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第3話
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店仕舞いの時間の少し前に、彼はまたアンドロイドを伴って、店の前にやってきた。
夜は雨の予報の通り、空が雲で覆われ風が出てきていた。私の背後で風に揺れる木蓮の刺繍を、彼はホッとした表情で見る。
仮に、この刺繍がなくなってしまっていたら、彼は酷く憤るか落胆するのではないだろうかと思わせられるような。
ここが終わるくらいにもう一度来る。それまでに考えておいてくれ。
考える、とは木蓮の刺繍の金額だろうか、それとも大真面目に私の金額。
私が今までにない困惑を感じている間に、彼は腕時計に目をやって、約束だと短く言い残して足早に人混みの中へ消えていった。
彼から一方的に突きつけられた「約束」のはっきりした内容も分からないまま、そこに取り残された私は、時折地面に靴のつま先でグルグルと丸を描きながら、ため息をつくしかなかった。
どう考えても面倒な人に目をつけられている。
しかし、これの何がそんなに彼を引きつけているのだろう。
作った者として、自分の作品を気に入ってもらえるのはとても嬉しい。でも、私ごと買いたいというほど欲しくなるものだとは、どうしても思えないのだ。
頓珍漢なことを並べる彼にいっそ木蓮の刺繍を渡してしまおうか、とも思った。でも、そんなくだらない考えは一瞬で霧散する。
他人にはただの刺繍作品にしか見えなくても、私には「ただの」作品ではない。
この木蓮を刺した二年間は私にとって一言では言い表せないような日々であった。よく、一針一針に想いを込めて、などという言い方がされる刺繍だが、この作品の一針にこもっているモノは、そんな明るい色合いではない。
ようやく、埋めたのだ。
急に変わってしまった日々で、知らず知らず壊れた自分。その破片の隙間一つ一つを、糸で細かく縫い合わせるがの如く、刺繍を繰り返して出来上がった木蓮。
その発端は、私を育ててくれた祖母の死だった。
両親共事故で亡くした一人っ子の私の、最後の近しい親族。
引き取られた時は小学五年生という、難しい年頃に差し掛かった時だった。にもかかわらず、祖母はよく私に向き合ってくれた。
どちらかと言うと引っ込み思案だった私を、無理に外に出るように仕向けるのではなく、家の中でもできることを、と絵を描いたり本を読むことを勧められた。
無理しなくても、向いてることをすれば良い。
そう言って刺繍の技法を教えてくれたのも祖母だった。もともと絵を描くことが好きだったのもあって、私は刺繍に夢中になった。
祖母の家の庭には、亡くなってしまった祖父が好きだったという木蓮の木があった。南天や柊が植わる庭の中で、木蓮はひときわ大きな体をしていた。
最初は全然庭木に興味などなかったのだけど、刺繍をするようになって、植物に興味が出てきた。
モチーフに植物や動物などが多く、しかも西洋の技法では外国の庭の草花を刺すことが珍しくない。
私は、見たことのない植物を、図書館の本で調べたり実際に植物園に行って観察したりした。
そうしているうちに、家の庭でも植物を観察するようになり、四季の姿の変化や美しさに気付くようになった。中でも、四季の変化が著しい木蓮に、一際心惹かれたのだった。
そんな日々にも終わりが見えてくる。
高校を卒業してアルバイトをしながら、私は、体の自由がだいぶ利かなくなってきた祖母の面倒を見た。
彼女は芯の強い人だった。
自由が利かずとも、できることをゆっくりやった。
過剰に世話をする私に引け目も感じる様子もなく、かと言って傲慢でもなく。
そうして冬が終わりかけた時、初冬にひいた風邪を拗らせて祖母はなくなった。
肺炎というありふれた死因の持つ響きは、彼女に相応しくないと思ったけれど、死神に文句を言っても彼女は戻ってこない。
祖母が亡くなって、手元にあったお金で安いワンルームマンションを購入して、私は家を出た。祖母と二人で暮らした家の庭にしっかりと根付いていたあの木は、遺産相続の中でなくなったと、弁護士から聞いた。
夏のある日、何の気なしに見に行ったそこは、話には聞いていたが予想以上の別世界になっていて、私は軽く吐き気を覚えた。
現実を見たことを後悔したけれど、記憶に新しく刻まれた映像は、見なかった時には戻せない。
私は真夏の日差しの中、馬鹿みたいに全速力で走って自分の家に戻った。
