キャスリン・アダムス・スペンサーの忘却

桃井すもも

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第二十三章

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「アルベール様⋯⋯」

 キャスリンは、その後の言葉が続かない。
 葉をすっかり落とした木々の間に、陽光が射している。日射しを受けた白い狐は、まるでそこだけ淡く輝くように見えていた。

 遠目でも美しいとわかる白い狐の姿に、キャスリンは言葉を失った。

「もう少し寄ってみよう」

 もう少しそばで見てみたい。そう思うキャスリンの気持ちを知ってか、アルベールはそう囁いた。

「メリージェン、ここで待ってるんだ」

 メリージェンにアルベールが言いつけると、賢い彼女はその言葉を理解したようで、再び枯れ葉を鼻先でつつき始めた。

 足下には落ち葉がもっさりと降り積もっている。歩くと足が沈んでカサカサと音が立つ。

 身を屈めてなるべく足音を立てないように、用心深く慎重に踏み出す。アルベールが先になって、キャスリンはその背中にぶつかりそうなほど近くになって歩いた。

 大きな木の後ろに回って、アルベールが立ち止まった。
 そこでアルベールは、キャスリンを手前に招いて、自分はキャスリンの背後に回った。

 夏とは異なる鳥のさえずりが聞こえる。乾いた枯葉の香りと冬の空気を胸いっぱいに吸い込んで、キャスリンは木の幹の陰から前方を見た。

 白狐はまだそこにおり、さっきよりもはっきり見ることができた。

「アルベール様⋯⋯見て⋯⋯」

 アルベールが頷いたのがわかったのは、彼がキャスリンの直ぐ横に顔を出していたからだ。

「彼女、母親だったんだ。子がいたんだな」

 白狐のそばに小さな白い頭が二つ見えた。
 狐の繁殖期はこれからで、出産時期は春となる。こんな冬を迎える季節に、幼い子狐を育てることなどないだろう。

 どんな出会いの末に、彼女は季節外れの出産をしたのだろう。獣の間にも、ままならない恋があったのだろうか。
 目の前の母子の姿に、キャスリンはそんなことを考えた。

 母狐は子狐たちに獲物を仕留めてきたのか、小さな頭が動いて何かを夢中で喰んでいる。
 それを見つめる母狐は、空腹ではないのか。遠目でも狐は肥えては見えなかった。

 木の陰に身を潜めていても、鳥には二人の姿は見えるから、警告めいた鋭い囀りをした鳥の声に、母狐がこちらを見た。

 真っ赤な瞳を向けられて、キャスリンは動くことができなかった。顔も手足も動かせぬまま、ただ息を潜めて狐と見つめあった。

 白狐はやはり聖獣なのだと思った。神秘的な瞳は、ピジョンブラッドのルビーのようだった。巣穴の近くに来た人間を、まるでどうでもできるのだという、神聖を秘めた怪しい気配が感じられた。

 時間が止まって永遠とも思ったのは、きっと一瞬のことだったのだろう。

「行こう」

 耳元でアルベールが囁いて、木の幹にしがみついていたキャスリンの肩に手を置いた。それから二人は、ゆっくりと後ろ歩きになって木から離れた。

 白狐はなにを思うのか、そんな二人をじっと見つめていた。

 数歩後ろに下がってから、狐に背を向けてメリージェンの元へと戻る。
 目の奥に淡く輝いていた白狐が焼きついて、それはキャスリンの中で発光する姿として記憶に残った。

 メリージェンは、戻ってきた二人を大人しく待っていた。彼女にも、白狐の母子が見えていたのではないかと思った。

 ここへ来たときと同じように、アルベールは無言のままキャスリンを抱き上げて、メリージェンの背に乗せた。それから手綱を掴んで、ゆっくりと歩き出す。

 メリージェンも、大人しくアルベールに引かれて歩いた。
 二人と一頭で冬枯れの森の中を歩くうちに、もうこのまま神秘の森に閉じ込められて、外の世界には戻れなくなるのではないかと思った。

 それでも良いかもしれない。

 そう思ったのは唐突なことで、キャスリンはそんなことも良いように思えた。家族も家も貴族の暮らしも忘れて、永遠の刻をアルベールと一緒にメリージェンを連れて生きていく。

「あの狐は母親だったね」

 アルベールの声に、キャスリンは我に返った。自分は一体、なにを考えていたのだろう。それより王子を歩かせて、自分だけが馬に乗っている。

「アルベール様も、」

 馬へ、と言い終える前にアルベールが言う。

「君に見せることができて良かった」

 アルベールは、あの白狐を狩ろうと思わなかった。そのことがキャスリンの胸を温かくした。
 聖獣のような白狐を仕留めたなら、今日の狩りの覇者は間違いなくアルベールだったろう。

「ありがとうございます、アルベール様。あの狐を生かしてくれて」
「無事に冬を越せると良いな」
「ええ」


 その後、森の出口の少し手前でヘンドリックたちと合流した。彼らは犬も一緒なのに、狐を見失ったと言った。森の中には他にも多くの狩猟者たちがいたのに、不思議なことにそんな気配は森を出るまで感じることはなかった。

 優勝者は、大きな狐を狩った男爵家の子息だった。見事な毛並みは艶やかで、これを婚約者の襟巻きにして贈ると言った。
 その姿を眺めてからキャスリンは、王族席に座るアルベールがエドワード殿下に何やら耳打ちする姿を見た。

 エドワードは話を聞くと、途端に頬を紅潮させた。表彰される子息の背後で明らかに興奮を抑える王子はきっと、手ぶらで帰ってきた兄からあの神秘な母子のことを聞かされたのだろう。

 ああ、エドワードが笑っている。
 兄が目にした光景は、きっと彼に新たな夢を与えたのだろう。
 あと数年の後に、きっとエドワードはこの神秘の森を探索して、今日小さな頭を並べていた子狐の未来に出会うのかもしれない。

 アルベールが一つ奇跡を引き寄せて、それを弟に分ける姿を見ながら、キャスリンもまた、アルベールから奇跡を贈られたような気持ちになった。


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