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1巻

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   契約結婚のはずなのに、殿下の甘い誘惑に勝てません!   

   第一話 契約結婚のススメ


「――さあ、行きましょうか、僕のかわいいアンジェリカ」

 優しい微笑みを浮かべた青年が、その言葉とともに、白い手袋に包まれた手を差し伸べる。淡い金髪に翠玉すいぎょくの瞳をした甘い顔立ちを、濃紺の正装がきりりと引き締めていて、れする貴公子ぶりだ。
 相対あいたいするアンジェリカのドレスもまた、同じ色をしている。足元へ向かうにつれて徐々に紫に変化するグラデーションと、星をちりばめたような銀の刺繍ししゅうが美しい。初めて見た時には、あまりの美しさにため息が漏れた。仕立ての良いそのドレスは、肌触りも着心地もとっても良くて、着せられている最中もうっとりしたものだ。
 流行の形をしたそれは、胸元がかなり開いている。アンジェリカの胸は大きくもないが小さくもない、中途半端なサイズだが、今日はコルセットで寄せて上げてもらい、普段よりも深い谷間が作られていた。その上できらめく首飾りには、深い色をした大きな翠玉すいぎょくがはめ込まれている。
 何から何まで目の前の青年が用意してくれたものだが、いったいどれほどの値がつくものなのか、考えるのも恐ろしい。
 少し癖のあるアンジェリカの赤い髪は、今日は複雑な形に結い上げられている。流行に従って遊ばせたおくれ毛が首筋をくすぐるのがむずがゆい。緩く頭を振って、アンジェリカはため息をついた。
 どう見ても、ドレスにも装身具にも負けている。もう少し、美しい容姿をしていたら、堂々としていられたかもしれないけれど――

「どうしたの?」
「あ、いえ……申し訳ございません」

 ぼんやりとそんなことを考えていたアンジェリカは、かけられた声にはっとして意識を青年に戻す。青い瞳をまたたかせ、躊躇ためらいがちに手を伸ばすと、白い手袋がそれを受け止めた。
 うやうやしく持ち上げられた手の甲に口づけが落ちる。それに動揺する間もなく、相手は追撃をかけてきた。
 やんわりと、それでいて逃がさないと言わんばかりに引き寄せられ、抱き締められたのだ。うろたえたアンジェリカの耳に、ささやくような声が吹き込まれた。

「緊張している?」
「いえ――あ、ええ、そうですね……」

 隠しても仕方がない。アンジェリカは、そっと息をつく。
 緊張しないわけがない、と思う。これから目の前の青年――ロイシュタ王国第一王子にして王太子であるエグバートの婚約者としてお披露目ひろめされるのだ。
 それを意識した途端、心臓がどくどくと早鐘を打つ。震える指先を、エグバートが優しく包んだ。そして柔らかな微笑みを浮かべ、とろけるような目つきでアンジェリカの顔を覗き込む。
 それがあまりにも自然に行われるものだから、心臓に悪い。

「大丈夫だよ、かわいいアンジェリカ――何も心配はいらない、僕に全て任せて」

 優しい声が耳に届く。頬を撫でられ、熱っぽい眼差まなざしを向けられて、アンジェリカの鼓動は更に跳ねあがった。
 氷の王子さま、と呼ばれていたエグバートのこんな姿を、誰が想像するだろうか。よく似た他人だと思うかもしれない。高鳴る胸を押さえながら、そんなバカげたことを考えてしまう。それは現実逃避だったかもしれない。

(まるで、物語の登場人物にでもなったような気分)

 近頃りだという物語を思い出して、アンジェリカはくすりと笑う。すると、エグバートがとろけるように笑った。
 この調子なら、周りの人々には、エグバートが婚約者に夢中になっているように見えるだろう。

(まったく、演技がお上手で)

