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 柔らかな陽気が肌を撫でる。空気は微かに花の香を纏い、よく澄み渡っているように感じた。遠くからは、微かに小鳥の囀りのような音が聞こえる。

 まるで一点の曇りもない晴天の麗かな昼間のような優しい匂いに手招かれ、ゆっくりと瞼が上がった。

 朧げに見えてきたのは、いつも見上げていた茅葺の天井とは違う格天井ごうてんじょうだ。規則正しく敷き詰められた正方形の鏡板には、すべて花の絵が描かれているようだった。

 椿、水仙、山茶花、馬酔木、それにあの花は何だろうか。知らない花が多い。

 意味もなく花の名を一つひとつと考え込んでいるうちに、ひょっこりと視界に黄金色の何かが現れる。

「うぬ!? 目を覚まされましたか! やや! ぐっすり眠っておられましたから、私めは大変心配しておりましたぞ!」

 何者かが妙に高い声を上げて喋っているようだ。身体を起こしつつ、呆然と周囲を見回す。

 この部屋は四面の全てが障子で囲われており、それらには天井の鏡板と同様に一つひとつ、絵が描かれている。ぐるりと一周するように作られた絵は一つの物語のように続いており、どこにも繋ぎ目がない。繰り返し、延々と見続けられるような趣向だ。

 絹布団と行燈が置かれている室内には、私以外の人間はおらず、側にはただ一匹の子狐が折り目正しく座っている。先ほど私の顔を覗き込んでいた者だ。その尻尾は千切れそうな勢いで振り乱されていた。

 私は果たして、どこへ来てしまったのだろうか。あの場所で、神主に化けた鬼に殺されたものだと思い込んでいたが――。

「千代様! ご機嫌いかがですかな? ……ぬう? 千代様、千代様!」

 何者かが懸命に話しかけてきていることはわかるが、それがどこにいるのかわからない。不可思議な現象に首を傾げつつもう一度閉め切られた室内を見回すと、その声はますます大きくなって私を責めた。

「あんまりでございます! 千代様! 私でございます……! こちらです! ……ぬうう! こっちです!!」

 布団についていた手に、毛並みのよい尻尾が触れたのを感じ、思わず視線を向ける。そうすると、その場に立ち上がった狐は、はくはくと人間のように器用に口を動かして言った。

「やっとこちらを見てくださいましたね!? ぬぬぬ……、私めがこれほど献身的にお支えしておりましたのに……! あんまりでございます!」
「きつねが、……しゃべってる?」
「喋らない狐がいるとでも仰るのですか」
「きつねは喋らないと、思うけど……」
「むう~! 私めは喋る狐なのです! 以後お見知りおきを!」

 ところどころ謎の奇声を上げているが、何故か意思の疎通ができている。生まれてこの方、このような存在に出会ったことなどない。しかし狐は当然のことのように胸を張って私の足元に飛び乗り、くるりとその場で一回転してもう一度私の顔を見上げた。

「ぬぬ、……私めは妖狐の狐仙こせんでございまする。旦那様……紫苑しおん様の特別の命により、千代様の世話役を賜っております。以後よしなに」

 わけの分からぬことが起きているというのに、どうしてか私はこの狐に恐怖心を抱くこともなく、ただ茫然と見下ろしている。

 狐仙と名乗る子狐はひょいと右手を差し出してきている。握手を求める人間のような仕草に呆気にとられ、おずおずとその手先を握ると、やはり狐仙は嬉しそうに糸のような目を更に細めた。

「ふぬ、千代様がお目覚めになって、私めは本当にうれしゅうございます! 旦那様もさぞお喜びになられるかと! 今すぐご報告に……」
「旦那様……?」

 飛び回る勢いではしゃぐ子狐を見下ろしつつ、深まる疑問に耐えかねて声を上げた。

「その、旦那様というのは、何? というか、ここはどこなの?」

 これがもしあの世だというのなら、私は今すぐにでもおじさまに会いに行きたい。障子から漏れ出す柔らかな陽気を見るに、ここがあの村でないことは明らかだ。このような温かな日差しに照らさる昼間など、経験したこともない。

「やや、これは失敬! お目覚めに浮かれてすっかり説明を忘れておりました。うぬぬ、……ここは我らの主、紫苑様のお屋敷でございまする。紫苑様とは、鬼族王家の血を継ぐ正当なご当主であらせられます! つまり、この幽玄の世でもっとも尊きお方こそが、我らの旦那様なのです」
「……ゆう、げん?」
「はて、人間の世では、あの世という世界でしょうか? 私めは人間にはあまり詳しくないゆえ、どのようにご説明すればよいやら。うぬぬ……」
「……つまり私は、死んでしまったということ?」

 静かに問うと、狐は憎らしいほどに可愛く小首をかしげて言った。

「まさか! 旦那様が千代様を殺めることなど、ありえましょうか。旦那様は千代様を守っておられるのです!」

 ――貴女様は旦那様の安寧のために旦那様の血肉となり、旦那様の魂と共に生きられるお方なのですから。
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