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「誰にやられたんだ?」

 耳鳴りがするほどに凍てつく雪が降りしきっているはずのこの場所で、男の声だけがいやによく響く。他の音が、少しも聞こえなくなっているのだ。そのことに気付いた瞬間、かちかちと歯が音を立てて震えだした。

「……こ、これは、自分で」
「ははあ。これを自分でやったと言うのか。君は嘘が下手だなあ」

 決死の思いで呟いた答えは、あっさり笑って流された。やはり、どう考えても聞き覚えのある声に、震えが止まらなくなる。しかし男は、私の恐怖心など置き去りにし、軽やかに私の手を取り直して歩き出した。

 俯いた視界に映る紅の袴は、所々が赤黒く染まっていた。

 あれは、あれはいったい何だろうか。何度も思考を巡らせているはずが、答えが導き出せない。否、恐ろしくて、導き出す前に己の思考の糸を焼き切っているのだ。

 鼻歌でも歌いだしそうな男に手を引かれ、言葉を交わすこともできずに後ろを歩く。

「ど、どこへ……」
「お礼参りだ。せっかくだから、君も見たいだろう?」
「お礼、参り?」

 怯えながらも男の案内に従って歩くと、すぐに村にたどり着いた。

 あれほど苦労しながら一人で歩き回ったと言うのに、彼の手に引かれて歩く道は何の苦労もなく、まるで雲の上を歩いているかのようだった。呆気なく、少し前に絶望しながら出て行ったはずの場所に引き戻されている。

 しかし、どのような顔をして戻ればいいのかなどと考え込む暇もなく再度手を引かれ、あっさりと村で最も立派な屋敷――旦那様の屋敷にたどり着いた。

「な、にを」
「あああぁあ゛っ……! ヒっ、いや、イやあああ゛!」

 何をしようとしているのかと問う前に、金切り声が耳に響いて思わず口を噤んだ。引っ切りなしに叫び声が聞こえ続けている。

 それが、誰の声であるかを判別するのが、私はどうしても恐ろしい。

 血の臭いがする。生臭くツンと鼻につく異様な臭いだ。男から匂っていた錆のような臭いよりも、強烈なほど強く屋敷中が臭っている。

 ただ、尋常ではないことが起こっているだろうことだけが察せられ、わけもわからぬまま冷や汗が止まらなくなる。

 男は、私が顔色を失くしているのを知ってか知らずか、やはり笑みを浮かべながら歩いていた。三度瞬きするうちに、あっさりと私と男の身体がヤエの部屋にたどり着く。そのことに驚嘆する間も無く、目の前の光景に息を飲んだ。

 少し前までの美しい装いをしていたヤエはここにはいない。

「っひ……!」
「可哀想に。よい行いをしていればこのようなことにはならなかっただろうになあ」

 無意識のうちに漏れ出ていた悲鳴を、慌てて手で塞いだ。震えあがる私とは対照的に、神主はのんびりとつぶやいている。

 ヤエは、十九の娘らしい瑞々しい肌を持つ女だった。しかしいまやその肌は激しくただれ、左の頬はべろりと皮が剝がれだしている。プツプツ、と肌が血の気泡を作っては潰し、鮮血が飛び散る。その度に芋虫のようにのたうち回って奇声を発しているのだ。

 彼女の皮膚が抉れている左頬は、ちょうど私が彼女に打たれたところと同じあたりだった。

「ああアあアァア゛……っ! 痛い゛、痛いイィ゛!」

 ヤエはまるで、神主と私の存在になど気づいてもいない。

 ほんの数刻前までは、極めて健康そうな顔色だった。その人が、突然このようなおぞましい状況になるはずがない。――人間の力では、決してできることではないのだ。

「あ……、あ」

 あまりの恐ろしさに、言葉を紡ぐこともできない。引きつった呼吸を繰り返し、猛烈な眩暈に倒れかけたところを、男の腕に難なく抱き留められた。

「おっと君、大丈夫か?」

 これは、人間ではない。

 絶望のような確信を得て、その腕を振り払おうとしたその時には、またしても周囲の景色が変わっていた。神主は丁寧に私を畳の上に座らせ、座敷の中央で苦悶の表情を浮かべながら奇声を上げる旦那様の顔を真上から見下ろしていた。

