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第4話 こうなったというのも(来るまえ)①

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「あの、今何て言いましたか」
「普段なら問い返すのは厳禁ですが、今回は例外です」

 寮監の声は静かだった。

「ルイーゼロッテ・ケルデン、あなたのお母様が緊急に入院されたという知らせが入りました。政府の特別の配慮によって、休暇及び外泊許可を出します。すぐにハルシャー市民病院へと向かいなさい」

 あたしはその頃十二歳で、中央政府直属の全寮制中等学校の五年だった。



 夜行列車で六時間掛けてやっとたどり着いたハルシャー市駅から、更にエレカで十五分。山の向こうから昇る朝の光が目に痛かった。

「朝早くすみません」

 当直の、顔見知りのナースにあいさつ。

「まあロッテちゃん! ……ああ、聞いたのね。でもまだ早すぎるわ。こっちでお茶呑んで行きなさいな。お母さんは逃げないわ」
「……あの、ママは本当に、入院、したんですか? ……間違いじゃ、なく?」

 あたしはこの時まだ、情報ミスではないか、と疑っていた。ママはこの病院のナースだ。単なる情報ミスだと信じたかった。
 彼女はとにかく当直室に入る様に促した。

「お腹空いてない? よかったら食べて」

 そう言いながら、テーブルの上の皿を指す。夜食だろう、目の詰んだチョコレートケーキが置かれていた。
 さすがにあたしもお腹が空いていたので、言われた通りにぱくついた。口全体に広がるチョコの甘い味。ねっとりした舌触り。飲み込むのが少し苦労する程に重い生地。ゆっくりゆっくりあたしはそれを口の中で噛み砕いた。

「ミルクが無くて何だけど」

 と彼女はお茶を渡してくれた。それを口にしてやっと普通に飲み込むことができた。体中に、じゅわぁ、とエネルギーが広がった様に思えた。

「まだ五時半だからね。一時間くらい待ってちょうだい。七時に朝食だから、六時半には一応皆だんだん起きてくると思うの」
「あの、ママはやっぱり……」
「……ええ。一昨日、急に倒れて」

 手が震えた。

「で…… も大丈夫よ、ロッテちゃん。ほら、皆、マリアのことは大切だから、大部屋じゃなくて、個室に入ってもらってるから……ねえ、もっと食べて。顔色、良くないわよ」
「ありがとう……」

 結局あたしは、チョコレートケーキを一本の半分と紅茶を三杯たいらげてしまった。



「ママ!」
「……まあロッテ。どうしたの、……ああ、呼んでくれたのね。ごめんね、心配かけた?」
「かけた! すごく、かけた!」

 そう言ってあたしはママに飛びついた。

「大したことじゃあないのよ。……ただちょっと疲れがたまっただけだと思うの」
「だったらいいけど…… ママ、無理するから」

 そうなのだ。あたしのママ――― マリアルイーゼ・ケルデンは、そういうタイプだった。特に、あたしが寮に入ってからの二年間と来たら、会いに来るたびに痩せて行く様で、気が気ではなかった。

「ねえママ、あたしのことだったら、大丈夫だから、気にしないで。もっと楽に、自分の分だけ稼げばいいのよ」
「そういうことを子供が言うものじゃあないわ、ロッテ」

 ママはあたしが小賢しく意見すると、いつもこの調子ではねつけた。違うの、そうじゃない。ママが心配だから。
 そう言ってもこのひとの頑固さはあたしが一番良く知っていた。だからあたしができるのは、早く、少しでも早く、中等を卒業して、中央大にストレートで入って、政府のどっかに確実な職を見付けることだった。
 卒業まであと一年ある。でもそれを待ってはいられない。また特別コースで単位を稼がなくちゃ、とあたしはその時心の片隅でその時思った。
 何せママには身寄りは無い。三年前まではママの実家―――おじいちゃんとおばあちゃん夫婦が居た。もう居ない。あちこち所々で起きていたテロの「哀しむべき犠牲者」になって、二人揃って天国に召されてしまった。
 おじいちゃんは医者だった。昔は小さな医院をやっていたらしいけど、パパが死んで以来、閉めてしまったらしい。
 金儲けとは縁の無かったこのひと達がママに遺したものは家だけだった。あたし達はその家を売ったお金と、ママのナースとしての給料だけでつつましく暮らしていた。
 つつましく――― 生活は楽じゃなかった。
 だからあたしは、学校から政府直属の学校へ進学を推薦された時、一も二もなくぽん、と飛びついた。何せ全寮制、学費も食費も政府持ちだというのだ。
 ママは「離れるのは淋しい」と反対したけど、あたしは押し切った。少し我慢して。ほんの何年か。そうしたら、今よりもっと楽な生活をさせてあげる。
 だけど。やせた手が毛布から出ていた。あたしはその手の白さを、しわを、薬品しみを、―――そして細さを見てぞく、とした。

 あたしは間違ってた?

 そんな思いが、背中を走った。



「決して、良くないね」

 と、ママの上司は言った。だがその直後、顔に笑みを貼り付けた。

「けどこの病院の治療はしっかりしているから、大丈夫だよ」
「治るんですか?」

 彼は黙った。笑顔は凍り付いた。正直なひとだ。あたしはもう一押しした。

「治らないんでしょう?」
「君、そういうことを言うもんじゃないよ」

 彼は眉を寄せる。目を逸らす。困っている。

「君のママは治る。そう信じなくちゃ」
「でも先生、信じることと事実とは別だと思います」

 あたしは容赦なく言った。彼は嫌な顔をした。可愛げのないガキ、と言いたげな顔だ。スキップ組に大人が向ける目だ。あいにくあたしはそれにはとっても慣れていた。

「……君はそう言えばとても賢い子だったね」

 あたしは黙ってうなづいた。 
 と同時にあたしは自分がガキなことも良ーく理解していた。ガキは無力だ。

「じゃあはっきり言おう。治らない」

 やっぱり、という気持ちと、嫌だ、という気持ちがあたしの中で交差した。

「何処がどうという訳じゃない。ただひどく弱ってしまってる。できるだけのことは病院はするよ。皆、君のママを大好きだし」

 ええあたしも大好きです。世界中の誰よりも、あたし以上のひとは居ないでしょう。

「だから個室を用意したんだ。彼女の長年の勤めに報いたいと、皆思ったんだ。……立派な部屋でないのは残念だが」
「それはいいです」

 あたしは首を振った。どんな部屋だって個室であるなら文句は言わない。あたしは顔を上げ、真っ直ぐ彼の方を向いた。

「お願いします。ママに、できるだけのことを、して下さい。何でもします。費用が必要だったら、今すぐ学校を辞めてもいいです、この病院で働きますから」
「おいおい」

 彼は苦笑した。

「大丈夫だよ。……そんなことはしなくとも」

 そして彼の最後の言葉から判ったことがもう一つ増えた。
 ママは二年は保たない。
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