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しおりを挟む私は初めから気付いていたはずだ。あの村に、居場所などなかった。
気色の悪い瞳に、何の力もない要領の悪い頭。私の言葉を信じようとする者がいないことなど、予測できていたはずだ。だからこそ、ただ、鬼の存在を告げにいくために、この村を追い出されることがあれば必ず持っていくと決めていた二つを持ち出した。
初めから私は心のどこかで、誰一人として私の言葉を信じようとする者などいないことを知っていたのだ。
この日の天候は酷く荒れていた。
このような日に街へ降りようとする者がいれば、間違いなく、村の誰かが声をかけて下山を止めるだろう。しかし私に声をかけてくる者は誰もいない。むしろ、私の存在などなかったかのように素通りしていく。
酷く雪が降りしきっている。
村を離れるにはあまりにも心もとない服装のまま、ふらりと村の出入り口へと歩く。
おじさまは、いつも私が村を出ることを嫌がっていた。だが、もうおじさまはこの世にはいない。私を心から慈しむ者など、もうこの世にはいないのだ。
振り返り考えてみれば、くしくも私の存在を認めていたのは、あの神主だけだった。あれが何者であるのか、もう、考える気力もない。
ゆっくりと足を踏み出して、村の外へと出ていく。
門出には、あまりにも厳しい日だった。行く宛てもない。ただふらふらと雪の中を歩いて、おじさまの魂が眠っている祠へ向かう。
道を進めば進むほどに雲行きは怪しく、雪が頬を打つ力が強まっていく。
半刻ほどで着くはずの場所にたどり着くことができず、指先がかじかみ始めていた。
あきらかに様子がおかしい。
これほど歩いているのに、たどり着かないはずがないのだ。どれだけ進んでも、祠が見えてこない。そのうち一寸先さえも見えないほどに激しく吹雪くようになり、絶えず耳鳴りが聞こえるようになった。
同じ道を繰り返し通っている。そのことに気付いた時にはすでに、意識が朦朧としていた。何かに化かされている。通い慣れた場所にたどり着けない理由が、それしか考えられない。
おじさまも、こうして遭難したのだろうか。それならば、私も同じ死を迎えられる。これでよいのかもしれない。だが――。
「どうせなら、おじさまの近くで……」
呟いたそのとき、どれだけ歩いてもたどり着くことができなかった祠の入り口が、ちょうど一丈ほど先に現れた。まるで、私を手招いているかのようだ。祠の先は、雪が降りしきっているようにも見えない。その場所だけが陽の光を浴びて、煌々と輝いていた。
美しい、柔らかな景色だ。きっとあの場所は極楽浄土だろう。あの場所に行けば、おじさまに会える。
呆然と美しい光景を見つめ、右足を踏み出す。しかしその足が雪を踏み締めることはなく、代わりに乾いた音を立てて何者かが私の手首を掴んだ。
「どうして逃げるんだ?」
耳に届く男の声は、心底不可思議そうな声色だった。強く雪が吹きすさぶ中で語り掛けているとは思えぬほどに明るい声色で問うたその男は、私がびくりと肩を揺らしながら振り返ると、もう一度口を開く。
「昨日は来ると言っていただろうに。どうしてだ?」
男は、私の予測と寸分違わず麗しい顔で私を見下ろしていた。
白皙の麗しい男は、水干に袴という、いつも通りの装いでその場に立っている。まるで、吹雪の中にいるとは思えぬような軽装だ。
私の手首を掴む指先の熱には、やはり覚えがある。恐ろしさに震えながらその手を見下ろし、彼のもう一方の手から、赤い何かが滴り落ちていくのが見えた。
「に、逃げてなんて」
「こんなに震えているのにか?」
彼の手からぽた、ぽたと落下していく、あれは、いったい何だろうか。恐怖を言葉にすることもできず、ただ、震える唇でごまかすように声を上げた。
「さ、さむくて」
私の尋常ではない反応を見ても、神主は驚くことなく微笑みを浮かべている。
「はは、そりゃあおかしいな。君は寒さには強いほうだろう」
そのようなことを、人に話したことはない。話したことがあるとすれば、おじさまにだけだ。どうしてそれを、この男が知っているのだろうか。得も言われぬ恐怖で背筋が凍り付く。しかし、顔をこわばらせる私を見ても男は気分を害することなく、極めて穏やかに言った。
「それより君、頬が腫れているようだ。大丈夫かい? これほど冷えていても熱を持っているんだ。そうとう強く殴られたんだろう」
まるで親切な隣人のように囁かれる言葉に、息が凍った。私の手首を掴んでいた指先がそっと離れ、私の右頬に添えられた。何一つ抵抗をすることもできず、ただ男の行動を見つめている。
恐ろしく麗しい男。私の頬に触れたその刹那、瞳が黄金に輝いたように見えた。
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