 アンジェリカの中の、どこか冷静な部分がそう考えた。
 ――そう、演技だ。
 この婚約も、結婚も、すべて契約の上のことなのだから。
 早鐘を打つ心臓を抑えて、アンジェリカは息を吸い込んだ。どうにか自然に見えるよう微笑みを浮かべると、今度はエグバートがくすりと笑う。
 ――さあ、一世一代の大舞台だ。
 目の前の大きな扉を見つめて、アンジェリカは大きく深呼吸した。


      ♢ 


 アンジェリカ・ヴァーノンは伯爵令嬢である。
 ヴァーノン伯爵家は、歴史ある家柄だ。しかし、当代のヴァーノン伯爵は宮廷勤めはしているものの、とりたてて要職にいているわけでもなく、領地が豊かなわけでもない。いわゆる普通の――言ってしまえば、中の上程度の貴族だ。
 ただ、父である伯爵は堅実な領地運営と飾らない人柄で知られ、領民の信頼は厚い。
 アンジェリカには兄が二人おり、長兄は王宮に詰めることの多い父に代わり領地を管理している。最近結婚したばかりの妻と二人、遠方のヴァーノン領にあるやしきが生活拠点だ。
 次兄は騎士として王宮に勤めている。なんでも、第一王子と年齢が同じとかで重用され、近衛このえ隊に所属しているという。家に帰ることが少なく、アンジェリカは兄妹きょうだいだというのに兄の仕事について詳しいことを知らない。時たま差し入れに行くこともあるが、それくらいだ。
 寒さの抜け切らない春の日、その次兄――デイヴィットが唐突にとんでもない爆弾を投下した。
 珍しく家に戻った兄は、アンジェリカの部屋を訪れると、突然こう話し始めたのだ。

「アンジェリカ、おまえ確か十八になるよな」
「ええ……それがどうかした? まさか、縁遠い妹をあわれんでどなたか紹介してくださるの?」
「そういう――うーん、まあ、そうなるのかなあ……」

 デイヴィットがうーん、とか、ええと、とか、うなり声をあげ始めたので、アンジェリカはいぶかしむ。冗談のつもりだったのに、次兄の目は真剣だ。
 どうしたのだろうか。頬をくすぐる赤毛を払って、アンジェリカは考えた。
 十六で社交界入りをし、十八ともなれば婚約者の一人や二人――いや、二人いてはおかしいか。とにかく婚約者がいるのが貴族令嬢としては普通である。が、残念なことにアンジェリカはその普通に当てはまらない。
 彼女自身に、問題があるわけではない。実際のところ、婚約者はいたのだ。同じ伯爵家の嫡男ちゃくなんで、父と同じく王宮で文官勤めをしていた二歳年上の青年である。しかし彼は、アンジェリカの社交界入りの直前、事故でこの世を去ってしまった。
 この場合、次の後継者に婚約者がスライドする、というのが通例である。彼の場合、弟がいた。ただ、その弟が問題だった。当時十五歳だったアンジェリカに対し、婚約者の弟は五歳。さすがに十も年の離れた夫との結婚を待つというわけにもいかず、アンジェリカの婚約は白紙状態となった。
 父はアンジェリカに良い嫁ぎ先を、と探してくれたが、そうそう見つかるものではない。アンジェリカ自身、何となく気乗りしないまま時は過ぎ、気付けば二年の時が流れていた。
 そんな事情を思い出しつつ、兄へと意識を戻す。すると、視線をそらし、アンジェリカと同じ赤い髪をかき混ぜながら、デイヴィットがため息をついた。できれば言いたくない、というのがけて見え、アンジェリカは首を傾げる。
 デイヴィットの紹介ならば、おそらく相手は騎士だろう。近衛このえ隊なら、出身はほとんどが貴族だ。一代限りとはいえ騎士爵の地位だってある。
 き遅れ目前のアンジェリカにとって、ありがたい話だ。――まあ、父が何というかは知らないが、彼女と年も家柄も釣り合いが取れて婚約者のいない好青年など都合よく存在しないのだから、そろそろ現実を見てほしい。

