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 彼が持っている膳は私のためのものだったらしい。思わず呆気に取られてしまった。

 なぜ、喰らおうとしている相手の食事を気にするのか。全く理解できない。考えを掴み切れずに顔を見上げていると、男は私が怯えているものだと解釈したのか、またしても口元に手をやり、言った。

「毒なんざ入っちゃいない」

 言い切った男は器に盛られた雑炊を掬って、あっさりと口に含んで見せる。ゆっくりと喉仏を上下に動かして咀嚼した男は、もう一度雑炊を掬って私の口元に差し出した。

「ほら、君も食ってみろ。悪くはない味だ」


 三日間、水の一滴すら口にしなかったのだ。雑炊から香ってくる匂いを嗅いだ途端、いまさらながら腹の虫が鳴りそうなほどの飢餓状態になっていることに気が付いた。ここまで気付かなかったのは、限界まで神経をすり減らしていたせいだろう。

 差し出された蓮華をじっと見下ろし、ようやく食事を取ろうと決心する。しかし私が蓮華に手を伸ばしかけたところで、男が先に口を開いた。

「仕方のないお雛さんだなあ」

 男は麗しく微笑みつつ、私の口元に向けていた蓮華をぱくりと口に含んだ。そうして私が唖然としているうちに開いていた距離を容易く詰め、抵抗する間もなく私の頭を引き寄せる。

 些細な疑問さえも抱かせぬような鮮やかな手管に一瞬惑わされ、しかし、うなじを撫でる指先の熱でこの先に起こることを瞬時に理解してしまう。――これは、少し前まで夢の中で、何度も繰り広げられていた行為だ。

「、や……っ!」

 わけもわからず拒絶の声を上げようと開きかけた唇に、彼の唇が押し付けられる。それはやはり、夢に出る男と同じ行動だった。

「っ、んん、っ……!」

 夢とは違い必死に突き飛ばそうとするが、腰に手を回され、さらに頭をがっちりと掴まれると碌な抵抗をすることもできない。

 熱を持った舌に米を押し込まれ、しばらく抵抗するも、結局息が続かずになすすべもなく飲み下した。

「っ、は、はあっ……、」
「――おめでとう。これで君も幽玄の世の住人だ」

 その言葉は、呼吸を乱す私の耳元にそっと囁き入れられた。

 わけのわからぬ言葉に、心音がやけにうるさくなる。少し前まで身勝手な口吸いに怯えていた気持ちが一瞬で消え去った。

 私は人間だ。決してこの国の住人ではない。そのはずが、どうしてこのようなことを言われているのか。

 何か、もっと恐ろしいことが起こっている気がしてならない。

 信じられない思いで恐る恐る顔を上げた。男は濡れた唇をぺろりと舐めて微笑み、硬直する私の乱れ髪を優しく梳いている。

 その指先を拒絶する余裕さえない。

「な、にを……」
黄泉よもつ竈食へぐひという言葉があるだろう。君は今、この国の竈で炊かれた飯を喰らって、ようやくこの国の人間になったということさ。……ようこそ我が屋敷へ」

 ――そのあまりにも屈託のない笑みに、私はしばらく言葉を失っていた。

 どうにかして、おじさまと同じところ黄泉の国へ行ける現世に帰りたいと願っていた。私の願いは、おじさまの側で生き、おじさまの側で死に、おじさまと同じ世界でまた暮らすことだ。

