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俯瞰している。
毒殺
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目の前のベッドに一人の患者が眠っている。
小さく質素な個室で独り眠っている。
寝息も立てず、しんと静かに。
病的な真白の肌に浮き出た鎖骨、艶のない黒の長髪。
もう、人生の終わり間際のような少女。
とても未来なんて言葉の相応しくないような風貌。
もう、食事もずっと摂っていない。
目は見えなくなり、声もほとんど出なくなっている。
最近になって聴力の低下も見られてきたらしい。
一日のほとんどを死んだように眠って過ごすばかり。
たまに起きたところでなにかできるわけでもない。
自分のことを自力で満たすこともできなくなっていた。
少女は生きていて、今幸せなのだろうか。
何のために、生き続けているのだろうか。
生きてくことを、選んでいるのだろうか。
私には、正直わからない。
私ならとっくに死んでいる。
殺してくれ、と頼んだに違いない。
こんな日々に耐えられない。
終わりも見えず、繰り返すことに意味を見出せない。
それとも少女も同じ気持ちなのだろうか。
本当は死にたいのだろうか。
死にたくとも、こんな体では希死念慮すら伝えられないのか。
それほどまで、弱ってしまっているのだろうか。
それが、私にはわからない。
少女のみが知る心象。
知りたいようで、知ることが怖い。
夜がそんな私たちを包み込んでいる。
「……ん」
少女の目が開いた。開いたと言っても私のことが見えるわけではない。少女はもう、完全に視力を失っている。目を開いたところで、少女の視界に広がるのはただの常闇。なにもない黒一色。無の空間。いや、少女の人生をそんな生ぬるい一言で片付けてしまってもいいのだろうか。
少女の見ていた黒というのは、絵の具チューブから出したようなインスタントな黒ではない。多種多様、色とりどりの絵の具を少しずつ用意し、それらを筆にてグチャグチャに混ぜ合わせたような、作られた黒。重く粘りつくような黒。少しずつゆっくりと、ただし確実に、着実に濁り、逃げる隙もなくたどりつくしかないような絶望の黒。光のない、陰のような黒。この黒の質量こそが少女の人生であり、足取りだと思った、思いたかった。
少女の顔がこちらの方を向いた。偶然や気のせいではない。見えなくとも、私がここにいることを少女はわかっているのか、焦点の定まらない瞳で私の姿を捉えている。
「……ごめん、起こしちゃった?」
少女は小さく二度、首を横に振った。そしてまた、私の方を向く。まるで私の姿が見えているかのように。うっすらとパジャマの下から見えた鎖骨は、この前よりも溝が深くなったように思った。これもひとつの少女の体調のバロメーター。また痩せてしまったんだろう。胸が痛む。
少女は孤独だ。
いっそ、捨て子という認識でもいいのかもしれない。
数ヶ月前にこの病院へと少女はやってきた。
少女の母親がここにつれてきた。
少女には何も説明をせず、最後にハグだけ残し、逃げるように帰った。
少女はずっと、ずぅっと、母親のことを待っているというのに。
それでも母親の姿が少女の瞳に映ることはなかった。
少女はそれでも気丈に振る舞った。
母親を健気に待っていた。
だが、心よりも先に体が悲鳴を上げた。
食事が喉を通らなくなり、声が出づらくなり、
綺麗な碧眼は視力を手放してしまった。
心が強かった分、体へと負担が行ってしまった。
いや、少女の心は本当に強かったのだろうか。
心が気丈を装ったからこそ、体が壊れたのではないだろうか。
それすらも定かではない。
わからない。
少女は胸の内を何も話さなかった。
ずっと独りで抱え、自身のことは一切口にしなかった。
少女がこぼすのは、言葉未満の吐息のような憂いだけ。
それがずっと部屋の中に溶けていくだけ。
看護師の中でも、これが悩みの種だった。
「……せん、せ」
「な、なぁに…?」
「……こっ、ち、きて」
少女が枯れるような声を絞る。
唇はもう、あまり動かなくなっていた。
「ぎゅ、して…」
「……私、でいいの?」
「せん、せ、が…」
紡ぐ言葉の数にも限界が出てきたのか、少女はそこまでを言いかけると、残りはささやかな頷きで表した。もう、そんな些細なことにすら難しさを覚えるようになってしまったのか。
「……うん、いいよ。
………せんせいで、いいなら」
私は断りを入れ、少女の体に触れた。抱きしめるのであれば、まずは少女のことをベッドに座らせる必要があると思った。
介助の要領で少女の体に触れていくのだが、その度に私は嫌な不安に包まれていた。体は細く、薄く脆く、見た目以上に軽かった。怖いくらいに重さを感じない。手が質量を感じ取ってくれない。最早、私の感覚が間違っているのではないかとすら思った。
