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 ジルファンはあらかじめ用意していた黒いマントを頭からすっぽりかぶると夜の闇に紛れて修道院を出た。

 金と黒色の髪はマントの中に押し込み、素早い動きで森に入って行く。

 森を抜けて行けば王宮の裏手に出る。

 そこから柵を乗り越えて塔の北側に出た。

 そして離宮を目指した。

 何十年ぶりかの王宮はあの頃とあまり変わっていない気がした。



 ジルファンにとって離宮はあの忌々しい閨事が繰り返された場所だった。

 二度と近づくことはないと思っていたのに…

 自分でも驚く。彼女のためならそして愛しい息子のためならどんな事でもしてやりたい。

 そんな考えを自分が持つとは夢にも思っていなかった。



 離宮には表門に見張りの近衛兵が立っておりジルファンは裏側から忍び込んだ。

 ずっと前から離宮の裏の柵は一部が壊れていたが今もそのままだったとは…

 あまりのお粗末さに驚いた。まあ、王宮に忍び込もうってやつはさほどいないだろうから無理もないか…



 裏手の戸口の鍵を魔源の力で壊すとすぅっと中に忍び込む。

 ルヴィアナの匂いをたどって暗い廊下を忍び足で進んで行く。

 そして彼女の居場所を突き止めた。

 今日のジルファンはいつにもまして魔獣の本能を最大限使っていた。そうしないとルヴィアナの居場所も見つけられないし、敵に対処することも出来ないと思ったからだ。



 もっとも幼いころはそんな事もわからずかんしゃくを起こして魔源の力を暴走させてしまう事も度々あった。だが、そんなときは鞭で皮膚が焼けつきそうになるほど打たれた。

 そしてジルファンはこの力を出してはいけないと学習していった。

 そしてある時気づいた。

 マラカイトを持っていると魔獣化しないことを。

 マラカイトは魔素の力を奪う事が出来るのだと知った。

 

 だからジルファンは、それからはマラカイトを肌身離さず身に着けるようになった。

 人と変わらないと見せるために…

 だが、ジルファンはときどき無性に我慢できないことがあると、どうしようもない怒りに身を任せて離宮の壊れた柵から抜け出して森に行きそこで魔源の力を爆発させたりもした。

 大きな木がなぎ倒されひどいときは雷鳴がとどろいた事もあった。

 いつだったかマラカイトを持ったまま森に行っていつもより大きな力を爆発させたことがあった。

 ジルファンは驚いた。

 マラカイトは魔獣の力を抑制するものだとばかり思っていた。だが、そうやらそうではないと気づいた。

 マラカイトは魔素の力を抑えたり、増幅させたりできるのだと。それは自分の気持ち次第なのだと言う事も知った。




 ジルファンは離宮の見慣れた廊下を歩きながらそんな事を思い出していた。

 あれはもう過去の事…

 それにしてもランフォードの妹がいけにえとして魔族に差し出されていたとは知らなかった。

 俺のような思いは二度と誰にもさせたくない。

 これが片付いたら、魔族の森に行ってそのコレットとか言う妹を助け出すつもりだった。

 そして魔族の王に言おう。俺がどんなにみじめで辛い日々を過ごして来たか、もう二度とそんな事をするなと。

 そして二度と人間と関わるなと言うつもりだった。

 もうたくさんだ。こんな思いをするのは俺が最後でいい。



 そっとルヴィアナの部屋の扉を開ける。

 窓から月光の薄明りが差し込みルヴィアナのベッドを薄っすらと映し出している。

 ルヴィアナは青白い顔で眠っているように見えた。

 そっと脚を踏み入れるとルヴィアナに近づく。

 「ルヴィアナ?ルヴィアナ…」

 声を掛けるが反応はない。息をしているか口元に手をかざして行きをしていることを確かめる。

 呼吸は落ち着いていて特に問題はなさそうだった。

 もう一度今度は肩に手をかけて揺すってみる。

 「ルヴィアナ。ルヴィアナ目を覚ませ!」大きな声はで瀬ないので耳元で囁くように声を掛ける。

 何の反応もなかった。

 不意に鼻腔に何やら胡散臭い匂いがした。

 こ、これは…きっとトリカブトの毒…あのくそ王妃の野郎こんな毒でルヴィアナを殺そうとしたのか。

 途端にルヴィアナが最後に王妃と交わしていたやり取りが脳内に流れ込む。



 色々な事を経験して来たジルファンだったがこの話にはたまげた。

 なんだってディミトリーは王の子供ではないだって?それにカルバロスがこの国を侵略するつもりだと?

