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第二十二章
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「寒くない?」
アルベールの声が耳に直に響くように聞こえて、キャスリンは思わず目を瞑ってしまった。
森の中は冬枯れの匂いがしていたし、気温は下がってキャスリンはドレスの上にロングコートを羽織っている。
けれども思い出されるのは、あの秋の領地で、記憶をなくしたと偽っていたときにアルベールと一緒に歩いた森の小径だった。
あの頃は、まだ秋は深まりきってはおらず、木々の葉は赤や黄色や緑に染まって鮮やかな美しさを見せていた。
鬱蒼とした森が少しばかり怖く思えて、隣にアルベールがいてくれることが心強かった。
今だって、アルベールはキャスリンに白狐を見せたいがために引き返してきた。
狐狩りはレースである。捕獲した獲物の大きさや数を競うゲームであるのに、アルベールはそんなことはまるで考えていないようだった。
森のどこかにいるはずの護衛もヘンドリックも見えなかった。犬が吠える声も聴こえない。
見当違いな場所に来てしまったのか、こんなところにいてアルベールは大丈夫なのだろうか。
エドワード殿下との約束はどうしたのだろう。幼い王子は兄のことが大好きで、王妃腹とか側妃腹とか、王位継承などということを薄っすら理解しながらも、年の離れた異母兄を慕っている。
そんなことを考えて、瞳を閉じたまま俯き加減でいるキャスリンが寒さを堪えていると思ったのだろう。アルベールは手綱から片手を離してキャスリンを抱き寄せた。
森の奥に入ってからは、馬はそうそう走れない。馬の速度を落としてゆっくり歩かせ、ヘンドリックと護衛の姿を探しながら、アルベールはキャスリンを腕の中に囲い込んだ。
「大丈夫?キャスリン」
とうとう馬を止めたアルベールは、キャスリンを覗き込んだ。キャスリンは、幼い頃にもアルベールとこれほど密着したことはない。アルベールばかりでなく、ヘンドリックとさえも手を繋ぐのがせいぜいだった。
「キャスリン?」
吐息が耳に掛かって、アルベールが態とそうしているのだとわかった。
なけなしの乙女心が発動してすっかり恥じらっていたキャスリンは、自分が揶揄われていたのだと思った。
「おっと」
憮然となって行き成り顔を上げたキャスリンに、アルベールは全然驚いていないくせに慌てるような仕草をした。
「アルベール様」
「なに?」
馬は足を止められて、仕方無しに足下の枯れ草を鼻先でつついている。賢い馬を待たせておいて、アルベールはキャスリンを離すことなく見つめていた。
「エドワード殿下との約束があったでしょう?」
「エドワードは怒ったりしないよ。兎が可愛かったと教えたら、狩らなかったことを喜ぶさ。あの子は優しい子だからね」
「兎を見つけたの?」
「ああ、森に入って直ぐに。みんな大物を狙うから、小さな兎のことは目に入らなかったようだな」
狐狩りというのだから、初めからみんな狐か大型の獣を狙う。牡鹿などは格好の的となっていた。いつだかアルベールがヘンドリックをカモシカに喩えたのを、こんな所で思い出した。
「キャスリン。狐はいたよ。あれは見間違いではなかったよ。確かに白狐だった。アルビノなのだろうか、目が赤く見えたんだ。とても美しい姿だった」
アルベールが見惚れるほどの狐とは、どれほど美しかったのだろう。
「珍しいけれど、猟師であれば偶に姿を目にするらしい。だけど私は初めて見た。まるで聖獣のようだと思った。奇跡に出会ったようで、どうしても、君にあの姿を見せたいと思ったんだ」
キャスリンも、白狐を聖獣のようだと思っていた。同じことをアルベールが考えていたことに、ああアルベールならそうだろうと思えた。
