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56 「逃げてきたの?」

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 本当に、肌寒かった。
 風が冷たかった。
 どうしよう、と思った。
 もう一枚上着を持ってくれば、良かったかもしれない。
 でも、一度出たのに、戻るのは、嫌だった。
 ここで戻ったら、僕は出ることができなくなる。
 そして次に出るのは、きっと、彼に捨てられる時なんだ。
 それだけは、嫌なんだ。
 でも、本当に寒い。
 こんな時間じゃ、何処の店も開いてないだろう。
 コンビニは…… でも近所のコンビニに行っても仕方ない。
 ……って、一体、僕はどこに行こうというんだろう。
 出たはいい。
 だけどどこへ行こう。
 行くあては無かった。
 肩にかけたバッグをぐっと掴むと、僕はとにかく歩き出した。
 歩いていれば、そのうち身体が暖まるだろう、と思った。
 思わない訳にはいかなかった。
 考えるな。
 今考えたら、凍える。
 今が春であっても、今何かを考えたら、僕は凍えてしまうだろう。
 やがて上った朝日が、次第に熱を持ち始める。
 そしてまぶしい。
 どのくらい歩いたろう? 
 そこにあった公園にふらふらと僕は入って行った。
 座れるところというのが、都会ではどうしてこうも少ないのだろう。
 だから皆、地べたにそのまま座り込むんだ。
 きっと。
 自販機の濃いミルクティを買って、両手で持ちながら、それを僕はゆっくりとすすった。
 考えるな、と自分に命じた頭は、何となくぼうっとしている。
 順序だった考え方ができない。
 今は何時だろう。
 公園の外の道を、学校へ行く子供達の集団の声が聞こえてくる。
 僕はそれでも身動きもできずにずっとそこに座り込んでいた。
 お腹も空いてるのかもしれない。
 昨日は確かに一生懸命食べたけれど。
 それでも朝が来れば目は覚めるしお腹は空くんだ。
 僕は妙におかしくなる。
 凍り付いていたような目のあたりが、ゆっくりと解けだしてくるような気がした。
 苦笑いをする。
 せずにはいられない。
 さあどうしよう。
 とりあえずは、何か食べなくちゃ。
 そう思って僕は立ち上がり、公園を出ようとした。
 と。
 出ようとした僕の足は、その場に釘付けになった。

「美咲さん……」
「やっぱりめぐみちゃん? なのよね? どうしたの? こんな時間に」

 通勤用の服に、サンダルをひっかけている。
 ずいぶんと急いでいるような姿。
 今の今まで、会社に行くしたくをしていたのだろう。

「どうしたの、って…… 美咲さん、今から会社でしょ。急がなくていいの?」
「ちょっと…… 何、言ってるの?」

 どうしたというのだろう。
 どうして、そんな風に、兄貴と何処か似た綺麗な顔を、歪ませてるんだろう。

「こっち、いらっしゃい!」

 彼女は僕の手を思い切り引っ張った。
 何って力だ。
 それとも、今の僕には、女性の力に抵抗する程の力は無いというのだろうか?
 ぐいぐい、と引っ張られるようにして、僕は彼女のマンションに連れて行かれた。
 兄貴のものとは違い、割と新しく、小ぎれいな、白いクリームの様な壁の。
 扉を開けたら、女の人の部屋のにおいがした。
 化粧品や、シャンプーや、それに彼女自身の、何か。

「美咲さん」
「ほらこれ持って!」

 彼女はクローゼットからバスタオルと大きめのTシャツを取り出すと、僕に押しつけた。

「……どうしたのいったい」
「いいから。とにかく、シャワー浴びて」

 何だろう。
 とにかく、僕は言われるままに、手渡されたそれを持って、バスルームへ入っていった。

「使い方、判る? ……ああ、シャワー出せばいいだけだからね。そうしてあるから、適当に、使って」

 適当に、って。

「脱いだらそこに入れておくのよっ」

 有無を言わせぬ口調で、彼女は僕に命じる。
 とにかく今逆らったところで、僕には何も反論ができないのは確かだ。
 だったら、仕方がない。
 ごそごそ、とケンショーのところよりはずっと広い風呂場の脱衣場で、僕は服を脱ぎだし…… 彼女が何を言いたかったか、理解した。
 思わず手で口を塞ぐ。
 そんなことも、気付かないほど、僕は呆けてたのか。
 