「こんなこと、俺の口から言うのはどうかと思うんだけど」

 デイヴィットが重い口を開く。どうやら話す気になったらしい。

「――結婚、してほしいんだ。その……エグバート殿下と」

 兄の口から飛び出したのは、予想もしなかった名前で、アンジェリカは目をまたたかせた。

「……冗談、よね?」
「俺も、冗談だと思いたい」

 デイヴィットがため息をつく。

「まぁ、詳しい話は殿下が直接なさるそうだ。というわけで、王宮におまえを連れて来いとおおせでな」

 苦い顔でもう一度ため息をつく兄を見つめて、アンジェリカはひきつった笑みを浮かべた。


「やあ、よく来てくれたね」
「……お呼びに従い参上いたしました」

 薄紅色の薔薇ばらが満開を迎えた王家専用の庭に、エグバートはアンジェリカを呼び出した。ここであれば、人の目を気にしないでいい――ということなのだろうが、そんなことを気にするぐらいなら最初から呼ばないでほしい。
 そんなアンジェリカの心情などどこ吹く風、といった調子で、エグバートはアンジェリカの背後に目を向ける。

「ああ、デイヴィット。おまえは下がっていて良いよ。アンジェリカ嬢と二人だけで話をさせてほしい」
「はっ……し、しかし……」

 妹を気遣ったのか、エグバートを気遣ったのかは分からないが、デイヴィットが難色を示す。しかし、エグバートの強い視線を受けてしぶしぶ頷いた。

「では――あちらで待機しております」

 姿はうかがえるが、話の内容は聞こえない。そんな絶妙な位置を指し示す。エグバートが頷いたのを見て、デイヴィットはちらりと妹に目をやると下がっていった。

「さて、デイヴィットから話は聞いているでしょう?」
「……あの、頓珍漢とんちんかんな話でしょうか」
「そう、その頓珍漢とんちんかんな話だ」

 アンジェリカ渾身こんしんの嫌味を軽く受け流して、エグバートは続けた。

「アンジェリカ嬢。悪い話ではないと思うのだけど? きみは不幸にも婚約者を亡くし、適齢期を迎えた今も嫁ぎ先は決まっていない」
「……まあ、他人から言われると腹が立ちますが、その通りです」
「そして私も、そろそろ結婚相手を決めろとせっつかれている」

 そこで、エグバートは表情を曇らせた。翠玉すいぎょくの瞳がうれいにかげる。アンジェリカは小首を傾げた。

「もうじきまた社交の季節を迎えます。伝統にのっとって、仮面舞踏会でお相手を――」
「それだよ!」

 エグバートがかぶりを振った。

「あの馬鹿げた伝統のせいで、仮面舞踏会ではあちこちの令嬢から追いかけまわされる」

 そう口にしたエグバートの瞳は、冷めきっていた。なるほど、仮面舞踏会で未来の王妃を決めるという非効率的だがロマンがあるともいえるこの国の伝統を一蹴するとは、氷の王子さまと言われるのも頷ける。
 エグバートに関する噂話を思い出して、アンジェリカは得心した。難攻不落の氷の王子――というのが、世間の令嬢方のエグバートに対する評価なのだ。

「今年こそ決めろ、と父上からも言われていてね……でも、あんな舞踏会で相手の何が分かると思う? たった一言二言話をして、それでダンスをして? そんなことで生涯添い遂げる相手を見つけろだなんて……馬鹿げていると思うでしょう?」

 エグバートが、アンジェリカの手を取った。そうして、じりじりとにじり寄ってくる。

「そこで、きみのことを思い出した。うん、きみは私を追いかけまわしたりしないし、変な小細工をろうしたりもしない。それどころか、ほら、私から逃げようとさえしている」

 先ほどからじりじりと後退していることを気取られていたらしい。くすり、と笑われて、頬が赤くなる。

「うん、それでいい。だからこそ、きみと結婚したいと思ったんだよ」
「それでいい、とは――」
「まあ、よく考えてみて? 私は、これで結婚相手を探せとせっつかれずに済むし、妙な令嬢と結婚せずに済む。きみは、き遅れと陰口を叩かれるのを回避して、最高の結婚相手を見つけられる。それに、、と言える」