母親同士が親密であったからか、幼い頃からアルベールとは、どこか感覚が似通っていた。アネットとイザーク、姿の異なる兄妹のように、アルベールとは同じものを観たなら同じ感動を得ることができた。
見上げるキャスリンの頬に、アルベールが手を当てた。
「冷たい。寒いのだろう?」
そうなのだろうか。
自分の身体であるのに、神聖な森の奥に迷い込んで五感が夢見心地に感じられた。
アルベールは、キャスリンの頬に手を添えたまま、親指の腹で頬を撫でた。
幼い頃のアルベールは皮肉屋なところがあって、二人は時々口喧嘩をしては、周りに侍る護衛や侍女をハラハラさせた。
いつの間に、こんなに逞しくなったのだろう。この頃のアルベールは、優しげな顔に毅然としたものが見えて、すっかり頼もしい姿となっていた。
カサリと小さな音がしたのに、最初に気がついたのは馬だった。この子は耳がいい。馬は物音に敏感で、急に音がすると慌てる馬も多いのだが、アルベールの芦毛の牝馬は身体も大きく肝が据わっている。
「メリージェン」
アルベールが馬に声をかけると、彼女は耳だけアルベールのほうへ向けて、瞳は別のところを見つめていた。
「アルベール様?」
「しぃ」
人差し指を唇に当てて、アルベールもメリージェンの見つめる先に視線を巡らせた。
「静かに。降りるよ」
そう言って音もなく馬から降りたアルベールは、キャスリンをゆっくり抱き寄せ馬から降ろした。
幼子のように抱っこで降ろされ、キャスリンは寒さのせいではなくて頬が紅く染まってしまった。
そんなキャスリンを他所に、アルベールは周りの音を拾うように辺りを見回した。
「キャスリン、伏せて」
耳のすぐ横で声がして、吐息が頬にかかるようだった。アルベールはキャスリンを抱き寄せたまま身を低くした。メリージェンの身体に隠れるように身を屈めて、冬枯れの木々の向こうを見つめていた。
「いたよ、キャスリン。あそこだ」
アルベールの囁く声に、キャスリンは言われたほうへ視線を走らせた。
木々が重なるように目隠しをするその奥に、チラリと白いものがよぎったのが見えた。
アルベールの声が耳に直に響くように聞こえて、キャスリンは思わず目を瞑ってしまった。
森の中は冬枯れの匂いがしていたし、気温は下がってキャスリンはドレスの上にロングコートを羽織っている。
けれども思い出されるのは、あの秋の領地で、記憶をなくしたと偽っていたときにアルベールと一緒に歩いた森の小径だった。
あの頃は、まだ秋は深まりきってはおらず、木々の葉は赤や黄色や緑に染まって鮮やかな美しさを見せていた。
鬱蒼とした森が少しばかり怖く思えて、隣にアルベールがいてくれることが心強かった。
今だって、アルベールはキャスリンに白狐を見せたいがために引き返してきた。
狐狩りはレースである。捕獲した獲物の大きさや数を競うゲームであるのに、アルベールはそんなことはまるで考えていないようだった。
森のどこかにいるはずの護衛もヘンドリックも見えなかった。犬が吠える声も聴こえない。
見当違いな場所に来てしまったのか、こんなところにいてアルベールは大丈夫なのだろうか。
エドワード殿下との約束はどうしたのだろう。幼い王子は兄のことが大好きで、王妃腹とか側妃腹とか、王位継承などということを薄っすら理解しながらも、年の離れた異母兄を慕っている。
そんなことを考えて、瞳を閉じたまま俯き加減でいるキャスリンが寒さを堪えていると思ったのだろう。アルベールは手綱から片手を離してキャスリンを抱き寄せた。
森の奥に入ってからは、馬はそうそう走れない。馬の速度を落としてゆっくり歩かせ、ヘンドリックと護衛の姿を探しながら、アルベールはキャスリンを腕の中に囲い込んだ。
「大丈夫?キャスリン」
とうとう馬を止めたアルベールは、キャスリンを覗き込んだ。キャスリンは、幼い頃にもアルベールとこれほど密着したことはない。アルベールばかりでなく、ヘンドリックとさえも手を繋ぐのがせいぜいだった。
