涯(はて)の楽園

栗木 妙

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Ⅰ章.カンザリア要塞島 ─トゥーリ・アクス─

【3】_8

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 やがて、お茶を飲み終えた副団長が、おもむろに「さて…」と切り出した。
「ジークのお茶も味わったことだし、これで用は済んだ。私は帰る」
 そして立ち上がった副団長につられて俺も椅子から腰を浮かせるが、しかし「おまえはいい」と制される。
「おまえの用は、まだ済んでないだろう。あとは二人の間で話を付けろ」
「ですが、副団長……」
「明日、出勤前に迎えに来てやる」
 それを言い捨てるようにして、そのまま踵を返してしまった。
 そこで音も立てずに、隣で総督が立ち上がる。
「ありがとう、アレク。――会えて嬉しかった」
 去り際の扉の前でその言葉を耳にした副団長は、そこで少しだけ足を止めて振り返った。
 だが何も言わず、代わりにフンと軽く鼻を鳴らして、足早に立ち去ってゆく。


 後に残されたのは、総督と俺と、二人だけ―――。


 立ち上がりかけの中腰のまま固まっていた俺の隣で、また音も無く静かに、総督が椅子に腰を下ろした。
 そして、つい今しがたまでと何の変わりもない仕草で茶碗に手を伸ばし、黙したままお茶を飲む。
 その姿に何となくつられて、俺も椅子に腰を落とした。
 しばらく無言の時間が流れる。
 そんな空気の中、やおら小さくかちゃりとした音が響いた。
 音の方を見やると、お茶を飲み終えた総督が、茶碗を受け皿に戻したところだった。
 空の茶碗を両手の中に包み込んだ、そのままの姿勢で俯いて、微動だにしない。
 少しだけ、声をかけていいものか迷った。
 だが、意を決して、やっとの思いで俺は口を開く。
「あの……」
 言った途端、即座にその肩がビクッとしたように揺れる。
 そして、俺が次の句を告げるべく口を開くよりも早く、「すまなかった」という言葉が投げかけられた。
 総督の顔は相変わらず俯いたままで、その瞳は閉ざされて、俺を見てくれることはなかった。
「おまえに何の打診もせず勝手な真似をした。おまえが怒っても仕方ないと思う。許して欲しいなどと図々しいことを言える立場ではないが……言い訳をさせてもらえるなら、決して悪意からしたことではない、それだけは分かってほしい」
「――分かってますよ」
 俺も俯き、タメ息混じりにそれを返す。
「総督が、何の打診もせずに勝手な真似をするのなんて、もう慣れっこじゃないですか。それも総督なりの考えがあってのことだと、俺だって理解してます。その考えがどんなものでも、俺は総督を信じますし、どんな命令にも従います。――でも……」
 そこで一瞬、言葉を切る。
 次の言葉を告げるのを、ほんのひとときだけ、躊躇った。