 おいおい、冗談だろう?こんな恐ろしい計画があったなんて…そりゃルヴィアナを殺そうとしても無理はない。

 そうはさせるか。そうとなったらルヴィアナを助けて…


 いや、放っておけばいい。いい気味だ。どうせランフォードもルヴィアナももう王家に戻る気はないだろう。レントオール国なんか戦争で混乱すればいいんだ。

 ふたりなら魔族の森で暮らすこともできる。なにせ俺の息子とルヴィアナにも魔源の力を莫大持っているんだからな。


 「ルヴィアナすぐに助ける。俺と一緒にランフォードのところに行こう。さあ…」

 「何者?お嬢様から離れなさい!」

 薄暗い影から一人の女が声を上げた。



 マーサはルヴィアナの様子を見に来たのだった。

 「あんたは?まあいいから落ち着いてくれ。俺は彼女を助けに来た。大きな声を出すな!」

 「なにを…お嬢様をどこに連れて行く気です?」

 「俺は彼女の知り合いだ。ルヴィアナはとてもいい人で…それにあんたは信用できる人だ。そうだろう?」

 ジルファンにはマーサがルヴィアナの事を本心案じているとすぐに分かった。

 「あなたにはお嬢様を助けることが出来るとおっしゃるのですか?」

 「ああ、ルヴィアナはトリカブトの毒を盛られたんだ。連れて帰って胃をきれいにする。そして毒消しの薬草も飲ませるつもりだ」

 そんな事をしなくても連れて帰って魔源の力を使えばいいのだが…

 「では、私も一緒に行きます。お嬢様を一人で行かせることは出来ません。ですがどうかお嬢様を助けて下さい」

 「もちろんだ。じゃあ、あんたも来ればいい」

 ジルファンはとっさにそう判断する。



 「見張りがいつ気づくともしれない。さあ急ごう」

 マーサは急いで身支度をする。ルヴィアナは寝間着のままなので上にガウンを着せてその上にマントを掛ける。

 ジルファンがルヴィアナを背負うとマーサは後ろからついてくるよう言われた。

 ルヴィアナの着替えを持つとマーサは急いでついて行く。

 幸いルヴィアナがこのような状態なので見張りは表門にだけいて他の見張りはいなかった。

 裏口から抜け出すのは簡単だった。離宮を出て北の塔のある方角に走る。

 そしてジルファンは来た道を辿るように急いだ。

 ジルファンは魔源の力を引き出せば済むことなのだが…問題はついてきた侍女が柵を乗り越えられるかだった。

 いくら裏門とはいえ、見張りの立っている門を通るわけにはいかなかった。



 「俺はこの柵をルヴィアナを背負って超えれるがあんた一人で登れるか?」

 「私がこの柵を…?無理でしょう」

 「俺の名はジルファン。明日朝早くに王宮を出る事は?」

 「はい、屋敷に帰って来ると言えば大丈夫かと思います」

 「では、あなたを迎えに来る。ただし誰にも言うな。この事はあなたと俺だけの秘密。約束してくれるか?」

 ジルファンの心臓はぞわりと蠢いた。この女を信用したが本当に大丈夫だろうか?ふと浮かんだ不安がジルファンを怯えさせた。

 人間は裏切る生き物だ。ジルファンは散々そうやって痛めつけられてきた。

 過去の記憶が彼の心に告げる。ここで女を殺した方がいいのではと…



 「はい、約束します。あなたの名前はお嬢様から伺っております。修道院にいらしたんですよね?お嬢様はそれはもうあなたが悲痛な過去を生きて来られたと心を痛めておられて…だからあなたはお嬢様を助けて下さるんですよね?信じてもいいのですよね?このままお嬢様を行かせても大丈夫ですよね?もしそうでないなら今ここで大声を上げます」

 マーサの心臓も飛び上がるほど脈打っていた。まさか自分がこんな事することも信じれなかったし、この男を信じている自分もおかしいのかとも思った。

 でも、ずっと眠ったままのお嬢様を見ているのはもう辛くて…助けてくれるというこのジルファンを信じてみたいと思うのも無理はなかった。

 だってお嬢様が信じた人ですもの、きっと大丈夫です。



 「あんた名前は?いい度胸している。確かにルヴィアナは預かる。毒を完全に抜くことが出来るかはやってみなけりゃわからない。でも、最善と尽くすと約束する。そしてあんたを明日の朝迎えに来ると約束する」

 「お願いします。私はマーサと言います。ジルファン様どうかお嬢様をお願いします。あの、これを…お嬢様がとても大切にしておられてたんです。さあ、早く。私は朝まで気づかれないようにしておきますから」

 マーサがジルファンに突き出したのは、着替えとあのマラカイトのお守りだった。



 ルヴィアナあんたって人は…こんなものを大切にしててくれたのか。胸がせり上がってくるような気分になり目の奥が熱くなる。

 「ああ、頼んだ。では…ルヴィアナはきっと助ける」



  ジルファンは魔源の力をぐっと押し出すようにして柵にかけた脚を蹴り上げた。 

 背負っているルヴィアナはかなり重いはず、とても人間の出来る事ではなかった。

 だが、マーサは何も言わずにむしろ彼の脚を押し上げるのを手伝っていた。

 そして柵を無事に乗り越えるとジルファンは森に向かって走り出した。

 マーサが深々と頭を下げているのがジルファンの視界にかすかに入っていた。

 こんな俺を見てもまだ信じてくれるとは…さすがルヴィアナの侍女だ。

 そんな事を思いながらジルファンはにやりと笑っていた。

 背中に背負ったルヴィアナは決して声を出すことも動くこともなかった。ただ体に彼女の重みだけがあった。

 ジルファンはいつの間にか泣いていた。

 彼女をこんな目に合わせるなんて…絶対に許せない!

 左手にはあのマラカイトのお守りを握りしめていた。



 
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