「キャスリン?」
吐息が耳に掛かって、アルベールが態とそうしているのだとわかった。
なけなしの乙女心が発動してすっかり恥じらっていたキャスリンは、自分が揶揄われていたのだと思った。
「おっと」
憮然となって行き成り顔を上げたキャスリンに、アルベールは全然驚いていないくせに慌てるような仕草をした。
「アルベール様」
「なに?」
馬は足を止められて、仕方無しに足下の枯れ草を鼻先でつついている。賢い馬を待たせておいて、アルベールはキャスリンを離すことなく見つめていた。
「エドワード殿下との約束があったでしょう?」
「エドワードは怒ったりしないよ。兎が可愛かったと教えたら、狩らなかったことを喜ぶさ。あの子は優しい子だからね」
「兎を見つけたの?」
「ああ、森に入って直ぐに。みんな大物を狙うから、小さな兎のことは目に入らなかったようだな」
狐狩りというのだから、初めからみんな狐か大型の獣を狙う。牡鹿などは格好の的となっていた。いつだかアルベールがヘンドリックをカモシカに喩えたのを、こんな所で思い出した。
「キャスリン。狐はいたよ。あれは見間違いではなかったよ。確かに白狐だった。アルビノなのだろうか、目が赤く見えたんだ。とても美しい姿だった」
アルベールが見惚れるほどの狐とは、どれほど美しかったのだろう。
「珍しいけれど、猟師であれば偶に姿を目にするらしい。だけど私は初めて見た。まるで聖獣のようだと思った。奇跡に出会ったようで、どうしても、君にあの姿を見せたいと思ったんだ」
キャスリンも、白狐を聖獣のようだと思っていた。同じことをアルベールが考えていたことに、ああアルベールならそうだろうと思えた。
母親同士が親密であったからか、幼い頃からアルベールとは、どこか感覚が似通っていた。アネットとイザーク、姿の異なる兄妹のように、アルベールとは同じものを観たなら同じ感動を得ることができた。
見上げるキャスリンの頬に、アルベールが手を当てた。
「冷たい。寒いのだろう?」
そうなのだろうか。
自分の身体であるのに、神聖な森の奥に迷い込んで五感が夢見心地に感じられた。
アルベールは、キャスリンの頬に手を添えたまま、親指の腹で頬を撫でた。
幼い頃のアルベールは皮肉屋なところがあって、二人は時々口喧嘩をしては、周りに侍る護衛や侍女をハラハラさせた。
いつの間に、こんなに逞しくなったのだろう。この頃のアルベールは、優しげな顔に毅然としたものが見えて、すっかり頼もしい姿となっていた。
カサリと小さな音がしたのに、最初に気がついたのは馬だった。この子は耳がいい。馬は物音に敏感で、急に音がすると慌てる馬も多いのだが、アルベールの芦毛の牝馬は身体も大きく肝が据わっている。
「メリージェン」
アルベールが馬に声をかけると、彼女は耳だけアルベールのほうへ向けて、瞳は別のところを見つめていた。
「アルベール様?」
「しぃ」
人差し指を唇に当てて、アルベールもメリージェンの見つめる先に視線を巡らせた。
「静かに。降りるよ」
そう言って音もなく馬から降りたアルベールは、キャスリンをゆっくり抱き寄せ馬から降ろした。
幼子のように抱っこで降ろされ、キャスリンは寒さのせいではなくて頬が紅く染まってしまった。
そんなキャスリンを他所に、アルベールは周りの音を拾うように辺りを見回した。
「キャスリン、伏せて」
耳のすぐ横で声がして、吐息が頬にかかるようだった。アルベールはキャスリンを抱き寄せたまま身を低くした。メリージェンの身体に隠れるように身を屈めて、冬枯れの木々の向こうを見つめていた。
「いたよ、キャスリン。あそこだ」
アルベールの囁く声に、キャスリンは言われたほうへ視線を走らせた。
木々が重なるように目隠しをするその奥に、チラリと白いものがよぎったのが見えた。
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