そうして触れていく中で、苦しくも私は母親の逃げた気持ちを再認識していた。母親は帰ってこないのではない、逃げてしまった。きっと怖かった。自分の娘が弱っていく姿を、死へと近づいて行くことで人間らしさを失っていくその過程を、見続けることしかできない虚しさを。だから、逃げるように少女を置いて行った。言い訳のように捨てて行った。
そんな母親のことを、少女はどのように思っているんだろうか。
恨んでいるのだろうか。
もう忘れてしまったのだろうか。
考えようと思ったがやめた。
こんなこと、考えるだけつらい。
私の心が持たなくなってしまう。
「………じゃあ、ぎゅってするね」
少女が頷くのを確認してから私はゆっくりと、遠慮がちに、不器用に、覆うようにその小さな肩を抱く。本当に小さな体だった。薄くて存在感のないような、絵を抱いているような、違和感のような不安。それが悲しくて、やるせなくて、気づけば両手いっぱいに少女の体を包んでいた。少女の吐息が、ほんのり温かく耳を掠める。
生きている、少女はまだ生きている。
こうしてちゃんと生きている。
なのにどうして、こんなにも心臓が締めつけられてしまうんだ。
泣いてしまいそうになるんだ。
泣いてはいけない。
泣いてしまっては、ベールが剥がれてしまう。
少女の心を震わせてしまう。
少女は気丈に振る舞っているんだ。
大人の私だって、少女に倣って気丈でいなくてはならない。
それが、私にできる最大の温もりだから。
そう思うのは、ただのエゴかもしれないけれど。
「……ありがと、せんせ」
耳元で言葉に音が乗ったような声がした。この距離だからこそ、かろうじて聞き取れるような声量。
「…………これくらい…」
骨ばった背中を優しくさする。体が硬い。
肌の下にある骨の主張が強すぎる。
病気というのは残酷だ。
どうしてこんなにも露骨に絶望を与えてくるんだ。
少女を構成するものが全て、悲しみにしか見えなくなる。
「…………あの、ね」
少女は、振り絞るように言葉を紡いだ。
「おかあさん、ありがとう、
……………………………………だいすき」
少女の言葉が鼓膜を揺らすのが先か、後か。
少女の体がだらりと私へもたれかかる。
私の胸へと、還ってくる。
声が出ない、出るはずがない。
どうして。……どうして、そんな言葉が出るんだ。
喉から溢れようとする言葉が痛い。
涙なんて出るものか。
私は最後まで偽りのような母親なんだ、泣く資格などない。
言い訳のような愛でしか、愛せない母親だ。
少女が腕の中で亡くなった。
私の娘が、私の体に包まれて亡くなった。
そんな現状にどこか、安堵してしまう私がいる。
小さく質素な個室で独り眠っている。
寝息も立てず、しんと静かに。
病的な真白の肌に浮き出た鎖骨、艶のない黒の長髪。
もう、人生の終わり間際のような少女。
とても未来なんて言葉の相応しくないような風貌。
もう、食事もずっと摂っていない。
目は見えなくなり、声もほとんど出なくなっている。
最近になって聴力の低下も見られてきたらしい。
一日のほとんどを死んだように眠って過ごすばかり。
たまに起きたところでなにかできるわけでもない。
自分のことを自力で満たすこともできなくなっていた。
少女は生きていて、今幸せなのだろうか。
何のために、生き続けているのだろうか。
生きてくことを、選んでいるのだろうか。
私には、正直わからない。
私ならとっくに死んでいる。
殺してくれ、と頼んだに違いない。
こんな日々に耐えられない。
終わりも見えず、繰り返すことに意味を見出せない。
それとも少女も同じ気持ちなのだろうか。
本当は死にたいのだろうか。
死にたくとも、こんな体では希死念慮すら伝えられないのか。
それほどまで、弱ってしまっているのだろうか。
それが、私にはわからない。
少女のみが知る心象。
知りたいようで、知ることが怖い。
夜がそんな私たちを包み込んでいる。
「……ん」
少女の目が開いた。開いたと言っても私のことが見えるわけではない。少女はもう、完全に視力を失っている。目を開いたところで、少女の視界に広がるのはただの常闇。なにもない黒一色。無の空間。いや、少女の人生をそんな生ぬるい一言で片付けてしまってもいいのだろうか。
少女の見ていた黒というのは、絵の具チューブから出したようなインスタントな黒ではない。多種多様、色とりどりの絵の具を少しずつ用意し、それらを筆にてグチャグチャに混ぜ合わせたような、作られた黒。重く粘りつくような黒。少しずつゆっくりと、ただし確実に、着実に濁り、逃げる隙もなくたどりつくしかないような絶望の黒。光のない、陰のような黒。この黒の質量こそが少女の人生であり、足取りだと思った、思いたかった。
少女の顔がこちらの方を向いた。偶然や気のせいではない。見えなくとも、私がここにいることを少女はわかっているのか、焦点の定まらない瞳で私の姿を捉えている。
「……ごめん、起こしちゃった?」
