先視姫は密かに憂う

薊野ざわり

文字の大きさ
7 / 9

その7

しおりを挟む

 暗い部屋に、薄ぼんやりとした獣脂の蝋燭の明りが灯っている。

「つかめたか」

 声は、尹延いんえんのものだった。彼を含めて人の気配は、全部で二つ。

「はい。三人ほど、えつの者が紛れ込んでおりました。今、他の者を吐かせているところです」
「ぬかるな。一人も残すなよ」
「御意」

 いらえとともに、気配が一つ消失する。
 残された尹延は、暗闇の中、長大息を洩らした。
 粤との戦は終わっていない。少なくとも、尹延にとっては。
 先ほどの男のような、尹延が飼っている『虫』たちは、粤の懐にもぐりこみ内情を探り、ときに行動に移す。
 しかし、それは粤も同じ。おそらくこの硝にも、粤の細作が複数もぐりこんでいることだろう。これは静かな戦であった。

 尹延がこういう細やかで汚れた仕事をこなすのも、総てはしょう、ひいては楊家の者たちのためだ。やがては、昂典もこれに携わるようになることだろう。

 ――昂典こうてん

 あの不遇で健気な青年を思うと、尹延は同情と期待を覚える。

 まず信頼に足る人物だ。たとえ、過去の事があろうとも、彼は誠実であり、よく分を弁えている。武の才もある。いずれ自分と比肩する殿の寵臣となるだろう。
 彼になら、楊喜ようきのことも任せられる。
 だが、楊喜を預けるなら、もっともっと強かになってもらわねばならない。
 調査によれば、粤ではこんな噂が広がっているらしい。

『先の敗戦は、硝の先視の巫女が搦め手を予言したためだ』

 楊喜の身が心配だった。奥に匿われていても、油断はならない。
 一刻も早く、敵の細作を洗い出さねば ……。



 楊喜が会ってくれない。

 とぼとぼと、無人の東屋を後にして、昂典は空を仰いだ。今晩は新月だ。
 あの晩から、毎日ここに通っているのだが、楊喜は現れてくれなかった。

 自分が礼を失して走り去るようなことをしたからか。
 あるいは、自分がこれから問いかけようとする内容を予測してなのか。

 のぼせていた頭も、流石に冷えてくる。

 なんとかして、話す事はできないだろうか。
 そう考えて思いついたのは、書庫だった。ふだに用向きをしたためて、竹簡に挟もう。

 誰もいない深夜の書庫にもぐりこみ、筆をとる。
 以前はよくここでこうして夜を明かしたものだと、懐かしく思う。

(どうかあの日のように、この牘が、あの方へ届きますように)

 磨ったばかりの墨の香りが、鼻腔をくすぐる。



 月がない夜は、やはり見通しがきかない。
 だが、東屋の人影が、しょんぼりした足取りで帰っていくのは見えていた。
 二階の外回廊から、帰っていく昂典の後姿を見送って、楊喜は唇を噛んだ。あの背に一つ声をかければいいのに、舌が凍り付いてしまう。

 そうこうしているうちに、何日がたっただろう。

 兄からは、明日、昂典に降嫁することを朝議で正式に決定すると通告された。
 その前に、せめて一言、言葉をかわしたかった。

(でも、一体何を言うというのか)

 苦笑しようとして、失敗する。諦めの吐息が夜の風に消える。
 踵を返し、私室に戻ろうとしたときだった。

 物音を聞いた。使われていない、開き部屋からだ。
 ねずみの足音にしては、重たい。

 好奇心に突き動かされて、楊喜はそっと格子窓を覗き込んだ。
 格子に、指先が触れたときだった。びりっ、と指先に小さな痛みが走った。

 警鐘だ。そう理解したときには、もう遅かった。

 格子の中、爛々と輝く双眸と、目が合ってしまった。
 黒装束の男が一人。その男の腕の中には、動かない歩哨が一人。血溜り。

「あっ……」

 悲鳴をあげようとした楊喜の首筋に、衝撃が走った。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ 読んでくださり感謝いたします。 すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

疎遠だった幼馴染が彼女と別れて私に会いに来るようになったのだけど

くじら
恋愛
図書館の定位置には、いつも黒縁メガネの女生徒がいる。 貴族同士の見栄の張り合いや出世争いから距離を置いて穏やかに過ごしていたのに、女生徒の幼馴染が絡んでくるようになって…。

【完結】離婚を切り出したら私に不干渉だったはずの夫が激甘に豹変しました

雨宮羽那
恋愛
 結婚して5年。リディアは悩んでいた。  夫のレナードが仕事で忙しく、夫婦らしいことが何一つないことに。  ある日「私、離婚しようと思うの」と義妹に相談すると、とある薬を渡される。  どうやらそれは、『ちょーっとだけ本音がでちゃう薬』のよう。  そうしてやってきた離婚の話を告げる場で、リディアはつい好奇心に負けて、夫へ薬を飲ませてしまう。  すると、あら不思議。  いつもは浮ついた言葉なんて口にしない夫が、とんでもなく甘い言葉を口にしはじめたのだ。 「どうか離婚だなんて言わないでください。私のスイートハニーは君だけなんです」 (誰ですかあなた) ◇◇◇◇ ※全3話。 ※コメディ重視のお話です。深く考えちゃダメです!少しでも笑っていただけますと幸いです(*_ _))*゜

今宵、薔薇の園で

天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。 しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。 彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。 キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。 そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。 彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。

結婚したけど夫の不倫が発覚して兄に相談した。相手は親友で2児の母に慰謝料を請求した。

佐藤 美奈
恋愛
伯爵令嬢のアメリアは幼馴染のジェームズと結婚して公爵夫人になった。 結婚して半年が経過したよく晴れたある日、アメリアはジェームズとのすれ違いの生活に悩んでいた。そんな時、机の脇に置き忘れたような手紙を発見して中身を確かめた。 アメリアは手紙を読んで衝撃を受けた。夫のジェームズは不倫をしていた。しかも相手はアメリアの親しい友人のエリー。彼女は既婚者で2児の母でもある。ジェームズの不倫相手は他にもいました。 アメリアは信頼する兄のニコラスの元を訪ね相談して意見を求めた。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

処理中です...