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岸根リョウという作家がいた。
春を待つ。
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僕の好きな人は、長い黒髪の女の子。
ぷっくりとした涙袋と淡く澄んだ瞳。
舌っ足らずな言葉を紡ぐ小さな唇。
いとも簡単に紅色に染まってしまう柔らかな頬。
天使と例えるに相応しい背格好。
吐いた言葉が僕の鼓膜を揺らす、その心地よさ。
脳裏をちらつく気分屋の君はまるで子猫のよう。
制服を脱いだ背中はひとつ大きく見える。
僕の好きな人は、そんな十月生まれの女の子。』
万年筆を机に置く。
ぐっ、と背を伸ばす。
肩の関節が小気味よく鳴る。
君のことを、またひとつ想っている。
考える。
右手が、そわそわとむず痒くなる。
衝動的に、恣意的に、万年筆を握りなおす。
文字を紙面に宿す。
文章が君のことを魅せる。
またひとつ、記憶を掬う。
そっと、紙へと染み込ませる。
文字となって、君になる。
花のような言葉たちが広がる。
それらを集め、花束に見立てる。
褪せたとて、枯れぬ花束が出来上がる。
僕はそれを、左心房の隅っこで密かに育てている。
『素敵なことはこの際言うまでもない。
いや、言い表すべきだろうか。
だが、伝えようにもこれでは紙面に余裕がない。
君のことを言葉ごときが再現できるだろうか。
そんなにもありきたりなわけがない。
君の人生は今宵も美しい月明かりのようだ。
海に浮かぶ、揺蕩うような月こそが君だ。
或いは、君は藍色の宇宙の果てで眠っている。
いつかこの星に届くであろう光を放つ蒼い一等星。
僕にはそれらが等しく、たまらなく愛おしいんだ。』
夜は黒く、鋭く冷たい。
三月といえど、夜は寒い。
僕の肌を空気が蝕んでいる。
卓上の電子時計に目が行く。
十二時を過ぎる少し手前。
湯気の立つマグカップを口へ傾ける。
深い苦味で満たされる。
目が冴える。
吐く息すらも黒く染まって見える。
右手の物足りなさに気づく。
指先まで白く、悴んでいる。
部屋は独り、静けさに包まれている。
僕はそれを、日常と呼んでいる。
『だからこそ、この距離がなによりも身に染みる。
部屋の中で、僕は孤独を謳っている。
君のことばかり考えて過ごしている。
触れようと手を伸ばし、右手が宙を泳ぐ。
影をかすめて、なにもなかったように終わる。
僕はそれが苦しい。
この幻想こそが僕らの愛で孤独だ。
左胸に棲んだ君が痛くてたまらない。
君を想い、生きる日々こそ心臓だ。
行き場のない右手を使って僕は 』
「おまたせ。ごめん、電話かけるの遅くなっちゃった」
「あ、いや。全然大丈夫だよ」
「ほんと? ……眠くない?」
「大丈夫大丈夫。ちょっと書きたいものもあったし」
「……あ、もしかして新しい小説?」
「んー、まぁ、そんな感じ、かなぁ」
「え、楽しみ。完成したら見せてくれる?」
「そ、それはどうしようかなぁ」
「いいじゃん。けちー」
「え、その言い方はひどくない?」
「ひどくなーい」
「えー。……んー、じゃあ、気が向いたら、ね」
「やったー」
「……そういえば、引越しの準備、順調そう?」
「あ、そうそう。今日お皿とか買ったよ」
「お、いいね。どんなの?」
「え。どんなの、って、普通のだよ? どこにでもありそうなやつ」
「いやいや。もうちょっとあるじゃん。ほら、色とか」
「色って言われても白とかだし、こればっかりは普通としか言いようがないというか…」
「あー……たしかに、これは質問が悪かったかもしれない」
「でしょー?」
「……なんか、そういうの聞くともう少しって感じがするね」
「長かったもんね」
「ほんと長かった」
「でももうあとちょっとだよ」
「まぁ、そのあとちょっとも結構長いけどね」
「言えてる言えてる」
「……まぁ、でもやっとだよ」
「うん。……あなたの街に行くよ。あなたに会いに行く」
「……うん。待ってる」
「そしたらデートしよ。初めましてだけど大丈夫かな」
「大丈夫だよ」
「ほんとかな。私、あなたが思ってる程かわいい女の子じゃないよ?」
「そんなことないけどなぁ」
「だって、あなたに見せてるのは加工した写真ばかりだもん」
「そう言われたとしても、僕は君のことが大好きだよ。愛してる」
「えー、好き」
「かわいいなぁ」
「えー、じゃあ、化け物みたいなブスでも変わらず愛してくれる?」
「んー……、やっぱさっきのなかったことにしてもいい?」
「え、うわ、最低…」
「いやいや、冗談だよ!? どんな君も愛するよ!?」
二人の笑い声が電話越しに混ざる。
僕はその音に紛れるよう、半紙を引き出しの奥へと忍ばせる。
いつか、面と向かってこの思いを伝えられるように。
あのころは子供だったね、なんて思い返せるように。
そんな未来を願いながら、マグカップをまた呷る。
「……待ってるね」
僕の右手を縛っていたなにかが空気へと溶ける。