少女は小さく二度、首を横に振った。そしてまた、私の方を向く。まるで私の姿が見えているかのように。うっすらとパジャマの下から見えた鎖骨は、この前よりも溝が深くなったように思った。これもひとつの少女の体調のバロメーター。また痩せてしまったんだろう。胸が痛む。
少女は孤独だ。
いっそ、捨て子という認識でもいいのかもしれない。
数ヶ月前にこの病院へと少女はやってきた。
少女の母親がここにつれてきた。
少女には何も説明をせず、最後にハグだけ残し、逃げるように帰った。
少女はずっと、ずぅっと、母親のことを待っているというのに。
それでも母親の姿が少女の瞳に映ることはなかった。
少女はそれでも気丈に振る舞った。
母親を健気に待っていた。
だが、心よりも先に体が悲鳴を上げた。
食事が喉を通らなくなり、声が出づらくなり、
綺麗な碧眼は視力を手放してしまった。
心が強かった分、体へと負担が行ってしまった。
いや、少女の心は本当に強かったのだろうか。
心が気丈を装ったからこそ、体が壊れたのではないだろうか。
それすらも定かではない。
わからない。
少女は胸の内を何も話さなかった。
ずっと独りで抱え、自身のことは一切口にしなかった。
少女がこぼすのは、言葉未満の吐息のような憂いだけ。
それがずっと部屋の中に溶けていくだけ。
看護師の中でも、これが悩みの種だった。
「……せん、せ」
「な、なぁに…?」
「……こっ、ち、きて」
少女が枯れるような声を絞る。
唇はもう、あまり動かなくなっていた。
「ぎゅ、して…」
「……私、でいいの?」
「せん、せ、が…」
紡ぐ言葉の数にも限界が出てきたのか、少女はそこまでを言いかけると、残りはささやかな頷きで表した。もう、そんな些細なことにすら難しさを覚えるようになってしまったのか。
「……うん、いいよ。
………せんせいで、いいなら」
私は断りを入れ、少女の体に触れた。抱きしめるのであれば、まずは少女のことをベッドに座らせる必要があると思った。
介助の要領で少女の体に触れていくのだが、その度に私は嫌な不安に包まれていた。体は細く、薄く脆く、見た目以上に軽かった。怖いくらいに重さを感じない。手が質量を感じ取ってくれない。最早、私の感覚が間違っているのではないかとすら思った。
そうして触れていく中で、苦しくも私は母親の逃げた気持ちを再認識していた。母親は帰ってこないのではない、逃げてしまった。きっと怖かった。自分の娘が弱っていく姿を、死へと近づいて行くことで人間らしさを失っていくその過程を、見続けることしかできない虚しさを。だから、逃げるように少女を置いて行った。言い訳のように捨てて行った。
そんな母親のことを、少女はどのように思っているんだろうか。
恨んでいるのだろうか。
もう忘れてしまったのだろうか。
考えようと思ったがやめた。
こんなこと、考えるだけつらい。
私の心が持たなくなってしまう。
「………じゃあ、ぎゅってするね」
少女が頷くのを確認してから私はゆっくりと、遠慮がちに、不器用に、覆うようにその小さな肩を抱く。本当に小さな体だった。薄くて存在感のないような、絵を抱いているような、違和感のような不安。それが悲しくて、やるせなくて、気づけば両手いっぱいに少女の体を包んでいた。少女の吐息が、ほんのり温かく耳を掠める。
生きている、少女はまだ生きている。
こうしてちゃんと生きている。
なのにどうして、こんなにも心臓が締めつけられてしまうんだ。
泣いてしまいそうになるんだ。
泣いてはいけない。
泣いてしまっては、ベールが剥がれてしまう。
少女の心を震わせてしまう。
少女は気丈に振る舞っているんだ。
大人の私だって、少女に倣って気丈でいなくてはならない。
それが、私にできる最大の温もりだから。
そう思うのは、ただのエゴかもしれないけれど。
「……ありがと、せんせ」
耳元で言葉に音が乗ったような声がした。この距離だからこそ、かろうじて聞き取れるような声量。
「…………これくらい…」
骨ばった背中を優しくさする。体が硬い。
肌の下にある骨の主張が強すぎる。
病気というのは残酷だ。
どうしてこんなにも露骨に絶望を与えてくるんだ。
少女を構成するものが全て、悲しみにしか見えなくなる。
「…………あの、ね」
少女は、振り絞るように言葉を紡いだ。
「おかあさん、ありがとう、
……………………………………だいすき」
少女の言葉が鼓膜を揺らすのが先か、後か。
少女の体がだらりと私へもたれかかる。
私の胸へと、還ってくる。
声が出ない、出るはずがない。
どうして。……どうして、そんな言葉が出るんだ。
喉から溢れようとする言葉が痛い。
涙なんて出るものか。
私は最後まで偽りのような母親なんだ、泣く資格などない。
言い訳のような愛でしか、愛せない母親だ。
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