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「機嫌はどうだ、君」

 軽やかな声色に問いかけられ、仕方なく顔を上げる。

 薄紫の狩衣に身を包んだ男は、その優雅な姿と顔立ちに反して幼子のように明るい笑みを浮かべていた。手には色とりどりの花が抱えられている。

 高貴な鬼ともなると、喰らうために生かしている生き物に花を与えようなどというおかしな考えが浮かぶのだろうか。

 ひと月ほどで、すっかりこの光景にも見慣れてしまった。三日間飲まず食わずで部屋の閉じこもり、誰とも接触しないことに執着していたころが懐かしい。

「あまり気に入らないか」
「これ以上あっても、どうしようもないです」
「ははあ、なるほどな。人間の考えはまこと難しい」

 難しいと言いながら顔は満面の笑みを浮かべている。

 紫苑と呼ばれる鬼はひと月前、何一つ食べようとしない私の前に姿を現したその日から、毎日私の前に現れるようになった。

 初めのころは私も警戒を解くことなく紫苑の言葉を聞き流し、この部屋の障子を開くこともなかった。だが紫苑は私の反抗など些末な児戯のように軽くいなして、何度も障子の前から私に声をかけ続けた。

 やれ新しい着物を見繕えだの、もっと飯を食えだの、庭の花が綺麗だから花見をしようだの、あれこれと注文を付けて、私がそれをするまで岩のようにその場を動こうとしない。

『君の方針はよくわかった。それならば俺も、君が根負けするまで付き合おう』

 紫苑のこの態度には狐仙もほとほと困り果てたようだ。

 私が意地を張って紫苑が望むように行動しないでいると、狐仙が勝手に部屋に入り、よよよと泣きながら、これまた勝手に私の袖を濡らして恨み言を吐くようになってしまった。しかもこれを、紫苑には見えないところでやってのけるのだから、狐仙も只者ではない。

 今日も両手いっぱいに花を抱えている紫苑に呆れつつ、ちらりと部屋の隅を見て、紫苑には見えないように私に目配せをしている狐仙の姿を確認する。狐仙のあからさまな困り顔を見るに、今日もこの鬼は己に与えられた仕事を放り出して離に来ているようだ。

「わかりました。いただきます。その代わり、はやく戻ってください」
「はは、つれないことを言うなあ」

 彼が安寧を守ると言った通り、私の生活は何にも脅かされることなく、まさしく平穏そのものであった。労働の苦しみもなく、そして孤独でもない。十分すぎるほどに豪華な食事を振る舞われ、手触りだけで質のよさがわかる上等な着物を与えられて、ただ外の庭を眺めるだけの日々だ。

 紫苑はあの村を、私にはふさわしくない場だと断じた。そうだというのならば、この華やかな庭に囲まれた一室こそが私が生きるにふさわしい場であるとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、鬼と人間との価値観というものは、決して相容れない。


 紫苑の腕に軽く収まっていた花束も、私の腕に抱えると目の前が見えなくなるほど大きい。

 昨日も、離の花瓶のすべてが埋め尽くされるほどの花を捧げられた。あれは夏の花を集めたものらしい。紫苑はその花を私に手渡して、満足そうに笑ってから「明日は秋の花にしよう」と宣言していた。

「花瓶に収まらないと言ったじゃないですか」
「君が望むなら、いくらでも増やせばいい」
「そういう問題ではないのです」

 大量の花のせいで、視界が隠れる。息を吸い込むと濃密に花の香りが襲い掛かった。おそらく、摘んで間もない花だろう。どうにか顔を出そうと悪戦苦闘しているうちに、手に持っていたはずの花が勝手に浮き上がった。

「君には少し重そうだな。一輪、俺が選んでいいか?」

 受け取ったはずの花は、結局紫苑の腕の中に戻されたらしい。彼は問いかけておきながら腕に抱いた花々を見下ろして、すでに一輪の花を取り出していた。その他の花束は、いつもの通り狐仙の座る方向へ投げ飛ばしている。

「これにしよう。君の瞳と同じ色だ。どうだ」

 桔梗と言うらしいと囁いた紫苑は、その花を丁寧に私の髪に挿して、昨日と同じように満足そうに笑っていた。

 花をくれるような相手ができる場面を想像したことがなかった。ヤエが目をうっとりと蕩けさせながらつぶやくような恋のお伽噺も、どこか遠く、私からは離れたところにあるものだと思い込んでいた。

