6 / 9
その6
しおりを挟む
足を止めると、魂さえ吐き出せそうな深い深いため息が漏れた。
歩哨が訝しげにこちらを見ている。その視線を遮るために、ゆっくり歩き始めた。
邸宅に戻る気にならなかった。戻れば、使用人たちが世話を焼いてくれるだろうが、今は野辺でごろりと横たわってしまいたい。
(まさか、今晩、こんな決着がつくとは)
自嘲気味に笑う。ずっと温めてきた想いを、こうも容易く打ち破られるとは。
戦場では『若獅子』などと渾名される昂典だが、今はただの十七の青年だった。
肩を落として、楊喜に会うために整えた髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
酒は苦手だが、今夜はそれに頼らざるを得ないだろう。そうでもしないと、心の均衡を保てない気がした。
髪をかき回した手を見る。剣を使うときにできた硬いたこがある。
初陣は十四のときだった。その時はただ討ち死にに怯えて出陣した。
だが、今は違う。一つでも多くの首級をあげて、あの人に褒めて欲しかった。
怪我をすれば、あの人は怒ったような困ったような顔をして、いたわりに満ちた手で優しく傷に触れてくれた。それが何よりの報奨だった。
それも今日で終わり。
彼女が自分のものになることはないとわかっていた。
これからは昂家の長として、ただただ昂家復興のために力を尽くせばいい。
そして、それが成ったら――。
成ったら、なんだというのだろう。
そこにあるのは、ただの干からびた、夢の残骸だった。
(父上、こういうとき、私はどうしたらよいのですか)
仰向けば、憎らしいほどにきらめく星と月。
「昂典ではないか」
耳に覚えのある声がして、昂典は振り返った。歩哨がしゃっちょこばって拱手する。
楊崔が、尹延と数人の供回りを連れて歩いてきた。
こんな時間にこんな場所を歩いているような人物ではない。
ぎょっとし、拱手した昂典の頭の上から、声が降ってくる。
「父上の墓前に参ったのだ。お前はこれから帰るのか」
「はっ」
「少し付き合え。尹延、お前だけ着いて来い」
緊張したまま、昂典は偉丈夫の後を追った。城の方へと逆戻りである。
通されたのは、楊崔がよく尹延ら腹心と会食を行う部屋だった。
すぐに酒が運ばれてくる。杯を手に、楊崔が口を開いた。
「お前、室はいたか。何人いる?」
「は……? あの?」
唐突な問いに、昂典は困惑しながらも首を横に振った。
十七にも成れば妻や側室は当然、子も一人、二人はいるものだが、昂家の逼迫した状況から昂典はまだ独り身であった。
楊崔が杯を一気に煽った。
「お前に嫁がせたいものがいる」
今一番、避けたい話題だった。露骨に顔に出てしまったのだろう。楊崔が鼻息を荒くした。
「貴様、我が妹では気に入らんとでもいうか」
「殿、殿。まだ昂典は何も言っておりません」
楊崔は酒が好きだが極端に弱い。たった一杯で顔がゆでたような赤になっている。
尹延が宥めると、楊崔はさらに杯を仰ぐ。
「お前は先の外征で、目覚しい成果を上げたからな。褒美だ。何、美女とはいかぬが、声などはなかなかよいぞ。歌も上手い」
「昂典、殿は先ほどまで大殿の墓前で激しく懊悩なさっていたのだ。神聖なる楊喜姫を嫁がせるとは、これ大事。その相手が貴殿である事は、光栄であろう」
「少し嫁ぐのが遅くて、何が悪い!」
「殿、殿。もう、そのくらいになさってください」
「おい、昂典、何か言え!」
胸倉を掴まれて、ようやく昂典は瞬きをした。
だが、頭の中は混乱の極みにあった。
楊崔の妹を娶る。それは、つまり――。
「殿、……よろしいのですか。その、楊喜様を、私のような若輩に」
「なんだ、なにか文句があるのか!」
昂典の心臓が、強く脈打った。そこから、溢れんばかりの喜びが、全身に広がるような錯覚を覚え、彼は膝の上の拳を強く握った。
ぐでんぐでんになっている楊崔の前で、叩頭する。
「ありがたく、……ありがたくお受けいたします!」
「昂典、安心しなさい。今、殿は酔うていらっしゃるが、酔いがさめてもこのことは覆らぬ」
「はいっ」
心臓がはちきれそうに高鳴っている。地の底から、天のきわみまで放り投げられた心地だ。
「誰か! 殿はお休みになる!」
尹延が叫ぶと、さっと数人の召使達がやってきて、尹延と供に正体をなくした楊崔を連れて行った。
残された昂典は、頬が緩むのを禁じえず、じっと空の杯を見つめていた。
(姫が、私の元に)
これ以上の僥倖があるだろうか。
踊りだそうかというところで、ふとひっかかるものがあった。
(姫は暗い顔をなさっていた。……まさか、私のことが、お嫌いなのか)
ありえる。そこで気持ちが一気に萎んだ。
更に気になることが一つ。
(力が、弱まったというのは……?)