 一呼吸おいて、エグバートははっきりと口にした。

「アンジェリカ嬢。僕と結婚してほしい」

 アンジェリカはしばし考えた。確かに、お互いにとって利益のある話ではある。しかし、ここでアンジェリカの胸中をよぎったのは、らちもないことだった。
 ――殿下は私のことが好きだから結婚したいわけではない。
 亡くなった婚約者との婚約は、家が決めたもの。愛があったわけではない。婚約が決まったと、父から告げられただけであった。
 つまり――初めて受けた求婚が、利益だけを求めるものだということが、少しだけ切なかった。それだけだ。
 アンジェリカは、目を閉じた。愛のない結婚など、普通のことだ。しかし、なぜ自分を選んだのだろう。その答えを見出そうと、考える。
 現在、エグバートの結婚相手として取り沙汰ざたされているのは、エイベル公爵家のクレア嬢だったはずだ。彼女も熱心にエグバートに言い寄っているようだし、家格も申し分ない。
 だが、こんな提案をしてくるからには、クレア嬢を王太子妃に据えるつもりはないのだろう。
 エイベル公爵は随分な野心家だと、父が何かの拍子に言っていた。その辺りに理由があるのかもしれない。
 対して、自分はと言えば、まあ何の取り柄もない伯爵家の娘だ。父はとりたてて野心家ではないし、大それたことを考えそうな身内もいない。
 そこまで考えて、アンジェリカは苦笑した。
 なるほど、令嬢達が諦めるまでの短期間婚姻を結ぶための、扱いやすい駒、ということか。

(まあ、いいか……)

 婚約者が亡くなって二年。自分から相手を探す気にもなれず、き遅れ目前の身である。だったら、理由は何であれ望んでくれる相手に嫁ぐのも悪くない。
 それに、とアンジェリカはちらりとエグバートの顔を見た。何があったとしても、彼は不誠実なことはしないだろう。家族には隠し事が苦手な兄が、今回の縁談に際して王太子本人への不平不満を一切口にしなかったのだから、間違いない。自分はエグバートの笑顔の裏を読み解けないが、流石に近衛このえの騎士には多少なりとも本性が知れているはずだ。
 そう結論付けて、アンジェリカは静かに口を開いた。

「……分かりました。その話、お受けいたします」
「本当に?」
「ただし――」

 そこで一旦言葉を切って、正面からエグバートを見つめる。

「事前に、いくつかお約束していただきたいのです」

 アンジェリカの言葉に、エグバートは一瞬目を丸くした。次いで、破顔する。
 アンジェリカの胸が一瞬どきりと音を立てた。

「いいよ、なんでも言うといい――なんなら、契約書を作ろうか」

 そう言うと、手を上げて侍従じじゅうを呼ぶ。紙とペンを持ってくるよう言いつけると、エグバートはアンジェリカの額に口付けた。そうして、アンジェリカの真っ赤な顔を見つめ、とろけるような笑顔で言った。

「いいね、アンジェリカ。きみとあの舞踏会で出会えたのは、僥倖ぎょうこうだった」


 家に帰ったアンジェリカは、寝台に腰かけて今日のことを思い返していた。
 契約に際して、アンジェリカが出した条件は、常識的なものだったと思う。
 ヴァーノン家に過大な肩入れをしないこと、それに加え、契約中の費用はエグバートの個人資産を用いること。
 ひとつめの条件は、家に迷惑をかけないためのものだ。安易に昇進や陞爵しょうしゃくなどすれば、妬みそねみの対象になってしまう。アンジェリカが決めたことで父や兄たちを困らせたくない。費用のことは、おまけみたいなものだ。
 そして、公式の場では仲睦なかむつまじい夫婦としてふるまうこと。
 いきなり不仲説が流れては、契約した意味がない。私的なところではともかく、公の場では仲睦なかむつまじいところを見せた方が、お互いのためだろう。
 さらに、契約解消にあたっては、事前に告知することをお願いした。
 既に自分の人生など半分くらいは諦めた気分のアンジェリカでも、突然離縁すると言われてうろたえる姿など見せたくはない。