 この体の震えが、どのような感情ゆえのものなのか、少しもわからない。怯えなのか、恐れなのか。それとも――。

「……この世の住人は……、死んでも、黄泉の国へはいけない、と、聞きました」

 震えながら問うた私を、男はただまっすぐに見下ろしていた。

「うん? そうだな。あのような魑魅魍魎が跋扈する世には行く必要もないだろう」

 あまりにも当たり前のことを聞いてくる私を不可思議に思っているかのような、そんな顔をしている。

「……です、が、人間の魂は、そこへ行くのですよね?」

 どのような答えを期待しているのか、自分でも正しく掴み取ることができない。ただ、猛烈な息苦しさに襲われ、震えながら男へ問いかけている。

 しかし男は、私の震えの理由など少しも理解ができていないような顔で、ごく当たり前にうなずいた。

「あれは幽玄の世の者ではないから、そうなるだろうな」

 それであれば、おじさまと私は、いったいどうなると言うのだ。

 親切そうな顔をして、おじさまの形見を修繕すると言ってくれた。優しい笑みで、まるで何も口にしない私を心配するような顔をして、わざわざ膳を運んでくれた。

 そのすべての行動が、善意の物だと信じ込んでしまった。

 いつもそうだ。愚鈍で、失敗してから気が付く。

 猛烈な息苦しさが腹に溜まる。この気色の悪い感触が何なのか、言葉にすることができない。ただ猛烈に虚しく、何かが爆ぜてしまいそうなのだ。

「どうして、……こんなところに、勝手に連れてきたんですか」

 相手の差し出す物が善意なのだと疑わず、いつも間違える。

「どうして、こんな……、酷いことを」

 おじさま以外、私に優しくしてくれる人などいないと知っていたはずなのに、どうして一瞬でも、信じてしまったのだろう。

 自分が嫌いで、心底失望して、やり場のない気持ちの悪さが、どうしようもなく身体中に溢れかえっている。

 その全てを堪えきれず、まるで川の水が氾濫するかのように、とうとう唇から溢れ出した。

「帰してください……、もう、はやく帰してくださいっ!! わた、わたし、こ、こんなところに来たいなんて、一言も言わなかった! 守ってほしいだなんて、言ってませんっ!! ひ、人違いです! どうしてこんなにひどいことをするんですか!? た、ただ、おじさまと暮らしていたかっただけなのに……!」
「お、おい、きみ」
「私を食べるって何ですか!? そんなことし、知らないっ! 鬼に食べられたら、もうどうせおじさんと一緒の世界に行けなくなっちゃうんでしょ!? これを食べたら現世には帰れないなん、てっ……! 知っていたならどうして、どうして教えてくれなかったのっ! 帰して! 帰してっ! 帰してよっ!! こんなところには、もういたくない!」

 ただ、自分の愚かさがみじめだ。

 やり場のない何かが燃え上がって、ただひたすら男の胸を叩く。精いっぱい叩いてもびくともしないそれに、今度は無性に泣きたくなって、堪えきれずに俯いた。

 私が初めて涙を流したとき、おじさまは笑ってしまうくらい動揺して、おろおろしながら私の背中を撫でてくれた。その優しさが好きで、もう二度と困らせたくなくて、何があっても泣くのは我慢すると決めた。

 村長もヤエも私を叱って叩くばかりだったが、涙など一度も出なかった。だから、すっかり忘れたものだと思っていたのだ。

「うっ……うぅ……、っ、なん、で……っ」

 どうして、もう会えないのだろう。

 震えが止まらない。少し前まで穏やかに流れていた外の景色も、いつの間に雪が降り始めていた。

 この屋敷は、住まう者の念が移りやすいと狐仙が言っていた。そうだとすれば、私の深い悲しみに触れて、屋敷も雪の涙を降らせているのだろうか。

 ぼたぼたと音を立てて涙が零れ落ちる。みじめさで、もう消えてしまい。

 それなのに、誰かの手が蹲る私の背中に触れる熱に気付いて、ぴたりと嗚咽が止まってしまった。

 違う存在だと知っているのに、どうしてかその手の不器用さが、おじさまによく似ている。

「すまん。……それほど現世が恋しいとは知らなかった。俺は人間じゃないからなあ。その辺の考えはよくわからん」

 その声が、努めて人に優しくしようとして発せられている声色なのだということに、どうして私は気付いてしまうのだろう。

 なぜこれほどまでにも、この指先の熱がおじさまのものと同じように感じてしまうのだろう。
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