 なにゆえこのような恐ろしいことが起こったのか。

 考えようとするたびに頭の奥が鋭く痛んで、眩暈が激しくなる。神主はまるで、初めて見る玩具を観察するかのようにしげしげと村長を見つめ、こちらを振り返った。

「あなたが……これ、を、やったんですか」

 息苦しくてたまらない。なぜこのようなことが起こったのかわからず、震える声で呟いた。しかし、私の蚊の鳴くような言葉をしっかりと聞き取ったらしい男は、躊躇いなくうなずいて口を開く。

「俺は約束を守る男なんだ」

 言われている意味が、少しもわからない。たっぷりと呆然として、やはり震えながら問う。

「約束……? こんな約束、していません」
「しただろう。君が元服するまで守る代わりに、君を食らうと」

 何一つ願ってもいない言葉を告げられ、動悸が止まらなくなる。そのようなことは知らない。願ってもいない。そもそも、この男のことなど知るはずもない。

 胸の内に浮かぶ言葉のすべてが声にならず、ただ男の顔を見上げていた。世にも美しい顔だ。その手がどれだけ血に濡れていたとしても、皆騙されてしまうのだろうか。

「しばらく様子を見ていたが、どうやらこの村は、あまり君にはよい環境ではないようだ。気づくのが遅くなってすまなかったな」

 男はまるで、たいそう親切な隣人のように言った。その言動と行動があまりにもちぐはぐで、考えが到底理解できない。

 守る代わりに喰らうとは何だ。この惨劇は何だ。私がこの全てを引き起こしたというのか。

 何も言えずにいる私を見て、男は口元に手をやりながら首を傾げた。悩まし気な格好でさえ、人の目を惹き付ける。

「まだ足りないか?」
「な、にを……」
「村のすべての者を、これにしてやろう」

 私が答える前に、男がぱちんと指を鳴らす。

「え……?」

 その途端、地鳴りのような、もしくは酷く鬱陶しく頭にこびりつく耳鳴りのような、あるいは人を殺めるための呪詛のような、形容しがたい音が四方に飛び散った。

 それが人間の発する叫び声なのだということを知るのに、さほど時間はかからなかった。

 大勢の人間の叫び声とは、世にも恐ろしい地鳴りのような音なのだ。そのようなことなど、生涯知らずにいたかった。まるで地獄の底のような音。この世に地獄があると言うのなら、まさしくこの場所だろう。

 恐ろしさに身体中が震えだし、耳を塞ぐ間もなく叫んだ。

「や、やめてくださいっ……! お、お願いしま、す。やめてください。このような、こと、のぞん、でいません……! ど、どうか、お怒りを、し、しずめて、ください」
「だがなあ、君を軽んじるやつらだ」
「そのようなこと、気にしていませ、ん。どうか……、も、もう私は、この村を出た身です。ですからもう、よいのです」

 何のために懇願しているのか、己のことがよくわからない。ただ恐ろしかったのだ。

 己のせいですべての者が傷つけられる。その重圧に耐えかねて、ひれ伏すように頭を下げる。男は私の懇願を見て間を置かずに私の元へと戻り、二度肩を叩いた。

「では、もう君はここでの生活に飽いたということか」
「そ、そうです。ですからもう、このようなことは」
「――この村はもういいということだな。そうか。……ではもう、君の縁はすべて切ってしまおう」

 縁、とつぶやいて顔を上げると、それまで心底楽しそうに話していたはずの男が、その瞬間だけ、表情を失くしているように見えた。

「残念ながら、ここは君にふさわしくない場だった。ただそれだけだ」

 私が現世で聞いた言葉は、それが最後だ。男の手が私の目元を覆い隠す。

 その瞬間、ぷつん、と耳の中で音が鳴って呆気なく意識が途切れた。
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