(さすがにそんなことはなさらない、と思うのだけれど)

 は、こんなことが自分の身に起こるなどとは思いもしなかった。エグバートと初めて言葉を交わした日のことを思い出して、アンジェリカは、ほうっとため息をついた。


 ――時は、一年ほど前にさかのぼる。
 その日、きらびやかなシャンデリアが下がる広いホールの一角で、アンジェリカはたたずんでいた。
 社交シーズンのちょうど真ん中の日に毎年行われる仮面舞踏会。
 その舞踏会がいわゆる「王太子の花嫁選び」の場であることは、誰もが知っていて口にはしないこと。いわゆる、暗黙の了解というやつである。
 なんでも、何代か前の国王がそうやって賢妃を迎えた、というので伝統化されたのだという。一国の王妃を決めるにしては、どうにもロマンチックがすぎる話だ。しかし、ロイシュタ王国中の娘の心をつかんで離さない恋物語として、今でも語り継がれている。
 さすがに王宮主催の舞踏会だけあって、ホールには大勢の貴族たちの姿がある。誰もが趣向をらした仮面を被り、笑いさざめく姿は、普段とは違う高揚感に満ちていた。
 アンジェリカは、父であるヴァーノン伯爵に伴われ、その場にいた。彼がアンジェリカをここに連れて来たのは、王太子を狙ってのことではない。それはさすがに高望みがすぎる。
 アンジェリカは、ふう、とため息をついた。婚約者を事故で亡くしてから一年が過ぎている。喪に服していた彼女も、これ以上社交界デビューを先送りするわけにいかなかった。
 父親は、どうやらここで良い縁を見つけてほしいと思っているようである。しかしアンジェリカはさっぱり気乗りがしない。亡くなった婚約者とは、家同士のつながりを求めていたのであって、特に恋とか愛とかそういうものがあったわけではなかった。それでも、それなりに親しくしていた相手がいなくなったのだ。早々に「はい次」という気になれるものでもない。
 あいさつ回りに出た父には悪いが、もう少ししたら家に帰ってしまおう。近場にいた王宮の使用人らしき男性が差し出した盆から、度数の低そうなお酒を受け取ると、アンジェリカは壁の花となるべく移動した。

「あっ……!」
「おっと……失礼」

 その途中で急ぎ足の青年とぶつかってしまったのは、何もアンジェリカがぼんやりしていたせいだけではないだろう。後ろを必要以上に気にしながら歩いていた青年もまた、前方不注意ではあった。
 ぶつかった拍子にグラスからこぼれた酒が、青年の胸元を濡らしている。アンジェリカはあわててハンカチを取り出して濡れた場所を拭こうとした。

「申し訳ございません……」
「ああ、いや、大丈夫だから」

 しきりに背後を気にしていた青年は、アンジェリカのその行動に少し慌てたようだった。それもそうだろう。色の濃い酒は、下手にこすれば染みが広がってしまう。やんわりと制されて、手を止める。
 しかし、時既に遅し。白い上着にはしっかりと濃い紫の染みが広がってしまっている。青ざめるアンジェリカを見て、青年は一瞬思案したようだった。

「ちょっと来てくれ」

 有無を言わさず手首を掴み、強引に連れ出す。宴のざわめきが次第に遠くなっても、その足は止まらない。

「ま、待って……!」

 必死に抵抗しようとするが、細身の割に青年の力は強い。アンジェリカの手を引いて、そのまま王宮の奥へ進んでいく。
 あたりはすっかり静まり返り、人気ひとけがない。薄暗い廊下の壁を、月の光が青白く照らしている。どんどん進み、やがてとある一角にたどり着くと、青年は迷うことなく正面の扉に手をかけた。