「乾燥機、もう少しで仕上がるから、もう少し、そのままで居てよね」

 風呂から出ると、美咲さんはいつの間にか、通勤用の服から、部屋着に着替えていた。

「仕事は?」
「あたしは今日は、いきなり風邪を引いたのよ」

 そう言いながら、彼女は長いTシャツ一枚の僕をタオルや毛布でくるむと、テーブルの前につかせ、次々に見事な朝食を用意した。
 ミルクを半分入れたコーヒーが湯気を立てている。
 チーズを乗せたトーストをオーブントースターから出し、フライパンからは、半熟のスクランブルエッグ。
 電子レンジがチン、と音を立てると、ブロッコリが湯気を立てる。
 そこにマヨネーズをくるり、と彼女は乗せた。

「ほら食べて。食べるの」

 食欲は。
 風呂から上がったばかりだし、あまりない、と思っていた。
 だけど、ふわふわと金色に輝くスクランブルエッグを口に入れた時、僕は自分がひどくお腹が空いていたことを思い出した。
 チーズトーストを二枚と、コーヒーのお代わりをし、デザートのフルーツヨーグルトをたいらげてしまうまで、僕はものも言わずに、ただひたすら食べていた。
 ひどくそれが美味しかった。
 身体の隅々まで行き渡るように、美味しかった。

「もうコーヒーはいい?」

 何も言わずに、時々音を小さくしたTVの画面を眺めながら、ミルクティを口にしていた彼女は訊ねた。僕はもういい、と答えた。

「そう。ならよかった」
「……ごちそうさま、でした」

 ぺこん、と僕は頭を下げる。

「服…… もう乾いたかな……」
「逃げてきたの?」

 不意に彼女は問いかけた。
 はっとして僕は彼女を見た。
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みんなの感想(1件)

ルコ
2022.05.13 ルコ

うわぁ!!こんなん泣くわ…

すみません。はじめましてルコと申します。
今、一気読みさせていただいて震えております。あたしも当時バンド少女(まだギャルという言葉がなかったww)だったので、この年代のアングラバンドにはかなりの思い入れがあります。

この作品に出て来るバンド名も、もしかしてあの曲名?とか勝手に予測してニマニマしてるんですがw

 せつない系は完結してからじゃないと辛いから基本連載中は手を出さないんですが、タグと内容紹介に引かれて読み始め、江戸川様の文章力に魅せられてしまいました😭😭
あっ、エッセイも色々読ませていただいております。あたしも和田慎二先生大好きです😂

これまでもHOTに上がっていた恋愛のざまぁものは読ませていただいており、ありきたりなざまぁではない展開と、文章力に感銘を受けておりましだが、こんなにあたし好みな作品まで書いておられるとは…ありがとうございます😆👍

続きを楽しみにしております❤️

江戸川ばた散歩
2022.05.13 江戸川ばた散歩

うわーありがとうございますm(__)m
この話に感想が来るとは……(T^T)
これは25年くらい昔に書いた話です。
それをそのままアルファ用に改行・章分けしたり、「、」を減らしたりしていますので、じわじわですが全部おおもとはありますのでゆっくりですが確実に終わります。
というか、ライト文芸にしましたが、「どうせなら~」もスピンオフです。
書いていると切ない話になっていた時期のものでしたので、お気に召したなら、過去作はこれ終えたらまた出し直しますね。

和田慎二先生エッセイは明日仕上げますねm(__)m

解除
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