部屋の玄関をくぐって、靴を脱ぎ捨てて洗面所に飛び込んだ。吹き出す汗を洗面台に顔を突っ込んで、頭から水をかけて流した。私の記憶の中で生きる木蓮を、見てしまったものが侵食しないように、と。
それから、いつも使っている図案用のスケッチブックとクレヨンを引っ張り出して、思い出せる限り、庭の木蓮を描いた。何枚も、何枚も。
その間、祖母と暮らした家の写真は見なかった。
自分が愛した木蓮以外の姿を少しでも入れようものなら、更地になってしまったあの庭が、私の記憶の中に残ったそれに襲いかかってくるから。
春の花をつけた様子、夏の青々と茂るもの、秋から冬の紅葉、そして落葉した様、雪が積もった時の枝も描いた。
思いつく限りの木蓮の姿を、スケッチブックに一枚も残りがなくなるまで描いて、私はそれを壁にベタベタと貼っていった。
四方を囲む、ほとんど家具も置かれてない一室の白い壁を、そうやって記憶の中に佇む木蓮で埋め尽くして、私はフローリングの床にバタッと大の字に寝転ぶ。
木蓮の絵に囲まれ、ぼんやりと天井の丸い無機質な照明器具を見上げる。
目を閉じれば、庭の木蓮が鮮明に浮かび、その記憶が薄れそうになったら壁に目をやって、薄れた部分をクレヨンでしっかり書き足した。
その作業を頭の中で繰り返しながら、私は無理はしないと決めたのだった。
今は収入がなくても、手元にあるお金だけで数年はなんとか暮らしていける。
その間、この空虚な気持ちを何かで満たさなければ。
それからすぐに、私はアルバイトをやめて部屋に引きこもった。
祖母がいなくなった日々を、見ないように歩いてきた道を、私はその日から刺繍で埋めることにした。
絵を描きながら思ったのは、木蓮のことだけでなく、祖母との穏やかな日々のこと。
生きている私は前を向いて生きていかなければいけないと思ったけれど、それは今すぐじゃなくてもいいじゃないか、と思い直したのだ。
大量に買ってきた刺繍糸を、色を吟味しながら絵の中に這わせていく。
幾重にも重ねた糸に埋没して。うねる糸の海の中でパクパクとえら呼吸をして。
そこから見上げる水面はキラキラして、でもそれはずっと見ていたくなるのに、泣きたくなるような光で。私は刺繍から与えられる穏やかさの中で、少しずつ失くしたものと向き合った。
そうしてできたのが、この木蓮。
私は時折木蓮を振り返った、この刺繍をした時の事を思い出しながら。
いくら彼に請われたところで、これを渡すことはできない。
それが私の出した結論だった。
夜は雨の予報の通り、空が雲で覆われ風が出てきていた。私の背後で風に揺れる木蓮の刺繍を、彼はホッとした表情で見る。
仮に、この刺繍がなくなってしまっていたら、彼は酷く憤るか落胆するのではないだろうかと思わせられるような。
ここが終わるくらいにもう一度来る。それまでに考えておいてくれ。
考える、とは木蓮の刺繍の金額だろうか、それとも大真面目に私の金額。
私が今までにない困惑を感じている間に、彼は腕時計に目をやって、約束だと短く言い残して足早に人混みの中へ消えていった。
彼から一方的に突きつけられた「約束」のはっきりした内容も分からないまま、そこに取り残された私は、時折地面に靴のつま先でグルグルと丸を描きながら、ため息をつくしかなかった。
どう考えても面倒な人に目をつけられている。
しかし、これの何がそんなに彼を引きつけているのだろう。
作った者として、自分の作品を気に入ってもらえるのはとても嬉しい。でも、私ごと買いたいというほど欲しくなるものだとは、どうしても思えないのだ。
頓珍漢なことを並べる彼にいっそ木蓮の刺繍を渡してしまおうか、とも思った。でも、そんなくだらない考えは一瞬で霧散する。
他人にはただの刺繍作品にしか見えなくても、私には「ただの」作品ではない。
この木蓮を刺した二年間は私にとって一言では言い表せないような日々であった。よく、一針一針に想いを込めて、などという言い方がされる刺繍だが、この作品の一針にこもっているモノは、そんな明るい色合いではない。
ようやく、埋めたのだ。
急に変わってしまった日々で、知らず知らず壊れた自分。その破片の隙間一つ一つを、糸で細かく縫い合わせるがの如く、刺繍を繰り返して出来上がった木蓮。
その発端は、私を育ててくれた祖母の死だった。
両親共事故で亡くした一人っ子の私の、最後の近しい親族。
引き取られた時は小学五年生という、難しい年頃に差し掛かった時だった。にもかかわらず、祖母はよく私に向き合ってくれた。
どちらかと言うと引っ込み思案だった私を、無理に外に出るように仕向けるのではなく、家の中でもできることを、と絵を描いたり本を読むことを勧められた。
