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その7
しおりを挟む暗い部屋に、薄ぼんやりとした獣脂の蝋燭の明りが灯っている。
「つかめたか」
声は、尹延のものだった。彼を含めて人の気配は、全部で二つ。
「はい。三人ほど、粤の者が紛れ込んでおりました。今、他の者を吐かせているところです」
「ぬかるな。一人も残すなよ」
「御意」
いらえとともに、気配が一つ消失する。
残された尹延は、暗闇の中、長大息を洩らした。
粤との戦は終わっていない。少なくとも、尹延にとっては。
先ほどの男のような、尹延が飼っている『虫』たちは、粤の懐にもぐりこみ内情を探り、ときに行動に移す。
しかし、それは粤も同じ。おそらくこの硝にも、粤の細作が複数もぐりこんでいることだろう。これは静かな戦であった。
尹延がこういう細やかで汚れた仕事をこなすのも、総ては硝、ひいては楊家の者たちのためだ。やがては、昂典もこれに携わるようになることだろう。
――昂典。
あの不遇で健気な青年を思うと、尹延は同情と期待を覚える。
まず信頼に足る人物だ。たとえ、過去の事があろうとも、彼は誠実であり、よく分を弁えている。武の才もある。いずれ自分と比肩する殿の寵臣となるだろう。
彼になら、楊喜のことも任せられる。
だが、楊喜を預けるなら、もっともっと強かになってもらわねばならない。
調査によれば、粤ではこんな噂が広がっているらしい。
『先の敗戦は、硝の先視の巫女が搦め手を予言したためだ』
楊喜の身が心配だった。奥に匿われていても、油断はならない。
一刻も早く、敵の細作を洗い出さねば ……。
◆
楊喜が会ってくれない。
とぼとぼと、無人の東屋を後にして、昂典は空を仰いだ。今晩は新月だ。
あの晩から、毎日ここに通っているのだが、楊喜は現れてくれなかった。
自分が礼を失して走り去るようなことをしたからか。
あるいは、自分がこれから問いかけようとする内容を予測してなのか。
のぼせていた頭も、流石に冷えてくる。
なんとかして、話す事はできないだろうか。
そう考えて思いついたのは、書庫だった。牘に用向きをしたためて、竹簡に挟もう。
誰もいない深夜の書庫にもぐりこみ、筆をとる。
以前はよくここでこうして夜を明かしたものだと、懐かしく思う。
(どうかあの日のように、この牘が、あの方へ届きますように)
磨ったばかりの墨の香りが、鼻腔をくすぐる。
◆
月がない夜は、やはり見通しがきかない。
だが、東屋の人影が、しょんぼりした足取りで帰っていくのは見えていた。
二階の外回廊から、帰っていく昂典の後姿を見送って、楊喜は唇を噛んだ。あの背に一つ声をかければいいのに、舌が凍り付いてしまう。
そうこうしているうちに、何日がたっただろう。
兄からは、明日、昂典に降嫁することを朝議で正式に決定すると通告された。
その前に、せめて一言、言葉をかわしたかった。
(でも、一体何を言うというのか)
苦笑しようとして、失敗する。諦めの吐息が夜の風に消える。
踵を返し、私室に戻ろうとしたときだった。
物音を聞いた。使われていない、開き部屋からだ。
ねずみの足音にしては、重たい。
好奇心に突き動かされて、楊喜はそっと格子窓を覗き込んだ。
格子に、指先が触れたときだった。びりっ、と指先に小さな痛みが走った。
警鐘だ。そう理解したときには、もう遅かった。
格子の中、爛々と輝く双眸と、目が合ってしまった。
黒装束の男が一人。その男の腕の中には、動かない歩哨が一人。血溜り。
「あっ……」
悲鳴をあげようとした楊喜の首筋に、衝撃が走った。
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