先視姫は密かに憂う

薊野ざわり

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その3

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 昂典こうてんは、一人、城の後園へ向かっていた。

 藍の地に銀の縫い取りをした着物は上等だが、上役と会っても礼を失しない程度に質素だ。

 庭には大きな池に雅な朱塗りの橋がかかっている。湾曲して波を描く橋の先には、水上に張り出して東屋が建てられている。そこに人影を見付け、知らず頬が緩む。

 ここにいるのは、必ず彼女一人だ。
 彼女は昂典が訪れるとき、月が顔を出す前に人払いをしてしまう。
 昂典がその来訪を前もって知らせることはない。だが、彼女はそれがわかるという。
 今日もまた、彼女はひとり、退屈そうに欄干に肘をついて、欠けた月を見ている。

「姫、今晩もお一人ですか」
「そういうお前も一人だ」

 振り返りもせずにそう言って、楊喜ようきは手で隣を示した。
 並ぶことを許されて、昂典はおずおずと足を踏み出す。
 楊喜が振り返る。墨を刷いたような黒髪を一つに結わえ、黒曜石のように濡れて輝く黒の双眸が、月光を掬い取る。
 はじける美しさはないが、静かな湖面のように凪いだ美しさがある。美形というよりも、その湖の上澄みの下に沈殿した澱が、豊かな色味を添えている美しさである。

 昂典は水面に映った己の顔を見た。涼しげな眉目だが、武人としては迫力に欠ける。密かに周りに『武官の癖に優男だ』と馬鹿にされている事実を思いだすと、さらに気分が落ち込むし、楊喜より二つも年下ということも更に自信を奪っていく。

「二月ぶりか。それで?」
「多忙にかまけて御報告が遅れてしまいましたが、無事に外征より戻ることができました」
「それは何より。若く才あるお前が戦で散るのは、我が国の最も深い痛手となる。この国のためにも身を愛おしんでくれ」

 そのうち報奨がくだるだろう、といった楊喜の声音が下がって、昂典は、おやと思った。
 楊喜はいつも凪いだ湖面のように感情の起伏を面に出さない。
 といっても、それは負の面に限る。喜びや楽しみなどは見せても、悲しんだり不安がったりしているところを人に見せない。
 それが声音を下げるなど、よほどなにか気がかりがあるのだろう。

(お力になりたい)

 即座にそう思った己を、昂典は心中で叱咤した。
 出すぎた真似をして不興を買ってしまったら、この場に来られなくなる。それは嫌だった。
 しかし、できるならその不安を散らしてやりたいと思う気持ちも強い。
 少し考えて、楊喜が自分から話すまでは黙っていよう、話しやすいように心をほぐそうと決めた。

「この度の外征、姫の御助言のおかげで命を救われました。伏兵がたしかにありました。危ないところでした。ありがとうございます」
「役に立ってよかった。次も役に立てるかもわからないが、気が向いたらここへ」

 それだけ言うと、楊喜は池のほうに向き直り、昂典に背をむけてしまった。
 いつもなら他愛ない話ができるはずなのに、気が向かぬといわんばかりの態度である。
 それに幾分傷つきながらも、いよいよ何かあったなと、昂典は勘繰った。

「……そういえば、もうすぐ桃の季節ですね。姫は桃がお好きですか?」
「好き。果実は特に好き。甘いものはなんでも好きだ。最近肥えてしまった」

 あからさまに強引な話題転換だったが、今度は穏やかに話しに乗ってきた。
 おそらく、政に関する話題が嫌なのだろうと昂典は読んだ。

 この先視の姫が、楊家の秘宝であることは知っている。
 彼女の進言で、先代の楊楽が昂家を攻め立てたことも。
 そのことに負い目を感じて、本来なら話しかけるどころかこうして横に並ぶことすら許されない身分の昂典を、気安く傍に立たせることも。

 他愛ない話を続けながら、昂典は数年前、初めてこの不思議な姫と会ったときのことを思い出していた。
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