「さ、入って」
「え、ここは……?」

 王宮の奥といえば、王族の住まいだ。青年が何者なのかを理解して、アンジェリカは蒼白になる。ここは、自分のような者が立ち入っていい場所ではないのだ。
 重厚な扉が、音もなく開く。まばゆいあかりが灯された室内は、一目で分かるほどきらびやかな装飾に満ちていた。

「いけません、殿下……!」

 別に、何事か起きると思うほど自意識過剰ではない。だが、部屋に二人でいるところを見つかるだけでもまずい、ということくらいは分かっていた。
 その程度のことは、当然理解しているだろうに、青年――王太子、エグバートは素知らぬ顔で再度入室を命じる。
 そうなれば、アンジェリカとて拒みようがない。身分からいっても――そして、物理的にも無理な話であった。なぜなら、アンジェリカの手首は未だエグバートが握ったままなのだから。


「着替えるから、そこで待っていてくれ――逃げるなよ?」

 後ろ手に扉を閉めて、ようやくエグバートはアンジェリカの手を離した。もはや観念してこくりと頷くと、指し示された椅子に浅く腰かける。
 すぐ逃げ出そうと身構えているように見えたのだろう。そんなつもりではなかったが、仮面を外したエグバートが意地の悪い笑い方をするので、むっとしてしまう。

「殿下は、女性と過ごされたことがおありにならない?」

 その質問に、エグバートは首を傾げた。淡い金の髪が、部屋のあかりにけてさらりと揺れる。そんな姿も絵になるものだ。代々の王族の中でもしゅっしょくの美男子と言われるのも頷ける。
 こんな時でなかったら、素直に称賛できるのに。アンジェリカは、内心そう思ったが顔には出さない。

「この、夜会用のドレスというのはやっかいな造りをしておりまして。こういう姿勢でしか座れないのです」
「なるほど」

 得心がいった、とばかりに頷いて、エグバートはもう一度笑った。しかし、その笑みには先程の意地の悪さはない。うんうん、と頷きながら衣装部屋へ消える。
 正直、逃げ出せるものなら逃げたい。しかし、約束してしまったからには逃げ出すのも業腹だ。それに、うっかり外に出ていく場面を第三者に見られたら、面倒なことになってしまう。
 どうやら、自分はとことんツイていない人間らしい。はあ、とため息をついて、アンジェリカは部屋の中を見回した。
 ぱっと見には、豪華絢爛ごうかけんらんに思えたが、よく見ると案外実用性を重視した部屋だ。ひとつひとつの家具はよく使い込まれている。

「へえ……」

 しげしげと部屋の中を眺めていると、背後から笑い声が聞こえた。はっとして振り向くと、口元を押さえたエグバートがアンジェリカを眺めている。上着を替えるだけかと思えば、ラフな普段着に着替えていた。

「僕よりも、部屋の方が気になるか」
「い、いえ……失礼いたしました」

 かしこまって答えると、また笑い声が起きた。よく笑うお方だ、と半ば呆れる。エグバートは隣の椅子に腰を下ろすと肩をすくめた。

「実を言うと、抜け出す口実を探していたんだ。助かったよ」

 アンジェリカは逆に迷惑なのだが、王太子がそう言うなら頷くしかない。できればとっととこの部屋から退出し、何事もなかったような顔で父に帰宅の旨を伝えたい。
 しかし、エグバートはまだアンジェリカを帰すつもりはないようだった。見るものの心を蕩かす笑みを浮かべ、おもむろに立ち上がる。

「何か飲む?」

 壁際にしつらえられた棚から瓶を取り出すと、エグバートは振り返ってそれを掲げてみせた。緊張のせいか、喉が渇いていたことに気がついて、中身が何なのか確認しないうちにアンジェリカは「いただきます」と口にする。
 ――それを後悔したのは、翌朝になってからだ。


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