薄明の契り ―私を喰らう麗しき鬼―

藤川巴/智江千佳子

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 部屋を抜け出したのは今日の昼が初めてのことだった。ここから逃げ出そうと飛び出したが、内縁の回り廊下をぐるぐると走り回ることしかできず、どのように歩いても、庭を突き抜けて歩こうとも屋敷を出ることは叶わなかった。

 苦い記憶を思い返しつつ胸元に忍ばせていた櫛を取り出し、しばらく躊躇ってから障子を開いた。

 月の光に照らされた廊下へひっそりと足を踏み出し、夜空を眺める。

 丸い月は現世で見ていたものよりも大きく、手を伸ばせば触れられてしまいそうだ。幽玄の世は、宵の刻にも遠く離れた場の様子が微かに目視できるほど明るいらしい。

 間違いなく今日が新月の夜ではないということを確認し、櫛を月に透かすようにして翳した。

 柄の部分に椿の花が描かれた飾り櫛は長年大切に扱っていたのだが、ヤエの鼻にぶつけたそのとき、いくつか歯が折れてしまった。

 穴のようにぽっかりと空いてしまった箇所に顔を寄せて、意味もなくその穴から周囲を覗き込む。見事な庭園の奥には本殿とこの離を繋いでいるらしき反り橋の透渡殿すきわたどのがある。

 ふとその場に誰かが立っているような気がして櫛から顔を離そうと視線を背けたその瞬間、涼やかな声が言った。

「こんな夜更けに、何か面白いものでも見えるのかい?」
「きゃあ!?」
「おっと」

 予期せぬ問いかけに素っ頓狂な声が上がった。訳もわからず焦って腰を抜かし、尻もちをつきそうになる。その身体を、逞しい腕に抱き寄せられた。

 ややしばらく、起こっていることがわからず呆然とし、やがて自身の体が通りすがりの男に抱えられている状況に気付き、慌てて声を上げる。

「し、失礼しました。どなたか存じませんが、ありがとうございま……」

 しかしその声は、男の顔を見上げたところでぴたりと止まってしまった。

 白檀の香りがする。この匂いが香るだけで、無条件に胸が騒いで落ち着かなくなる。

 ――それが紫苑と呼ばれる鬼であることに、私はどうしてすぐに気づかなかったのか。

「待て待て、そう怯えてくれるなよ」

 ぴしりと岩のように固まる私を見下ろす男は、わかりやすく焦ったような声を上げて私から手を離し、丁寧に座らせた。

 男はさらに、私との間に童が三人ほど座れる程度の距離を取って、視線を合わせるようにしゃがみ込む。そうして先刻まで私を抱き寄せていた手のひらをこちらに見せ、害意がないことを示そうとしていた。もう一方の手は漆塗りの膳を持っているようだ。

「な、なん、でここに」
「そりゃあここは俺の屋敷だからなあ」

 これまで一度も訪れなかった人が、突然夜に現れれば誰でも腰を抜かすだろう。それも、己を喰らうと言っている相手だ。

 沈黙して極力距離を取ろうとしていると、しばらく私の言葉を待っていたらしい男がもう一度口を開いた。

「俺が近づくと君は鼠のように怯えるようだから、少し遠くから見ていたのさ」

 月の光に照らされる男は、丸い笑みを浮かべていた。まるで警戒心の強い猫に餌をやろうとしている心優しい人間のように微笑んで、ちらりと私の手元を見た。

「歯が折れてしまったのか」

 私を喰らうと宣言している鬼にしては、あまりにも不似合いの言葉だ。人間のように、もしくは人間以上に私の心に寄り添おうとしている言葉に、心の臓がざわめく。

「君さえよければ……、そうだな、少し見せてくれないか」

 丁寧に言葉を選ぼうとしていることが伝わってくる。しかし何を言わんとしているのかわからず、思わず身体に力が入った。

「いや、違う。……違いもしないが、それを壊したり、君から取り上げようとしているわけじゃない。それを君が大事にしているように見えるから、どうにか直せないかと考えていたんだ」
「な、直せるのですか」

 しどろもどろ語る男が、視線をうろうろと彷徨わせながらつぶやいた言葉に、思わず食いついてしまった。慌てて口を噤もうとするも、男は私の反応にわかりやすく目を輝かせて頷いた。

「知り合いに腕のいい修理師がいる。物の魂に詳しいやつだから、それほど君が大切にしている物なら、必ず元の形に戻せるはずだ。……時間はかかってしまうかもしれんが」

 少し困ったような顔をしながら私を見つめている。瞳は夢に出るような黄金色ではなく、神主のころと同じ、黒曜石のような色合いだった。

 鬼と呼ばれているわりに、頭におどろおどろしい角があるわけでもなく、犬歯が見えているわけでもない。至って普通の人間のような見た目だ。屋敷の主らしく、さすがに神主の装いはしていないようだが――。

「どうだ。乗ってみるか?」

 紫苑という名前の通り、紫苑色の小直衣に身を包んだ美しい男に手を差し伸べられる。

 相手は鬼だ。それもこの場所に勝手に連れてくるような、身勝手な鬼。だが、どうしてか今は私を喰らおうとはしていない。それにもし、もしもおじさまの櫛が直せるのなら、どのような者の手でも借りたい。

 あれやこれやと思考を巡らせつつたっぷりと黙り込み、しかし、こちらの様子を根気強く窺って手を差し伸べ続けている男の顔を見上げ、とうとう櫛を差し出してしまった。

 何も言葉が浮かばず深く頭を下げる。

「そうかしこまらないでくれ。必ず最善を尽くす」
「……よろしく、お願いします」

 この男は、夢の中で私を犯す男と同じ顔をしている。匂いも声も、すべてが同じだ。しかし、ちらりと視線を上げた先にしゃがみ込む男は、私から受け取った櫛を大層丁寧に懐紙に包み、胸元に忍ばせていた。


 なぜ信頼しようとしてしまったのか、うまく言葉にすることができない。

 ただ、その瞳に見つめられると、どうしてかおじさまを思い出してしまうのだ。夢の中に現れる男鬼とは違う気遣わし気な瞳と、そして何よりも、おじさまの形見をどうしても元の通りに戻したいという欲望に勝てず、手を伸ばしてしまった。

 夢に出現する男と、この鬼は違う存在なのだろうか。

 私が夢を見るのは、私の頭がおかしくなっているからなのか。どうしてこのような場所に私を連れてきたのか。現世に帰ることはできないのか。いくつもの疑問に頭を悩ませている。

「これで君の心が少しでも晴れてくれればいいが……」

 独り言のように呟く男が優雅に口元に手を触れさせた。この世には、思い悩む様子さえも麗しい生き物が存在するらしい。

 私が同じように思い悩んでいても、このようには映らない。しかも今の私は、三日同じ小袖を着続けているのだ。嫌な事実を思い出してしまった。若干の居心地の悪さを感じているうちに、男が静かに音を立ててこちらに膳を差し出してくる。

「ところで君、少しは口に入れたらどうだ」
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