先視姫は密かに憂う

薊野ざわり

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その6

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 足を止めると、魂さえ吐き出せそうな深い深いため息が漏れた。
 歩哨が訝しげにこちらを見ている。その視線を遮るために、ゆっくり歩き始めた。
 邸宅に戻る気にならなかった。戻れば、使用人たちが世話を焼いてくれるだろうが、今は野辺でごろりと横たわってしまいたい。

(まさか、今晩、こんな決着がつくとは)

 自嘲気味に笑う。ずっと温めてきた想いを、こうも容易く打ち破られるとは。
 戦場では『若獅子』などと渾名される昂典こうてんだが、今はただの十七の青年だった。
 肩を落として、楊喜ようきに会うために整えた髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
 酒は苦手だが、今夜はそれに頼らざるを得ないだろう。そうでもしないと、心の均衡を保てない気がした。
 髪をかき回した手を見る。剣を使うときにできた硬いたこがある。

 初陣は十四のときだった。その時はただ討ち死にに怯えて出陣した。
 だが、今は違う。一つでも多くの首級をあげて、あの人に褒めて欲しかった。
 怪我をすれば、あの人は怒ったような困ったような顔をして、いたわりに満ちた手で優しく傷に触れてくれた。それが何よりの報奨だった。

 それも今日で終わり。

 彼女が自分のものになることはないとわかっていた。
 これからは昂家の長として、ただただ昂家復興のために力を尽くせばいい。
 そして、それが成ったら――。
 成ったら、なんだというのだろう。
 そこにあるのは、ただの干からびた、夢の残骸だった。

(父上、こういうとき、私はどうしたらよいのですか)

 仰向けば、憎らしいほどにきらめく星と月。

「昂典ではないか」

 耳に覚えのある声がして、昂典は振り返った。歩哨がしゃっちょこばって拱手する。
 楊崔ようさいが、尹延いんえんと数人の供回りを連れて歩いてきた。
 こんな時間にこんな場所を歩いているような人物ではない。
 ぎょっとし、拱手した昂典の頭の上から、声が降ってくる。

「父上の墓前に参ったのだ。お前はこれから帰るのか」
「はっ」
「少し付き合え。尹延、お前だけ着いて来い」

 緊張したまま、昂典は偉丈夫の後を追った。城の方へと逆戻りである。
 通されたのは、楊崔がよく尹延ら腹心と会食を行う部屋だった。
 すぐに酒が運ばれてくる。杯を手に、楊崔が口を開いた。

「お前、室はいたか。何人いる?」
「は……? あの?」

 唐突な問いに、昂典は困惑しながらも首を横に振った。
 十七にも成れば妻や側室は当然、子も一人、二人はいるものだが、昂家の逼迫した状況から昂典はまだ独り身であった。
 楊崔が杯を一気に煽った。

「お前に嫁がせたいものがいる」

 今一番、避けたい話題だった。露骨に顔に出てしまったのだろう。楊崔が鼻息を荒くした。

「貴様、我が妹では気に入らんとでもいうか」
「殿、殿。まだ昂典は何も言っておりません」

 楊崔は酒が好きだが極端に弱い。たった一杯で顔がゆでたような赤になっている。
 尹延が宥めると、楊崔はさらに杯を仰ぐ。

「お前は先の外征で、目覚しい成果を上げたからな。褒美だ。何、美女とはいかぬが、声などはなかなかよいぞ。歌も上手い」
「昂典、殿は先ほどまで大殿の墓前で激しく懊悩なさっていたのだ。神聖なる楊喜姫を嫁がせるとは、これ大事。その相手が貴殿である事は、光栄であろう」
「少し嫁ぐのが遅くて、何が悪い!」
「殿、殿。もう、そのくらいになさってください」
「おい、昂典、何か言え!」

 胸倉を掴まれて、ようやく昂典は瞬きをした。
 だが、頭の中は混乱の極みにあった。

 楊崔の妹を娶る。それは、つまり――。

「殿、……よろしいのですか。その、楊喜様を、私のような若輩に」
「なんだ、なにか文句があるのか!」

 昂典の心臓が、強く脈打った。そこから、溢れんばかりの喜びが、全身に広がるような錯覚を覚え、彼は膝の上の拳を強く握った。
 ぐでんぐでんになっている楊崔の前で、叩頭する。

「ありがたく、……ありがたくお受けいたします!」
「昂典、安心しなさい。今、殿は酔うていらっしゃるが、酔いがさめてもこのことは覆らぬ」
「はいっ」

 心臓がはちきれそうに高鳴っている。地の底から、天のきわみまで放り投げられた心地だ。

「誰か! 殿はお休みになる!」

 尹延が叫ぶと、さっと数人の召使達がやってきて、尹延と供に正体をなくした楊崔を連れて行った。
 残された昂典は、頬が緩むのを禁じえず、じっと空の杯を見つめていた。

(姫が、私の元に)

 これ以上の僥倖があるだろうか。
 踊りだそうかというところで、ふとひっかかるものがあった。

(姫は暗い顔をなさっていた。……まさか、私のことが、お嫌いなのか)

 ありえる。そこで気持ちが一気に萎んだ。
 更に気になることが一つ。

(力が、弱まったというのは……?)

 楊喜は外征の前など必ず昂典に助言をくれた。それのどこが衰えたというのだろう。
 喜ばしい事なのに、ちくちくとひっかかりを覚えて、昂典はまた下を向いてしまった。
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