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第1話 好いてもない相手

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 草木も眠る夜更け、ジークリッド辺境伯の屋敷にて。

 慣れないベッドのせいで眠りが浅かったのか、私――エレノア・ヘンゼルはふと目を覚ました。
 静寂に包まれているはずの屋敷のどこからか、低い音が断続的に聴こえて来る。

(何かしら……まさか、幽霊とか?!)

 耳を澄ましてその音を聴くと、人の声のようにも思える。
 恐ろしくなった私は、その音の正体を確かめて安心したいのだと自分に言い聞かせながら、静かにベッドを降りた。
 足音を立てないよう、少しずつ音のする方に近付く。

 クローゼットの前を横切った時、その低い音が人の声であることを確信した。声の出所は、このクローゼットだ。

(開けるわよ。幽霊なんて実在しないんだから。クローゼットを空けたら幽霊が飛び出してくるなんて、絶対にないんだから!)

 クローゼットの扉の取っ手に手をかけて、私は思い切ってそれを開けた。

(ひっ……!)

 声にならない声を上げながら、私は腰を抜かして床にへたり込む。
 固く閉じた目を片方ずつゆっくりと開いていくと、そこにはもちろんのこと、幽霊なんていなかった。
 その代わり、左右に所狭しと吊るされた衣裳の向こう一番奥に、うっすらと光が差し込んでいる場所がある。
 先ほどからの低い声が、その光の向こうからはっきりと聞こえた。


「鏡よ鏡、どうか私に真実を教えてください。私の声が聴こえますか」


(鏡……? 一体何の話なの?)

 立ち上がり、恐る恐るクローゼットの中に入ってみる。音を立てないように奥の壁に近付いた。


「鏡よ、答えて欲しい。好いてもいない相手と結婚させられたら、人は一体どうなってしまうのだろう」


 壁のすぐ側まで行って、私はおおよその状況を理解した。
 私のために用意されたこの部屋のクローゼットの壁には、小さな穴が開いていたのだ。

 どうやら隣の部屋にいる男が、鏡に向かって話しかけている声が漏れて来ているらしい。

(ああ、そういうことね)

 この低い声の主は、ちょうど明日、私との結婚式を控えた辺境伯ユラン・ジークリッドのものだ。
 明日の結婚式を終えれば正式に夫婦になる私たち。隣同士の部屋を当てがって何か起こったところで大して問題ないだろうという、使用人たちの適当な仕事が見て取れた。

 壁の穴から向こうを覗いてみる。
 穴の向こう側に何か木でできたものが吊るされていて、この穴を塞いでいるらしい。ということは、ユランの方は私に声が聞こえていることには気付いていないのだろう。

(それにしても、私のことを「好いてもいない相手」だなんて酷い)

 結婚するとは言っても、ユランが私のことを好きじゃないことなんてとっくの昔に知っている。しかしこうしてはっきりと言葉にされてしまうと、想像以上にショックが大きい。

 私たち二人の関係は、少々複雑だ。
 今私がいるこの辺境の地は、元々ユランの兄であるアンゼルム・ジークリッドが治めていた。アンゼルムは辺境伯の爵位を継ぐと、年の離れた弟のユランをさっさと養子に出してしまった。
 優秀なユランが邪魔になったのだろう。

 幼いユランは子供のいなかったクルーガ伯爵家の養子となり、後継者として育てられた。そして私の姉であるゼルマ・ヘンゼルと婚約。その当時、ユランと姉はまだ十二歳、私が十歳だったと記憶している。

 状況が一変したのは、ユランが十八歳になった頃。ユランを養子に迎えたクルーガ伯爵家に、夫妻の実子である弟が生まれたのがきっかけだった。
 伯爵夫妻は実子の方を後継者にしたいと思い始めた。それを感じ取った姉のゼルマはユランを見限り、もうすぐ結婚だと言う時期に婚約破棄したいとごねるようになった。

 そんな時、ユランの兄アンゼルムにも異変が起こった。
 放蕩の限りを尽くして財産を使い切ったアンゼルムは、長年の自堕落な生活のせいで体を壊して亡くなったのだ。

 ユランは伯爵家との養子縁組を解消し、兄の治めていたこの領地に戻った。姉のゼルマもユランに同行し、辺境伯夫人としてユランを支えていく……はずだった。

 しかし姉は、ユランとの結婚を拒んだ。
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