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第四章 明けぬ夜の寝物語
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「曠野に出るつもりだが、狩りの動向次第では魔獣界にも足を伸ばすやもしれぬ。しばらく留守にすると思うが――その様子だとそなたは、余の帰りを待たずに暗黒界に帰ってしまうのかな?」
「分かり切ったことをなぜ聞くのです」
「帰る途中で気が変わったならば、いつでも狩猟場に来ていいのだぞ。夜営の際にはそなたの分の寝台も設えておくゆえ」
ナシェルは鼻白み、返答をする気も失せた。
彼は爪先にぐりりと力を込めて身を翻し、冥王から離れた。
その瞬間、冥王が神司を弱め支配下から精霊たちを切り離した。周辺にいた闇神の精霊たちがたちまちナシェルを主神と認識し、ナシェルのほうへとすり寄って来た。そうした王のなにげない習慣的行動(もはや無意識となっている、同属性の神同士による精霊のやりとり)でさえ、今のナシェルには苛立ちの原因にしかならない。
施しは受けぬ、と言いたいところだが丁重に突き返すのも億劫なので精霊たちの好きにさせておく。
「残念だ……」
王は足の痛みを堪えるように少々前屈みになり、沈鬱な声色で云った。
「余とそなたとの間には本来、布一枚ほどの障壁もないというのに。何が、そなたをそのように意固地にさせている?」
「貴方のなさること、仰ること、全てがです! ――お先に失礼」
無言の王の視線を背に感じたまま、ナシェルは振り返ることなく中庭を後にした。
◇◇◇
王との会話はあまりにも多大なストレスを彼にもたらした。胃液が沸騰しているかのようだ。胃の腑にキリキリとした痛みを自覚する。はらわたが、変な具合に捩れそうだ。
闇の精と死の精らが後をついてくる。闇の精は王子神のストレスを感じ取りざわついているが、死の精たちときたら主神同士の口諍いなどにはまるで興味がない様子。
ナシェルはぷんぷんと頭から湯気を出しながら、大股に(そうすることで精霊たちを振り切ることができるかのように)、速歩で、内殿につながる階段を上っていった。
精神的ダメージは、ある種の徒労感となって押し寄せてきていた。
ナシェルは無駄な時間を過ごしてしまったことへの反省をも抱きながら内殿の回廊を歩んでいた。
寄り道もせず自室に引き上げても良かったが、どうせ今すぐ戻っても室内の調度品に当たり散らすだけのことなので、気分転換をせねばと内殿の中をぶらついているのだ。
――とにかくあの父王に、たとえば昨夜の仕打ち(とくに口論のあとの、柱に括りつけての放置プレイのことだ)に対する謝罪とか、なにか建設的な方向性を求めて近づいた己が悪かったのだ。甚だ考えが甘かったというよりほかない。
――あの真紅の眼差しを受けるとどうにも心拍が上がり、いつも正常な思考が働かなくなる。
こんなことなら王などまるきり無視して、女たちをあのまま侍らせておけばよかった。
体の奥の深い部分には、えもいえぬ淫欲がくすぶっている。
魔族の宮女たちを侍らせていたときには微塵も感じなかったものだ。
ナシェルはしかし、そうした感情が芽生えたのは冥王に接近したことに原因がある、とは思いたくなかった。――冥王の神司に発情したのだということを、認めたくなかったともいうべきか。
体の先端が――芯が疼いていて、とにかくすぐにでも、誰とでもいいから交わって発散したいという、悪癖に近いまでの昂ぶりが襲ってきていた。精神的な疲弊とは裏腹に。
こんな姿を誰かに見られるわけにはいかない。
ナシェルは臣下の目を避けるように、ひと気のない廊下を選んで漫ろ歩いた。
自分が大小さまざまなジレンマを抱えていることを、ナシェルはそれでも一応、認識してはいる。
王に対して否定はしたものの、嫉妬でないのならお前のその態度は一体何なのだ、と、心の奥でもう一人の自分が冷静な顔をして言う。
憎悪の対象であるべき王にあのように接近しただけで、その偉大なる神司(あるいは、フェロモン?)の誘惑に根負けし、前立腺を大いに刺激されてしまっていることも矛盾の一つ。
そしてさらには、『こんな姿を臣下に見られる訳にはいかない』と思っているにも関わらず、欲望を発散させるのに手頃な相手を求めて、気配を殺し廊下を徘徊しているという己の行動は、もうすでに矛盾をも通り越して支離滅裂だ。
なおかつ最もたちが悪いのは、誰と関係しようと、冥王と交わるときほどの性的興奮を味わうことはできないだろうという奇妙な達観が大前提となっている点だ。
自分が歩み寄りさえすれば王の手によっていとも手軽に快楽を得ることができるのに、あの王妃の存在がある以上、どうしてもナシェルはそれを欲して冥王に屈するわけにはいかないのだ。
二股なんて許せないし、ならばこそ王の相手は己でなく王妃であるべきだ。
―――抱かれたい。
―――いや、抱かれるわけにはいかない。断じて。
乱れた溜息が漏れる。
おそらく乳兄弟のヴァニオンならば、一貫性のない己の感情と欲望のつぶさを理解してくれるだろう。
もしも一時しのぎの快楽を与えるようにナシェルが命じたならば、彼は立場上、それをこなすだろう。
しかしナシェルはもう、ヴァニオンをそのように利用するわけにはいかないのだ。主君という立場をかさに着る卑怯者にはなりたくなかったから。
――『お前を今も愛しているけれど、それはもう劣情と同義ではない』とヴァニオンは云った。