無理しなくても、向いてることをすれば良い。
そう言って刺繍の技法を教えてくれたのも祖母だった。もともと絵を描くことが好きだったのもあって、私は刺繍に夢中になった。
祖母の家の庭には、亡くなってしまった祖父が好きだったという木蓮の木があった。南天や柊が植わる庭の中で、木蓮はひときわ大きな体をしていた。
最初は全然庭木に興味などなかったのだけど、刺繍をするようになって、植物に興味が出てきた。
モチーフに植物や動物などが多く、しかも西洋の技法では外国の庭の草花を刺すことが珍しくない。
私は、見たことのない植物を、図書館の本で調べたり実際に植物園に行って観察したりした。
そうしているうちに、家の庭でも植物を観察するようになり、四季の姿の変化や美しさに気付くようになった。中でも、四季の変化が著しい木蓮に、一際心惹かれたのだった。
そんな日々にも終わりが見えてくる。
高校を卒業してアルバイトをしながら、私は、体の自由がだいぶ利かなくなってきた祖母の面倒を見た。
彼女は芯の強い人だった。
自由が利かずとも、できることをゆっくりやった。
過剰に世話をする私に引け目も感じる様子もなく、かと言って傲慢でもなく。
そうして冬が終わりかけた時、初冬にひいた風邪を拗らせて祖母はなくなった。
肺炎というありふれた死因の持つ響きは、彼女に相応しくないと思ったけれど、死神に文句を言っても彼女は戻ってこない。
祖母が亡くなって、手元にあったお金で安いワンルームマンションを購入して、私は家を出た。祖母と二人で暮らした家の庭にしっかりと根付いていたあの木は、遺産相続の中でなくなったと、弁護士から聞いた。
夏のある日、何の気なしに見に行ったそこは、話には聞いていたが予想以上の別世界になっていて、私は軽く吐き気を覚えた。
現実を見たことを後悔したけれど、記憶に新しく刻まれた映像は、見なかった時には戻せない。
私は真夏の日差しの中、馬鹿みたいに全速力で走って自分の家に戻った。
部屋の玄関をくぐって、靴を脱ぎ捨てて洗面所に飛び込んだ。吹き出す汗を洗面台に顔を突っ込んで、頭から水をかけて流した。私の記憶の中で生きる木蓮を、見てしまったものが侵食しないように、と。
それから、いつも使っている図案用のスケッチブックとクレヨンを引っ張り出して、思い出せる限り、庭の木蓮を描いた。何枚も、何枚も。
その間、祖母と暮らした家の写真は見なかった。
自分が愛した木蓮以外の姿を少しでも入れようものなら、更地になってしまったあの庭が、私の記憶の中に残ったそれに襲いかかってくるから。
春の花をつけた様子、夏の青々と茂るもの、秋から冬の紅葉、そして落葉した様、雪が積もった時の枝も描いた。
思いつく限りの木蓮の姿を、スケッチブックに一枚も残りがなくなるまで描いて、私はそれを壁にベタベタと貼っていった。
四方を囲む、ほとんど家具も置かれてない一室の白い壁を、そうやって記憶の中に佇む木蓮で埋め尽くして、私はフローリングの床にバタッと大の字に寝転ぶ。
木蓮の絵に囲まれ、ぼんやりと天井の丸い無機質な照明器具を見上げる。
目を閉じれば、庭の木蓮が鮮明に浮かび、その記憶が薄れそうになったら壁に目をやって、薄れた部分をクレヨンでしっかり書き足した。
その作業を頭の中で繰り返しながら、私は無理はしないと決めたのだった。
今は収入がなくても、手元にあるお金だけで数年はなんとか暮らしていける。
その間、この空虚な気持ちを何かで満たさなければ。
それからすぐに、私はアルバイトをやめて部屋に引きこもった。
祖母がいなくなった日々を、見ないように歩いてきた道を、私はその日から刺繍で埋めることにした。
絵を描きながら思ったのは、木蓮のことだけでなく、祖母との穏やかな日々のこと。
生きている私は前を向いて生きていかなければいけないと思ったけれど、それは今すぐじゃなくてもいいじゃないか、と思い直したのだ。
大量に買ってきた刺繍糸を、色を吟味しながら絵の中に這わせていく。
幾重にも重ねた糸に埋没して。うねる糸の海の中でパクパクとえら呼吸をして。
そこから見上げる水面はキラキラして、でもそれはずっと見ていたくなるのに、泣きたくなるような光で。私は刺繍から与えられる穏やかさの中で、少しずつ失くしたものと向き合った。
そうしてできたのが、この木蓮。
私は時折木蓮を振り返った、この刺繍をした時の事を思い出しながら。
いくら彼に請われたところで、これを渡すことはできない。
それが私の出した結論だった。
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