指先に温もりが戻っていく。
君の控えめな返事が聞こえる。
指先はもう、白く濁っていない。
ぷっくりとした涙袋と淡く澄んだ瞳。
舌っ足らずな言葉を紡ぐ小さな唇。
いとも簡単に紅色に染まってしまう柔らかな頬。
天使と例えるに相応しい背格好。
吐いた言葉が僕の鼓膜を揺らす、その心地よさ。
脳裏をちらつく気分屋の君はまるで子猫のよう。
制服を脱いだ背中はひとつ大きく見える。
僕の好きな人は、そんな十月生まれの女の子。』
万年筆を机に置く。
ぐっ、と背を伸ばす。
肩の関節が小気味よく鳴る。
君のことを、またひとつ想っている。
考える。
右手が、そわそわとむず痒くなる。
衝動的に、恣意的に、万年筆を握りなおす。
文字を紙面に宿す。
文章が君のことを魅せる。
またひとつ、記憶を掬う。
そっと、紙へと染み込ませる。
文字となって、君になる。
花のような言葉たちが広がる。
それらを集め、花束に見立てる。
褪せたとて、枯れぬ花束が出来上がる。
僕はそれを、左心房の隅っこで密かに育てている。
『素敵なことはこの際言うまでもない。
いや、言い表すべきだろうか。
だが、伝えようにもこれでは紙面に余裕がない。
君のことを言葉ごときが再現できるだろうか。
そんなにもありきたりなわけがない。
君の人生は今宵も美しい月明かりのようだ。
海に浮かぶ、揺蕩うような月こそが君だ。
或いは、君は藍色の宇宙の果てで眠っている。
いつかこの星に届くであろう光を放つ蒼い一等星。
僕にはそれらが等しく、たまらなく愛おしいんだ。』
夜は黒く、鋭く冷たい。
三月といえど、夜は寒い。
僕の肌を空気が蝕んでいる。
卓上の電子時計に目が行く。
十二時を過ぎる少し手前。
湯気の立つマグカップを口へ傾ける。
深い苦味で満たされる。
目が冴える。
吐く息すらも黒く染まって見える。
右手の物足りなさに気づく。
指先まで白く、悴んでいる。
部屋は独り、静けさに包まれている。
僕はそれを、日常と呼んでいる。
『だからこそ、この距離がなによりも身に染みる。
部屋の中で、僕は孤独を謳っている。
君のことばかり考えて過ごしている。
触れようと手を伸ばし、右手が宙を泳ぐ。
影をかすめて、なにもなかったように終わる。
僕はそれが苦しい。
この幻想こそが僕らの愛で孤独だ。
左胸に棲んだ君が痛くてたまらない。
君を想い、生きる日々こそ心臓だ。
行き場のない右手を使って僕は 』
「おまたせ。ごめん、電話かけるの遅くなっちゃった」
「あ、いや。全然大丈夫だよ」
「ほんと? ……眠くない?」
「大丈夫大丈夫。ちょっと書きたいものもあったし」
「……あ、もしかして新しい小説?」
「んー、まぁ、そんな感じ、かなぁ」
「え、楽しみ。完成したら見せてくれる?」
「そ、それはどうしようかなぁ」
「いいじゃん。けちー」
「え、その言い方はひどくない?」
「ひどくなーい」
「えー。……んー、じゃあ、気が向いたら、ね」
「やったー」
「……そういえば、引越しの準備、順調そう?」
「あ、そうそう。今日お皿とか買ったよ」
「お、いいね。どんなの?」
「え。どんなの、って、普通のだよ? どこにでもありそうなやつ」
「いやいや。もうちょっとあるじゃん。ほら、色とか」
「色って言われても白とかだし、こればっかりは普通としか言いようがないというか…」
「あー……たしかに、これは質問が悪かったかもしれない」
「でしょー?」
「……なんか、そういうの聞くともう少しって感じがするね」
「長かったもんね」
「ほんと長かった」
「でももうあとちょっとだよ」
「まぁ、そのあとちょっとも結構長いけどね」
「言えてる言えてる」
「……まぁ、でもやっとだよ」
「うん。……あなたの街に行くよ。あなたに会いに行く」
「……うん。待ってる」
「そしたらデートしよ。初めましてだけど大丈夫かな」
「大丈夫だよ」
「ほんとかな。私、あなたが思ってる程かわいい女の子じゃないよ?」
「そんなことないけどなぁ」
「だって、あなたに見せてるのは加工した写真ばかりだもん」
「そう言われたとしても、僕は君のことが大好きだよ。愛してる」
「えー、好き」
「かわいいなぁ」
「えー、じゃあ、化け物みたいなブスでも変わらず愛してくれる?」
「んー……、やっぱさっきのなかったことにしてもいい?」
「え、うわ、最低…」
「いやいや、冗談だよ!? どんな君も愛するよ!?」
二人の笑い声が電話越しに混ざる。
僕はその音に紛れるよう、半紙を引き出しの奥へと忍ばせる。
いつか、面と向かってこの思いを伝えられるように。
あのころは子供だったね、なんて思い返せるように。
そんな未来を願いながら、マグカップをまた呷る。
「……待ってるね」
僕の右手を縛っていたなにかが空気へと溶ける。
指先に温もりが戻っていく。
君の控えめな返事が聞こえる。
指先はもう、白く濁っていない。
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