追想

秋音なお

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俯瞰している。

ボロボロだ。

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 朝、起きたついでに頭を搔く。
 後頭部の右側に跳ねた髪が一束あった。
 本来の髪の向きへ戻るよう撫でるがだめだ。
 思い虚しく、跳ね上がるように髪は逆立つ。
 こうなると手強いし厄介なんだよな。
 ため息をついて洗面所へと向かった。

 ……はぁ。

 こいつさえなければ着替えるだけで買い出しに行けたのに。
 髪を整えるのは簡単だけど、やらないとと思うとめんどくさい。

 ついてない。

 鏡の前に立って髪を濡らす。
 ついでに顔を洗う。
 春先の水道水はまだ冷たい。
 かすかにくすんでた意識がぴしゃりと冴える。

 髪をドライヤーで粗雑に乾かす。
 乱暴な温風がぴりぴりと目にしみた。

 しばらく乾かしてやると髪は言うことを聞いて元に戻る。
 またひとつ、ため息をついて洗面所を出た。

 ……はぁ。

 キッチンへ向かい、紙パックの牛乳を冷蔵庫より取り出す。
 コップが棚からなくなっている。
 使い切ったらしく、コップがシンクに眠っている。
 わざわざ洗うのはめんどくさい。
 紙パックにそのまま口をつけて飲んだ。
 また、ため息をひとつ。

 ……はぁ。

 口元にできた白髭を拭う。
 牛乳を冷蔵庫にしまう。
 テーブルに置かれた財布の中身を確認する。
 所持金はたったの数百円。
 買い出しの前にATMに寄らなくてはならない。
 昨夜、同じことを思っていたような気がする。
 あぁ、またひとつ工程が増えた。
 めんどくさい。
 ため息が止まらない。

 ……はぁ。

 整えたばかりの頭を抱える。
 両手でぐちゃぐちゃに、もみくちゃにする。
 上手くいかない。
 物事がすんなりと進まない。
 それら全てが過去の自分が原因であることもわかっている。

 だから一層苦しいのだ。

 やるせなくて、情けなくて。
 虚しくて、めんどくさくなるのだろう。

 自分の吐いたため息に溺死しそうだ。
 押し潰され、圧迫死してもおかしくない。
 呑み込まれ、嘔吐するようにため息がもうひとつ。

 ……はぁ。

 畳まれていたのか、或いは綺麗に脱ぎ捨てられていたのか。
 どちらとも言えないシャツとパンツを床から拾う。
 無気力に着替える。
 シャツの首元がよれててだらしない。
 結構気に入っていたのに。
 まだ買ってそんなに経たないんじゃないっけ。
 そんな安売りされてたやつだっけ。
 いわゆる安物買いの銭失いってやつかな。
 そもそもどこで買ったっけ。
 てか、考えたら買った記憶もないんだけど。

 まぁいいや。

 これも今日脱いだら部屋着にするか捨てよう。
 新しい服をそろそろ買わないといけない。
 買う必要のあるものばかりが増えていく。
 一生満たされない様子はまるで僕の人生だ。

 なんて、こんな独白が一体なんの利益を生むんだろう。
 誰も聞かない愚痴を、鬱憤を吐き出す日々。
 生産性のない毎日。
 意味もない日々に、ため息がこぼれる。

 ……はぁ。

 僕が患っているのは鬱なんだろうか。
 精神疾患と分類して片付けられるようなものなんだろうか。

 教えてくれよ、フロイト。
 そのまま正解へと導いてくれ。

 僕の憂鬱は誰のために抱えているんだ。
 この埋まらない穴は、誰のために空いたんだ。

 僕はずっと喉が渇いている。
 目の前に水があっても、柄杓にも穴が空いているんだ。
 水を飲みたくても掬えないんだ。
 ずっと喉が渇いている。
 運良く飲めたとしても、胸の穴から水が漏れてしまう。
 僕はずっと満たされない。
 なのに、穴の空いた柄杓を握り続けている。
 これにしか縋ることができず、固執している。
 なにも変わりはしないのに、あの日からずっと。
 言葉は出なくて、声にもならなくて。
 ため息しか出てこない。

 ……はぁ。

 結局買い出しも大して上手くいかなかった。
 卵を買うつもりだったのに、納豆を買っていた。
 マヨネーズは備蓄分もあることを忘れていた。
 買いたかった白米は物流の影響で在庫がなかった。
 インスタントコーヒーは値上げしていた。
 代わりに別の安いメーカーのものを買ってみたら不味かった。
 結局捨てる羽目になった。

 人生に晴れ間がない。
 雨降らずとも、雲が一面を覆い尽くしている。
 空の青すら忘れてしまいそうだ。
 そもそも、空は本当に青いのだろうか。
 僕だけが世界からズレているのだろうか。
 本当は周りだけがズレているのではないだろうか。
 僕だけが正しくある少数派なのではないだろうか。

 いや、ズレているのは僕か。
 ズレているんだろうな、僕が。
 ズレているんだよ、本当に。

 呼吸のようなため息をあとひとつ。

 …………。

 もうため息も出なかった。
 ため息のストックすら切れてしまった。
 僕は本当に空っぽになってしまった。
 人間の形をした薄っぺらい抜け殻。
 幼子の力で簡単に潰れるほどの脆いもの。
 人間と呼んでいいのかわからないレプリカ。
 花散らしにでも吹かれたい気分だ。

 …………。

 画面の割れたスマートフォンをいじる。
 通知欄は空っぽだ。
 閑散とした空間。
 一人の女性が写る待受画面。
 孤独を噛みしめながら見つめる。
 ずっと僕はその事実にわからないふりをしている。

 …………。

 声も出ない。
 出なくなってしまったのは、あの日からだ。
 一生分くらい、吐いたんだろう。
 そしたら穴が空いていた。
 本当の僕はもっとまともだった。
 君の目にどう写っていたかなんて今更わからないが。
 でも少なくとも今よりまともだった。
 今の僕はただの廃人だ。
 もう今更の話か、こんなのは。

 …………。

 さて、話を変えよう。
 夕飯に、一人前のカレーを作ろう。
 ルーは甘口でいいや。
 もう僕の好みに全て委ねていいのだから。
 玉ねぎが飴色になるまで炒めよう。
 じゃがいもは溶けるくらい煮込もう。
 牛肉はたくさん入れちゃえ。
 サラダなんか添えるもんか。
 栄養バランスなんて今日くらいいいじゃないか。
 どうせ、誰も咎めやしないんだから。

 …………。

 できたカレーを炊きたてのご飯にかける。
 スパイスの香りに包まれる。
 行儀が悪いがカレーはキッチンで食べることにした。
 テーブルまで向かうことがめんどくさかった。
 熱々のカレーをスプーンで掬う。
 猫舌の僕は数回、息を吹きかけてそれを冷ます。
 ゆっくりと口へ運ぶ。
 咀嚼する、飲み込む。
 息を吐く。

 …………。

 独りは寂しい。
 君のいない日々を明日も繰り返す。
 僕はこうやって、抜け殻のように生きていく。
 あと何度繰り返せば、独りに慣れるんだろうか。

 …………。

 カレーが美味しくないのは、君がいないからかな。
 君がいてくれたら、なんて答えたんだろうね、これには。

 …………。

 そんなことを思いながら、僕はカレーを食べている。
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