「今回のコレは、まるで別れ話だ」


 隣からは、肯定も否定も何も聞こえてはこなかった。ただ、茶碗と皿の触れ合うかちゃかちゃした音だけが、微かに耳に届いた。総督の手が小さく震えているのがわかる。
「総督なりに何らかの考えがあってのことだと、頭では理解してるんです。けど、繋いでいた手を一方的に振りほどかれたような気分になりました。おまえなんかもう要らない、って言われたみたいで……」
 だが俺は、その震えを見ないフリをした。その手から目を逸らして、なおも続ける。
「最初は、わけもわからないままに腹立たしいばかりだった。けど、それでも俺は総督を信じたかった。そんな自分が、だから余計に悲しくもなった。自分ではちゃんと信頼関係を築けたつもりになってたけど、別れ話も切り出して貰えないくらい、俺は信頼されていなかったのか、なんて……」
「――それは違う!」
 俺の後を引き継ぐかのように、ふいに総督が、その言葉を差し挟んだ。
 咄嗟に隣を振り向くと、真っ直ぐに俺を見つめる総督の瞳が、そこにあった。
「私がおまえを信頼していないなど、そんなことあるはずない!」
「わかってる……俺だって、そんなことわかってるんだ!」
 ふいに声を荒げてしまった、そんな俺に驚いたのか、そこでヒュッと息を飲み総督が押し黙る。
 その隙をついて、俺は更に言い募った。
「信頼して貰えてるって、わかってるのに……そんな相手から、それでも何も言って貰えないこっちの辛さを、相談してさえ貰えないことへの不安を、あんたは何もわかってくれてない!」
「トゥーリ……」
「俺は総督を信頼してる。総督だって俺のことを信頼してくれている。だからこそ、何も言ってくれない。何を言っても俺は信じてくれるって、それがわかってるからだろ? そんなふうに信頼し合える関係は理想だと思ってきた。今だってそう思ってる。――でも……そんなのはあくまで、互いが触れ合える距離に居てこその話じゃないか!」
 言いながら次第に激昂してゆく気持ちを、小さく戦慄く唇を、俺は止めることができなかった。
「理由も何も言われないまま、いきなり行方不明になられて、一人で勝手に生きていけとばかりにお膳立てされて……それでも信頼しろっていうのは、あまりにも酷じゃないか……!」
 我知らず俺の手が、総督の腕を掴む。
「俺が要らなくなったのなら――邪魔になったのなら、それでもいいんだ。どんな理由でもいいから、話して貰えないと納得できない」
「そんな……要らなくなったとか邪魔になったとか、決してそんな理由では……!」
「なら、話してよ! 俺を遠ざける理由を、ちゃんと聞かせてくれよ! 頼むから!」
 その掴んだ手で、唇を噛み締めて黙った総督を、思い切り揺さぶった。
「あなたは、俺の欲しい時に欲しい言葉を、いつもくれない……!」
「…………」
「言わなくても俺ならわかるだろう、っていう信頼が、今はもう、重すぎる……!」
「…………」
「それでも俺は、どうしたってあなたを信じたいんだ……! 頼むから、信じられる言葉をくれよ、お願いだから……!」
 徐々に揺さぶる手にも力が入らなくなっていき、とうとう俺は手を止めて、俯いた。
「お願いだから……!」
 それでもなお呟いた俺の肩へ、ふいに腕が回される。
 気が付けば、立ち上がっていた総督の胸の中に、俺は抱きしめられていた。
「ごめん、トゥーリ……すまない、本当に……!」
 頭の向こうから、響いてくる言葉。
「いま俺が欲しいのは、謝罪なんかじゃない」
「わかってる……しかし、おまえを傷付けてしまったことには詫びなければ気が済まない。本当にすまなかった」
 俺を抱き寄せる腕に力が籠る。
 だが同時に、それを伝わる微かな震えにも気が付いた。
「――怖かった……ただ私は、怖かっただけなんだ」
 震えながら俺を抱きしめる総督は、まるで俺に必死で縋り付いているかのようにさえ、感じられた。
「おまえが私のもとからいなくなってしまうことが、ただ怖かった」
「そんな……そんなこと、あるはずない……」
「知ってしまったら……これまで私がしてきたこと、これからしようとしていること、それを知ったら、おまえはきっと私を軽蔑する」
「総督……」
「それを言うのが怖かった。軽蔑されるのが怖かった。言って、おまえが私のもとから去ってしまったらどうしようと、怖くて怖くて堪らなかったんだ。だから、何も知らせないまま、おまえのくれる信頼の上にあぐらをかいて、一方的に手を放してしまった。何も言わなければ、きっとトゥーリは私をずっと愛していてくれるだろう、と。――それに……あんな想いをするのも、もう二度とゴメンだった。私が隣で一緒に戦えないのに、おまえだけを戦争の直中に置いていかなければならないなんて、こんなに怖くて堪らないことはない。自分の与り知らぬところでおまえに何かあれば、私だって生きていけない。自分の側に置いておけない以上、近衛騎士団に戻ってくれる道が、私が最も安心できる方法だったんだ」
 見えなくても手に取るようにわかった。――きっと今、総督は泣いている。一人で。
 絞り出すような声に、吐き出されるような言葉に、涙の色が混じっているから。
「ごめん、トゥーリ……私が弱いばかりに、おまえを傷付けて、本当にすまない……!」
 俺は無言のまま、ゆっくりと絡みつく腕を解いた。
 そうしながら視線を上に向ける。
 唇を引き結んで俺を見下ろした総督の頬は、明らかな涙の跡で濡れていた。
 おもむろに手を伸ばし、その流した涙の跡を指でなぞる。


 ああ、このひとは、本当に俺を想っていてくれてるんだな。――それが、ストンと真っ直ぐに、胸に落ちた。


 なぜこのひとは、自分の想いを表すのに、こんなにも不器用すぎるんだろう。
 意地を張って、誤解を招いて、自分で自分を傷付けて、一人の殻に閉じ籠もって、それで一人で泣いて。
 本当に世話のやける面倒くさいひとだ。
 なのに、それすらも、こんなにもいとおしい。


