二人の面影を脳裏に浮かべてしまった自分がいた。
一人は名をサリエルといい、先年、運命的な出会いの末に彼が攫ってきてしまった天上界の下級神である。両親にはむろんその存在を告げていない。
炎獄界の本邸にまでは父の管理が及ばない、そのことを上手く利用して、ヴァニオンは現在本邸の離れをまるで牢獄のように造り変えてサリエルを幽閉していた。事が公になれば、天上界との間に戦が起きてもおかしくないほどの暴挙であった。
意に沿わぬ要求に断乎として応じないサリエルは、年が何度あらたまってもヴァニオンに心を開くことはなく、ヴァニオンも頑なな態度を崩さぬサリエルに苛立ち、つい横暴に振舞ってしまうことが多かった。
袋小路に迷い込んだ鼠のように、二人の関係は今も堂々巡りを続けている。
性奴のように扱い続けることで、体はヴァニオンが求めさえすれば開いてくるようになったが、心までは死ぬまで開かぬと、その薄ぺらな胸に誓っているようであった。
種族としての格はむろん天上神の方が遥かに上であるにも関わらず、下位種族である魔族に隷従を強いられているのだから、無理もないこと。
サリエルの水色水晶のような儚げな美貌と、無言のなかに反駁を込めたようなあの眼差しとが、脳裏に去来する。
美しく脆く強情な、天上界の神。
引き裂いてやりたいという冷酷な欲望と、振り向かせてみたいという熱い情念と。
そうしたものを抱えたまま……、その愛しいものの存在を家族にも告げる事が出来ずに、ヴァニオンはこの都と炎獄界と、いまひとつ重要な“暗黒界”とを行きつ戻りつして暮らしているのであった。
心に決めたひと、と云われてヴァニオンが、思わずもうひとり脳裏に浮かべてしまったのは、その暗黒界を私領とする、かの王子ナシェル殿下だった。
忠誠の対象として心に決めている、といえばそうだ。
しかし、その忠誠心は現在でも限りなく、“主従を超えた愛”に類似するものであった。
王子と自分の関係については、かつて様々に思い悩んだ時期もあった。
幼少期を共に過ごし、青年期に到るまでの長い年月においては、狂おしいまでの精神的共依存と、精神的な別離との、双方を経験し、今ではきっぱりと『親友で乳兄弟。俺達はそれ以外の関係ではない』と断言できる強さを、お互い手に入れたのだ。
そう、ヴァニオンは思っている。
しかし、王子とのあの別れをそう結論づけて己で納得しているにも関わらず、一方ではあまりの喪失感に耐えきれず、現実から逃れるように一人旅を繰り返してみたり、天神を攫ってきて囲うという暴挙に出たりと、しばらく自分でも訳のわからない精神状態に陥っていた。
そう、きっかけに過ぎないにしろ、王子への想いを忘れるためにあの者を犠牲にしたと云っても過言ではないのだ。
これだけは明らかだ。
王子を喪失したことが、自分の魂に深い刃創を残したということ。
辛うじて死んではおらぬが、ほぼ致命傷に近い心の傷だ。
王にも後でがつんと仕置きの一撃を(ぎりぎり急所を外すかたちで)喰らったが、今でも肩に残る引き攣れたような傷跡も、この凄まじい喪失感に比べたら大したものではない。肉体的な傷は、癒えていくのがこの目で判るから。
ナシェルへの、この未練――そう、未練と呼ぶ以外にない――が完全におのれの魂魄の内より消失するまでには、まだ相当の時間が必要なのだろう。
その未練が胸の内より去る頃になってようやく、自分は素直な気持ちであの天上神――この手で堕としたあの者と、向き合えるのではないかと。そう感じる。拒まれれば拒まれるほど夢中になってゆく自分が居るのも事実だが、まだサリエルに対しては挑発的で、嘲笑的に振舞ってしまう己がいるのだ。
そしてヴァニオンはこうも思う。
常どおりの何気ない気安い会話の端々に、
ふと肩と肩が触れ合った時などに見せるナシェルの表情の奥に。
恐らく王子の方も、自分と同じ想いを引き摺っているのだろうと――。
進歩が無い、と云われればそれまでだ。
神族も魔族も長命族である。地上の民が、真綿が水を吸って膨らむような速度で学習し変わってゆくのに比べれば、己らの変化、精神的成長など何と緩やかなことか。
それに、だ。
それに、一度は『王にどれだけ追っ手をかけられようとも、地の果てまでもお前を連れて逃げ抜いてみせる』とさえ心に決めた、初めての恋の相手である。(この決意のことは、ナシェルには告げていない。彼は恐らく、あのとき『単なる冒険だ、』と云ったヴァニオンの言葉を信じることにしているのだろう、今でも……)
それほどに思い詰めた相手だから、すぐに忘れろというほうが無理だ。
そしてあの激しい別れを経験した後でも、二人は何もなかったような振りをして始終つるんでいなければならないのだから。ヴァニオンが王子の乳兄弟で随従役である限りは…。
…そうして母親の何気ない問いかけをきっかけに、己の胸中に『二人の』様々な意味での“愛しい者”が共在することを思い知った彼は、その事実に自分でも半ば唖然としながら、自室に入った。
睡眠薬がわりに火酒か蒸留酒でも飲んで、さっさと眠ってしまおう。そうしたら、今夜のこともさっきの思いつきも、起きた頃にはすっきり忘れてしまえる。
夜会服の上着を脱いでゴブラン織りのソファに投げ掛け、中に着ていたシャツの釦に手をかけた所で――窓辺に人の気配がするのに彼は気づいた。
正確には窓の外、露台だ。
まさかと思いつつ窓に近づいて、鍵を外す。
玻璃窓を開けると冷たい風がさわさわと吹き込んできた。外の椎の木の、葉のざわめきと共に。
玻璃窓のひとつに背を預け、露台に腰を降ろして顔を伏せていたその人影は、鍵の開く音を聞いて顔を上げこちらを振り返った。
その煙るような蒼い双眸と目が合った瞬間、ドキンとどこかで何かの音が鳴った。
…それを気のせいだと思うことにし、ヴァニオンは辛うじて平静な声で問いを発した。
「――おまえ、こんな所で何…やってんだよ?」
対する答えはこうであった。
「見て分からぬのか……家出人が一宿を求めに来たのだ。泊めてくれるな?」
質問というより確認なのか、とにかく有無を言わさぬ物言いであった。
凄絶なまでの高慢さで「泊めて」という……、態度と発言内容のあまりにも食い違うさまが何だか可笑しく、ヴァニオンは吹き出しそうになりながら乳兄弟の冷えた肩を掴み、部屋の中へいざなった。
事情は測り知れぬが、どうせあの父王がらみなのだろう。
あえてそのことは問わず、代わりに王子の体から冷たくなった外套をはがして、自分のガウンを着せかけた。
「座れよ。何か暖かいものでも飲むか」
「うん。だがどちらかといえば酒が欲しい。そっちの方が温まる。お前は夜会で呑んできたのか?」
「いや、夜会ではそんなに呑んでない。今から寝就きに少し呑もうと思っていた所さ」
……うん、そうだよ。
ちょうど、酒でも呑んでお前への未練を気のせいだと思おうとしていた所だ。
それなのにどうしてこんなタイミングで、そんな無防備な姿で、綺麗な眸で、高貴な猫のような澄まし顔で『今宵ベッドを貸してくれ』だなんて――。
まったくそんな台詞がよく云えたものだ。
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