「君はこれも気に入らなかったか?」

 世にも美しい男が顎に手を添えて首をかしげている。思えば、今までに私と会話をしてくれるような人は、いつも私のことを蔑んでいた。その時は気付けなかったのに、いまさらよくわかる。

「なあ君、どうなんだ?」

 それを気付かせたのが他の何者でもない、私を喰らう者なのだと思うと、うまく言葉が続かなくなる。

 まっすぐに私を見下ろす紫苑の瞳は今日も黒曜石のように美しく輝いていた。私と会話をするときは必ずその場にしゃがみ込んで、視線を合わせようとする。どれほど返事が遅くとも、決して私を打ったりしない。

「花を、狐仙に投げ飛ばすのはやめてください」
「……驚いたな。それも悪いことなのか」

 素直に礼など口にしたら、何かが壊れてしまう気がして恐ろしい。

 紫苑は非常に高貴な鬼で、日々政務というものに追われているらしい。離に来ているときも、たびたび障子の外に控えた何者かから声をかけられているのだ。

 紫苑自身はここに息抜きに来ていると話していたが、その話を横で聞いている狐仙の表情はまさに、鬼を見る者の形相だった。

「君を喜ばせるのはなかなかに難しい」
「そのようなことは考えなくてよいです」
「ははあ、忘れたのか? 俺は約束を守る男だ」

 安寧を守ってほしいと言ったのが、いつの間に彼の中で、私を喜ばせるという契りに変わっているらしい。内心げんなりしつつ、確かにあの妙な夢を見ていないことを思い出して口を噤んだ。

「そうだ。一つ朗報がある。君の――」
「旦那様」

 口を噤む私とは正反対に、嬉々として口を開き直した紫苑は、その声を遮るように呼びかける男声にわかりやすく顔を顰めた。やはり今日も仕事を放り出して逃げてきたようだ。

「ここを逃げ場にするのはやめてください」
「手厳しいな」

 普段、これほどまでに人に冷たい態度を取ったことはない。誰であろうと、話しかけてくれる人は貴重で、目を見て微笑みかけてくれる相手であれば、誰でも簡単に信用していた。

 だが、それではいけないのだということをよくよく学んだ。

 私は人に好かれない。善意を望めば、痛い目に合う。ゆえに、極力誰のことも信じることなく息を殺しているしかない。

 今もそうだ。おじさまと出逢うことは二度とないと言われている。しかしそれが嘘だったならどうだろうか。鬼が私を喰らうために嘘を吐いている可能性もある。

 だから決して、心を許してはならないのだ。

「旦那様、申し訳ありません。しかし火急の事案でございます」
「……今日はここまでのようだな」

 ため息を吐いた鬼が音もなく立ち上がり、ただ呆然と見つめる私の髪に触れた。この鬼の手は、拒絶するよりも早く私に触れようとするから、どうしても反応が遅れてしまう。

「君に似合いの花だな。明日はその花を模した菓子を持ってくることにしよう」
「そのようなもの、」
「それから、あれに話を遮られてしまったが、君の櫛のことだ。修理師がだいたいの修復を終えたようだ。君さえよければ、明日にでも取ってこよう」

 本当に、ただ拒絶する隙を与えてくれないだけだ。

 決して心を許したりしていない。悪戯を成功させた幼子のように屈託のない笑みを浮かべる男に、返す言葉が思い浮かばず、静かにうなずいた。

「よし。それなら明日、持ってくる。万が一君の記憶にあるものとは違う仕上がりになっていたら、そのときは遠慮せず言ってくれ」

 善意を信じるのはもうやめるのだと決めている。そのくせに、こうして柔らかな眼差しを向けられると、どうしようもなく心の臓が痛んで仕方がない。

「それが私の手元にあれば、逃げ出そうとするとは思わないのですか」

 聞く必要のない問いを立てて、己の言葉に吃驚している。なぜ、このようなことを口にしてしまったのか。仮にそうしようとしていたとしても、わざわざこちらから口に出すべきではない。

 そのように何度も考えていたはずが、胸の内に溜まった薄汚れた澱みを吐き出すように、ぽろりと口からこぼれ出てきた。慌てて口を噤んでも、発した言葉は戻らない。

 どうしようもなく、調子が狂っているのだ。この人が――いや、この鬼が、誰よりも、私に、優しくしてくれるから。

 自分自身に呆れる私を見下ろしながら、紫苑はさもおかしそうに笑った。

「なんだ? 君はそんなことを気にしているのか」
「そんなこと、とは」
「そのようなことは、逃げ出そうなどと思えんほど、ここを君の似合いの場にすればいいだけの話だろう」
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