ナシェルはその言葉に真摯さを感じ、心の底から彼に感謝したばかりなのだ。
昨夜はひどく酔っていたが、その会話の記憶だけは鮮明だった。
「分かり切ったことをなぜ聞くのです」
「帰る途中で気が変わったならば、いつでも狩猟場に来ていいのだぞ。夜営の際にはそなたの分の寝台も設えておくゆえ」
ナシェルは鼻白み、返答をする気も失せた。
彼は爪先にぐりりと力を込めて身を翻し、冥王から離れた。
その瞬間、冥王が神司を弱め支配下から精霊たちを切り離した。周辺にいた闇神の精霊たちがたちまちナシェルを主神と認識し、ナシェルのほうへとすり寄って来た。そうした王のなにげない習慣的行動(もはや無意識となっている、同属性の神同士による精霊のやりとり)でさえ、今のナシェルには苛立ちの原因にしかならない。
施しは受けぬ、と言いたいところだが丁重に突き返すのも億劫なので精霊たちの好きにさせておく。
「残念だ……」
王は足の痛みを堪えるように少々前屈みになり、沈鬱な声色で云った。
「余とそなたとの間には本来、布一枚ほどの障壁もないというのに。何が、そなたをそのように意固地にさせている?」
「貴方のなさること、仰ること、全てがです! ――お先に失礼」
無言の王の視線を背に感じたまま、ナシェルは振り返ることなく中庭を後にした。
◇◇◇
王との会話はあまりにも多大なストレスを彼にもたらした。胃液が沸騰しているかのようだ。胃の腑にキリキリとした痛みを自覚する。はらわたが、変な具合に捩れそうだ。
闇の精と死の精らが後をついてくる。闇の精は王子神のストレスを感じ取りざわついているが、死の精たちときたら主神同士の口諍いなどにはまるで興味がない様子。
ナシェルはぷんぷんと頭から湯気を出しながら、大股に(そうすることで精霊たちを振り切ることができるかのように)、速歩で、内殿につながる階段を上っていった。
精神的ダメージは、ある種の徒労感となって押し寄せてきていた。
ナシェルは無駄な時間を過ごしてしまったことへの反省をも抱きながら内殿の回廊を歩んでいた。
寄り道もせず自室に引き上げても良かったが、どうせ今すぐ戻っても室内の調度品に当たり散らすだけのことなので、気分転換をせねばと内殿の中をぶらついているのだ。
――とにかくあの父王に、たとえば昨夜の仕打ち(とくに口論のあとの、柱に括りつけての放置プレイのことだ)に対する謝罪とか、なにか建設的な方向性を求めて近づいた己が悪かったのだ。甚だ考えが甘かったというよりほかない。
――あの真紅の眼差しを受けるとどうにも心拍が上がり、いつも正常な思考が働かなくなる。
こんなことなら王などまるきり無視して、女たちをあのまま侍らせておけばよかった。
体の奥の深い部分には、えもいえぬ淫欲がくすぶっている。
魔族の宮女たちを侍らせていたときには微塵も感じなかったものだ。
ナシェルはしかし、そうした感情が芽生えたのは冥王に接近したことに原因がある、とは思いたくなかった。――冥王の神司に発情したのだということを、認めたくなかったともいうべきか。
体の先端が――芯が疼いていて、とにかくすぐにでも、誰とでもいいから交わって発散したいという、悪癖に近いまでの昂ぶりが襲ってきていた。精神的な疲弊とは裏腹に。
こんな姿を誰かに見られるわけにはいかない。
ナシェルは臣下の目を避けるように、ひと気のない廊下を選んで漫ろ歩いた。
自分が大小さまざまなジレンマを抱えていることを、ナシェルはそれでも一応、認識してはいる。
王に対して否定はしたものの、嫉妬でないのならお前のその態度は一体何なのだ、と、心の奥でもう一人の自分が冷静な顔をして言う。
憎悪の対象であるべき王にあのように接近しただけで、その偉大なる神司(あるいは、フェロモン?)の誘惑に根負けし、前立腺を大いに刺激されてしまっていることも矛盾の一つ。
そしてさらには、『こんな姿を臣下に見られる訳にはいかない』と思っているにも関わらず、欲望を発散させるのに手頃な相手を求めて、気配を殺し廊下を徘徊しているという己の行動は、もうすでに矛盾をも通り越して支離滅裂だ。
なおかつ最もたちが悪いのは、誰と関係しようと、冥王と交わるときほどの性的興奮を味わうことはできないだろうという奇妙な達観が大前提となっている点だ。
自分が歩み寄りさえすれば王の手によっていとも手軽に快楽を得ることができるのに、あの王妃の存在がある以上、どうしてもナシェルはそれを欲して冥王に屈するわけにはいかないのだ。
二股なんて許せないし、ならばこそ王の相手は己でなく王妃であるべきだ。
―――抱かれたい。
―――いや、抱かれるわけにはいかない。断じて。
乱れた溜息が漏れる。
おそらく乳兄弟のヴァニオンならば、一貫性のない己の感情と欲望のつぶさを理解してくれるだろう。
もしも一時しのぎの快楽を与えるようにナシェルが命じたならば、彼は立場上、それをこなすだろう。
しかしナシェルはもう、ヴァニオンをそのように利用するわけにはいかないのだ。主君という立場をかさに着る卑怯者にはなりたくなかったから。
――『お前を今も愛しているけれど、それはもう劣情と同義ではない』とヴァニオンは云った。
ナシェルはその言葉に真摯さを感じ、心の底から彼に感謝したばかりなのだ。
昨夜はひどく酔っていたが、その会話の記憶だけは鮮明だった。
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