「――俺は……」
 ゆっくりと、慎重に言葉を選びながら、それを告げる。
「あなたの言葉だったら何を聞いても軽蔑しません、とか、何を聞いても驚きません、とか、そういう無責任なことは言えません」
「そう…だろうな……」
「でも、ただひとつ、確実に言えるのは」
 そこで一つ、大きく、息を吸い込む。
「それがどんなに軽蔑されるようなことであっても、どんなに突拍子もないことであったとしても、それでも俺は総督を信じてる、ってことだけです」
「トゥーリ……」
「総督を軽蔑しようが何をしようが、それでも俺は、あなたを愛することはやめられないと思う。たとえ袂を分かつようなことになったとしても、それでも俺は、あなたを理解したいと願うことをやめないと思う。だから……」
 言いながら、俺は両手を伸ばして、その頬に添えていた。
「だから総督は、これからは俺の信頼の上にあぐらをかいて、何でも口に出して言えばいい。一人で抱え込まれた挙句に一方的に手を放されるくらいなら、最初から全部共有したい。これからは、そういうふうに信頼し合える関係になりたい。その信頼関係さえあれば、きっと傍に居られなくても大丈夫だと思うから」
 頬に触れる俺の手を、新たに零れ落ちてきた涙が濡らした。
 その目許を指で拭いながら、ゆっくり俺は立ち上がった。
「――それだけじゃ、まだ怖い?」
 まだ新しい涙の跡に、そっと口付ける。
 そして、口付けが返された。唇に。
「――もう、大丈夫だ」
 唇が離れてから目を開けた俺の視界いっぱいに、まさに露を湛えて咲き誇る艶やかな花のような、満面の笑顔が映る。
「トゥーリになら、もう何も隠さずに言えると思う。もう怖がらない」
「そう……」
「だから、私にも隠さないでくれ。おまえも、私の信頼の上にあぐらをかいていい、何でも口に出して言え。それでも私は、おまえを愛することはやめないと、確実に言える」
「はい、そうします」
 答えた途端、唇をさらわれた。
 自然に、それが深く交わる。気が付けば互いの両腕がしっかりと絡み付いていて、二人の身体をきつく抱き合わせていた。
「――ひとつ、訂正しておくが」
「はい?」
「私はもう、『総督』ではないぞ」
 そう小さく唇を尖らせた、その表情に思わずクスリと吹き出してしまう。
「じゃあ……『伯爵さま』と、これからは呼ぶべき?」
「トゥーリ……おまえ、わざと言ってるだろう」
 膨れっ面になり、ますます尖ったその可愛らしい唇に、堪え切れず俺はキスをする。
「わかってるよ。あなたはもう俺に、そうやって呼ばれたくはないんでしょ?」
「わかってるなら……!」
 言いかける唇を、俺は再びキスで塞いだ。
「だって、そう呼んじゃったら俺の抑えが効かなくなる」
「え……?」
「だから、いつも我慢してたのに……そうやって人のこと煽るんだからなー……」
「何だ、それは……」
「よーするに、俺このまま暴走してもいい? って、訊いてるんだけど?」
 実はもう我慢の限界、とニッコリ笑ってみせた俺を、一瞬、呆気にとられたように見下ろして。
 次の瞬間には、くしゃっと表情を歪めて苦笑いを浮かべてみせる。
「本当に、おまえはいつもそればっかりだな」
 苦笑しながら、俺の耳元に唇を寄せた。
「…でも、私だって今そればかり考えてた」
 そして顔を見合わせて、一緒に吹き出す。
 まるで子供のジャレ合いの延長のような雰囲気で、自然に唇が重なった。
「隣が私の寝室なのだが……場所を移さないか?」
 合間に差し挟まれた言葉に「うん賛成」と返しながらも、それでも俺はキスをやめない。イタズラしてる子供の気分で。
「だから、トゥーリ……!」
 困ったような声になりつつも、それでも嫌がっていないことがわかるのが楽しい。
「もう……そんなに“お預け”にされたいのか?」
「それはヤダ」
 ようやく俺は唇を離すと、そのままぎゅっと、目の前のその身体を抱きしめた。
 伝わってくる熱だけでのぼせそうになる、そのくらい、このひとが愛しくてたまらない。
 だから俺は、その耳元に囁いた。火照る吐息に心からの想いをのせて。


「愛してるよ。――レイノルド」





《【Ⅰ章】完、【Ⅱ章】に続く。》
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