薄明の契り ―私を喰らう麗しき鬼―

藤川巴/智江千佳子

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 翌日、紫苑に連れられて本殿の大広間へと足を踏み入れると、奇妙な模様を描いた和紙のようなもので顔を覆う男が恭しく頭を下げていた。見知らぬ者との邂逅に一瞬歩みを止めるが、紫苑は私が狼狽えていることなど気にもせず上段に座り、私を横に置く。

 本殿に来るためにこれほど上等な着物を着させられることを知っていれば、ここへ来たいと願い出ることもなかった。そう後悔してしまうほど着物を着させられ、ただ歩くにも紫苑の手が必要だ。うまく歩くことができない私を満足そうに見下ろしつつ大広間までの廊下を歩いた紫苑は淡い藤紫の小直衣に身を包み、肘掛けにもたれかかって下段に座る男を見下ろしている。

 大広間は一面が金箔の壁で覆われ、色とりどりの花が描かれている。花木には今にも囀りだしそうな白い小鳥が描かれており、まさに春の兆しを感じさせるような大広間だ。この壁の描かれるものはすべて主の思いのままらしく、その日の紫苑の気分で本殿の様相は大きく変化すると聞いた。

 つまり紫苑は今、春の訪れのような気分でこの場に座っているということなのだろうか。

「顔を上げろ。堅苦しいのはいい」

 簡潔に言ってのけた紫苑は私と会話をしている時とは違い、とくに笑みを浮かべるわけもなくつまらなさそうに下段の男を見下ろしていた。紫苑の振る舞いから彼の心情を読み解こうとするのは無駄だ。理解しているのに、あまりにも不可解で、その心の内を覗こうとしてしまう。

「は。主君の特別の命により馳せ参じました。私、宗家の雲州でございます。主君におかれましては――」
「御託もいい。そういう長いのはやめてくれ」

 心底飽き飽きしていることを隠しもしない紫苑の一言で、即座に大広間が静まり返った。顔を上げろと言われ、少しずつ頭を上げかけていた雑面の男が、不自然な姿勢で固まっている。緊張感がこちらまで伝わってきそうだ。

「さて、櫛はどうなった」

 重苦しい空気を気にも留めずに改めて言葉を投げかけた紫苑に、雲州と名乗った雑面の男が慌てて居住まいを正す。男はそのまま脇に置いていた風呂敷を開き、恭しくこちらへと差し出した。

「はい。こちらにございます」

 上等な布に包まれたそれは、たしかに私が大切に扱っていたおじさまの形見の櫛だ。無意識に立ち上がりかけ、紫苑に手で制される。

「俺が行く。君はここに座っていてくれ」

 紫苑は一言だけ告げると、私の返事を待つこともなくその場に立ち上がり、音を立てることなく下段に降りた。その刹那に、周囲から息を飲むような音が聞こえた。

「しゅ、主君、なりません! 私が近くへお持ちし……」
「すぐに戻る。問題ない」

 紫苑が臆することなく下段に降りて櫛を取ると雲州は真逆に目を回して、遠目にも察せるほどわかりやすく冷や汗をかいた。普通は紫苑が下段に降りることなどあってはならないのだろうか。そのことに思い至った時にはすでに紫苑は私の横へと戻り、こちらに櫛を差し出していた。

 昨日の紫苑は櫛を取りに行くと言っていたが、今日になって修理師が持参することになったという話を狐仙から聞いた。その時私は「それならば多忙な紫苑の手を煩わせるより、私が受け取りに行きましょうか」と言ったのだが、かえって手間を生んでしまった気がしてならない。

 狐仙はわかりやすく狼狽え、一度紫苑に確認を取ると言って消えてしまった。それから間を置かずに現れた紫苑は「本殿など何も面白いものはないが」と首をかしげていたが、一言お礼を言いたいのだと言えば、特に反対されることもなかった。

 今朝の記憶を振り返りつつそっと櫛を受け取り、まじまじと見つめる。

「どうだ」

 椿の花が描かれた飾り櫛は私の記憶にある通り、綺麗に修復されている。それどころかところどころかけていた部分も丁寧に直され、新品のように艶々と輝いて見えた。しかし、新しいものに替えられたとは思えぬほど指先に馴染む。間違いなくおじさまが私にくれた櫛であることがよくわかった。

「綺麗に直っていると、思います」

 感極まって思わず声が震えてしまった。飾り櫛をそっと抱きしめて、息を吐く。これを直すことができるのならば、物の怪に魂を売ってもいいと思っていた。それほど大切なものなのだ。たとえ相手が私を喰らう鬼であったとしても、この感謝の気持ちを忘れることはできないだろう。無事手元に戻ってきた安堵に口元が緩む。紫苑は大切に櫛を抱きしめる私を見下ろして、柔らかく目を眇めたように見えた。

「……それはいいな。君が思いを込めて大切に使っていたからだろう」

 紫苑は修理師の前で堂々と言い切って、満足そうにうなずいている。どう考えても、これを直したのは下段に座る男で、私の力ではない。狼狽えてちらりと下段の男を見ると、不自然な姿勢を改められないままこちらを見つめている面と視線がぶつかったように思えた。しかし一言礼をと思い口を開く前に男の視線はふいとそらされてしまう。

「お前はもう下がっていい」

 紫苑が特に感情を感じさせない声で言い放つ。その言葉に雑面の男はまたしても恭しく頭を下げた。紫苑から見える世とは、このようなものなのだろうか。目を合わせればすぐにそらされ、感謝の言葉を告げることもない。当たり前のように再び立ち上がった紫苑は、こちらへと手を差し伸べて首をかしげていた。

「行かないか?」

 紫苑は私には想像できないほど高い身分にいる男なのだ。本殿に来るまでの間、この男のように雑面で顔を隠す者を何人も見た。すべて紫苑が道を通ろうとするたびに廊下のわきに並び、頭を下げていた。

「まだ、お礼を言ってません」

 紫苑にだけ聞こえるように囁くと、彼は一瞬瞠目して、小さく笑った。

「そうか。では、君の思う通りにすればいい」

 今日この場に来てから一番の笑みに、無意識にこわばっていた身体から力が抜けた。本殿は離のように花に囲まれているわけでもなく、人影も多い。とくに面白味のある場所ではないという紫苑の言葉は、正しいように感じた。普段、この場所で政に追われる紫苑が離に息抜きに来る理由が、少し理解できてしまう。
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