楊喜は外征の前など必ず昂典に助言をくれた。それのどこが衰えたというのだろう。
喜ばしい事なのに、ちくちくとひっかかりを覚えて、昂典はまた下を向いてしまった。
歩哨が訝しげにこちらを見ている。その視線を遮るために、ゆっくり歩き始めた。
邸宅に戻る気にならなかった。戻れば、使用人たちが世話を焼いてくれるだろうが、今は野辺でごろりと横たわってしまいたい。
(まさか、今晩、こんな決着がつくとは)
自嘲気味に笑う。ずっと温めてきた想いを、こうも容易く打ち破られるとは。
戦場では『若獅子』などと渾名される昂典だが、今はただの十七の青年だった。
肩を落として、楊喜に会うために整えた髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
酒は苦手だが、今夜はそれに頼らざるを得ないだろう。そうでもしないと、心の均衡を保てない気がした。
髪をかき回した手を見る。剣を使うときにできた硬いたこがある。
初陣は十四のときだった。その時はただ討ち死にに怯えて出陣した。
だが、今は違う。一つでも多くの首級をあげて、あの人に褒めて欲しかった。
怪我をすれば、あの人は怒ったような困ったような顔をして、いたわりに満ちた手で優しく傷に触れてくれた。それが何よりの報奨だった。
それも今日で終わり。
彼女が自分のものになることはないとわかっていた。
これからは昂家の長として、ただただ昂家復興のために力を尽くせばいい。
そして、それが成ったら――。
成ったら、なんだというのだろう。
そこにあるのは、ただの干からびた、夢の残骸だった。
(父上、こういうとき、私はどうしたらよいのですか)
仰向けば、憎らしいほどにきらめく星と月。
「昂典ではないか」
耳に覚えのある声がして、昂典は振り返った。歩哨がしゃっちょこばって拱手する。
楊崔が、尹延と数人の供回りを連れて歩いてきた。
こんな時間にこんな場所を歩いているような人物ではない。
ぎょっとし、拱手した昂典の頭の上から、声が降ってくる。
「父上の墓前に参ったのだ。お前はこれから帰るのか」
「はっ」
「少し付き合え。尹延、お前だけ着いて来い」
緊張したまま、昂典は偉丈夫の後を追った。城の方へと逆戻りである。
通されたのは、楊崔がよく尹延ら腹心と会食を行う部屋だった。
すぐに酒が運ばれてくる。杯を手に、楊崔が口を開いた。
「お前、室はいたか。何人いる?」
「は……? あの?」
唐突な問いに、昂典は困惑しながらも首を横に振った。
十七にも成れば妻や側室は当然、子も一人、二人はいるものだが、昂家の逼迫した状況から昂典はまだ独り身であった。
楊崔が杯を一気に煽った。
「お前に嫁がせたいものがいる」
今一番、避けたい話題だった。露骨に顔に出てしまったのだろう。楊崔が鼻息を荒くした。
「貴様、我が妹では気に入らんとでもいうか」
「殿、殿。まだ昂典は何も言っておりません」
楊崔は酒が好きだが極端に弱い。たった一杯で顔がゆでたような赤になっている。
尹延が宥めると、楊崔はさらに杯を仰ぐ。
「お前は先の外征で、目覚しい成果を上げたからな。褒美だ。何、美女とはいかぬが、声などはなかなかよいぞ。歌も上手い」
「昂典、殿は先ほどまで大殿の墓前で激しく懊悩なさっていたのだ。神聖なる楊喜姫を嫁がせるとは、これ大事。その相手が貴殿である事は、光栄であろう」
「少し嫁ぐのが遅くて、何が悪い!」
「殿、殿。もう、そのくらいになさってください」
「おい、昂典、何か言え!」
胸倉を掴まれて、ようやく昂典は瞬きをした。
だが、頭の中は混乱の極みにあった。
楊崔の妹を娶る。それは、つまり――。
「殿、……よろしいのですか。その、楊喜様を、私のような若輩に」
「なんだ、なにか文句があるのか!」
昂典の心臓が、強く脈打った。そこから、溢れんばかりの喜びが、全身に広がるような錯覚を覚え、彼は膝の上の拳を強く握った。
ぐでんぐでんになっている楊崔の前で、叩頭する。
「ありがたく、……ありがたくお受けいたします!」
「昂典、安心しなさい。今、殿は酔うていらっしゃるが、酔いがさめてもこのことは覆らぬ」
「はいっ」
心臓がはちきれそうに高鳴っている。地の底から、天のきわみまで放り投げられた心地だ。
「誰か! 殿はお休みになる!」
尹延が叫ぶと、さっと数人の召使達がやってきて、尹延と供に正体をなくした楊崔を連れて行った。
残された昂典は、頬が緩むのを禁じえず、じっと空の杯を見つめていた。
(姫が、私の元に)
これ以上の僥倖があるだろうか。
踊りだそうかというところで、ふとひっかかるものがあった。
(姫は暗い顔をなさっていた。……まさか、私のことが、お嫌いなのか)
ありえる。そこで気持ちが一気に萎んだ。
更に気になることが一つ。
(力が、弱まったというのは……?)
楊喜は外征の前など必ず昂典に助言をくれた。それのどこが衰えたというのだろう。
喜ばしい事なのに、ちくちくとひっかかりを覚えて、昂典はまた下を向いてしまった。
0
あなたにおすすめの小説
貴方なんて大嫌い
ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と
いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている
それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
【完結】離婚を切り出したら私に不干渉だったはずの夫が激甘に豹変しました
雨宮羽那
恋愛
結婚して5年。リディアは悩んでいた。
夫のレナードが仕事で忙しく、夫婦らしいことが何一つないことに。
ある日「私、離婚しようと思うの」と義妹に相談すると、とある薬を渡される。
どうやらそれは、『ちょーっとだけ本音がでちゃう薬』のよう。
そうしてやってきた離婚の話を告げる場で、リディアはつい好奇心に負けて、夫へ薬を飲ませてしまう。
すると、あら不思議。
いつもは浮ついた言葉なんて口にしない夫が、とんでもなく甘い言葉を口にしはじめたのだ。
「どうか離婚だなんて言わないでください。私のスイートハニーは君だけなんです」
(誰ですかあなた)
◇◇◇◇
※全3話。
※コメディ重視のお話です。深く考えちゃダメです!少しでも笑っていただけますと幸いです(*_ _))*゜
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる