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新たな道へ
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高子と久方に見送られて朔耶は手術室に入った。中を見回すと手術着を付けた者が思ったよりもたくさんいた。心臓の手術は長時間にわたって全身麻酔をするために、気管にチューブを通して人工呼吸を行う。麻酔で意識がないといっても人工呼吸器を取り付けるのには多数のスタッフの手を必要とすると説明されていた。
衣類をすべて取り去って手術台に横たわった朔耶の口にマスクが被せられる。
「これは被せるだけですから」
麻酔科医の言葉に朔耶は小さく頷いた。
「麻酔を注入します」
今度は多分、これから手術を行うスタッフに向けられた言葉だろう。軽く呼吸をすると一気に頭の中が霞む。もう一呼吸すると意識は遠くなった。
「朔耶君……朔耶君」
誰かの呼ぶ声がする。ゆっくりと目を開くと保がのぞき込んでいた。口にはまだチューブが入ったままだ。
「私の声が聞こえるね?聞こえるのならばこの手を握って」
手の中に彼の指らしきものが差し入れられる。朔耶は言われたとおりに軽く握った。
「人工呼吸器はもう少し後で外すからね」
保の言葉に軽く頷いたのはかすかに記憶しているが、すぐにまた瞼を閉じて麻酔がもたらす深い眠りに堕ちていった。
再び保の声を聞いてわずかに目を開けるとまたのぞき込まれていた。今度は集中治療室内にかなりのスタッフがいる。
「気管に入れているのを今から取るから」
まず首に刺されていた管を取り、鼻腔内のチューブが抜かれた。次いで水蒸気を含んだ酸素が流れるチューブが鼻に取り付けられ、いよいよ気管のチューブを引き抜く手順になった。これが大変だった。当然ながらこれまで酸素を送り込んでいた機械は停止する。だが気管はチューブが塞いでいるのだ。鼻から噴射される酸素で吸気は強制的にできるが、吐くことができずに肺は膨らんだままだ。
……苦しい……と思った時、手動の呼吸器で呼気をが吸い出された。ホッと力を抜いた途端に少しチューブが引き出される。だがすぐに苦しくなる。また手動で呼気が吸い出される。朔耶が力を抜いて再び引き出される。次に苦しくなったタイミングで気管からチューブが取り出された。
……終わったと思って深々と息を吐いた。麻酔でぼんやりしていた頭がかなりはっきりしている。朔耶はゆっくりと周囲を見回した。室内にはたくさんの機械が設置され、そこから伸びた管や配線が自分の身体に取り付けられている。点滴も腕だけではなく足にも取り付けられているのが見えた。
「朔耶、今は眠れ」
スタッフと保が室内から出て残ったのは周だった。彼は『よく頑張った』と言って手をそっと握りしめてくれた。
朔耶は小さく頷いて目を閉じ、再び深い眠りの中に堕ちていった。
「朔耶、朝食だ」
不意に聞こえた周の声に朔耶はぱっちりと目を開いた。すぐに自分に繋がれている管や配線を目にして、ここが病院の集中治療室であるのを思い出した。
「ベッドを起こそう」
周がベッドの脇にあるリモコンを操作してリクライニングを作動させた。ほぼ普通に座った状態にまで身を起こされる。すぐにベッド用のテーブルが出され、少し離れた台にのせられていたトレイが置かれた。見るとのっているのは普通の食事だ。
「えっと、こういう時は流動食じゃないんですか?」
小等部の時に虫垂炎の手術をした同級生がいて、彼が術後の最初の食事は豆乳とオレンジジュースだったと言っていたのを記憶していた。
「ん?誰か手術の経験した奴がいるのか?」
「小等部の同級生に虫垂炎をした人がいて」
「ああ、なるほど。あれは消化器系のだからな。お前の場合はそっちには触ってないから大丈夫だ。食べ難いなら柔らかいものに変えるぞ?」
「いえ、柔らかいのは苦手なので」
「ああ、味が変わるからだろう。武さまもよく嫌がられるよ」
武は身体が弱いと聞いた。先天性の心臓病である朔耶もよく臥せった。多分、自分と同じように武も病の間は粥が出されたのだろう。味もさることながら粥と病気の辛さが、心の中で結びついてしまっているのかもしれない。少なくとも朔耶にとっては『粥=病気=辛く苦しい』なのだ。
とりあえず一昨日の夜から何も口にしてはいないが、空腹感はあまりない。それでも病の時は食事も薬と思っていて、朔耶は箸に手を伸ばして気が付いた。胸は徹底した痛み制御がされているため、痛みがないわけではないがまだ許容範囲だと言える。それよりも全体に広がる鈍い痺れとチクチクとする痛みとも呼び難い感覚がある。これは何だろうと首を傾げた。
「どうした?傷が痛むのか?」
「いえ、その…………」
この感覚を何と表現すればいいのだろうかと戸惑う。
「ああ、胸部の違和感か。メスで大量の神経を切断したからな。大事なものは縫合前に繋いだが全部は無理なんだ」
言われてみれば事前の説明によると鎖骨の間のすぐ下から鳩尾まで切り開かれたのだ。この部分にはどれくらいの神経があるのだろう。如何に保が凄腕の外科医であっても、すべてを繋いでいたならば夜が明けたのではないかと思ってしまう。
「高子さまは昼頃から来られる」
集中治療室とはいっても今、朔耶がいるのは武のために造られた特別病棟に設えらえたものだ。ここには厳選されたスタッフしかいない。その半数が紫霄学院の卒業生だとも聞いている。しかも周が泊まり込みをしてくれている様子だ。ここまでの事をしてもらえるのは一つには武の指示があったのは予想できる。同時に考えられるのは護院家が朔耶を養子に迎えるという事実だ。
朔耶の生家である御影家は元々、西の島にある皇家の祖神である月神を奉じる皇大神宮に仕える一族だった。現在でも一族の何人かは神職に就いている。『朔耶』という名と二人の弟の名を見てわかる通り、月に因んで命名される者が多い。三兄弟の父の名は『十六耶』という。
御影家は清華貴族の中でも中位に位置する。現在の紫霄学院の高等部では皇子である薫に次ぐ立場にいる。とは言っても朔耶は弟二人よりは生母の身分が低い。表向きは正室の子にはなってはいるが。
周は取り囲む機械を無言でチェックしている姿を目で追う。真剣な眼差しに胸がときめく。朔耶は自分の感情が何であるのかは理解していた。今のところ完全な一方通行であるのはわかっている。過去に彼が愛していたのは夕麿だ。女系ながら皇家の血を引く高貴さと優雅さ、母親譲りの美貌、明晰な頭脳と伝説にまでなっている生徒会長。卒業して10年近くの歳月が経過しているというのに、教職員たちの口に尊敬をもって語られる彼に実際に会って、想像以上だったのを覚えている。あの彼が恋敵ならば到底敵うものではない。夕麿の気持ちは伴侶にあるが、想いはそう簡単に断ち切れるものなのだろうか。
振り向いて欲しい。自分を見て欲しい。切実に願っているがどうすれば叶えられるのか、恋をするのが初めてでわからないのだ。こうやってただ好きな相手を見つめることしかできない。先輩と後輩、主治医と患者。近いようで遠く感じる関係が悲しくなる。
昼近くになってになって周の言葉通り高子が病室を訪れた。
「ごきげんよう、朔耶さん。お加減はどうかしら?」
優しく微笑む彼女にホッとする。朔耶は母親の愛情を知らない。実母には会ったことはおろか、名前もどんな女性かも知らない。わかっているのは父親を含む一族が金を与えて、なかなか子供ができない正室の代わりに産ませたのが朔耶だったという事実である。しかし生まれてさほど日が経たない時点で先天的な心臓の欠陥が見付かった。同時に正室が懐妊が判明した。朔耶は完全に不要になってしまったのだ。弟たちは朔耶とは異母兄弟であるとは知らない。
そして下の弟である月耶が生まれてすぐに、御影家は薫を乳部として預かることになった。ここから朔耶の立場が今のものになった。武の言ったのが真実ならば朔耶が捨て駒であることには変わりはなかった。
弟二人と薫。彼らと共に紫霄学院で過ごして来た。長期の休みに入っても帰宅はできなかったが、常に薫の傍らにいた。一人ではなかったはずなのに朔耶はいつも孤独だった。心臓の病と折り合いをつけながら肌を重ねた相手にも、何をどうしても愛情を、恋心を持つことができなかった。
どうせ長くは生きられない……
いつ消滅するかわからない明日に、希望も夢もなかった。たとえ生きていられたとしても薫と共に、生涯を学院都市で過ごす未来には選択肢はほとんどなかったのだ。
だが目の前で穏やかな笑みを浮かべる高子を見て、自分の未来は変わったのだと実感した。
「えっと、あの、高子さま……」
戸惑いながらそう言うと彼女は朔耶の目の前で軽く指を振って答えた。
「違うでしょう?朔耶さん」
「え、あ……その、お母さん」
育ての母すらほとんどそう呼んだことはない。
「何かしら?」
「あの、私を本当に養子に、あなたの息子にしていただけるのですか?」
「もちろんよ。すでに届を出して認可も下りてるし御影家の方も話は終わってるわ。今すぐにでもあなたは御影 朔耶から護院 朔耶になれるの。あなたは紫霄を卒業するという区切りが欲しいだろうと主人が言うから、私もそれまでは待つことにしました。でも気持ちはすでにあなたは私の一番最後の子供よ」
彼女の言葉はまるで乾いた海綿が水を与えられて、柔らかくふっくらと潤ったように朔耶の心を満たした。不思議な感覚だった。高子とさほど話したことがあるわけではないのに、彼女からは確かな温もりを持った愛情を感じられる。これはずっと自分が求めていたものの一つだ……と思った。
不意に目が熱くなった。ポロポロと涙が零れ落ちてシーツに模様をつくる。この気持ちを言葉にできなくて、ただただ溢れる涙に戸惑い、困った。
「あなたはこれまでたくさんのことを我慢して、諦めてきたのよ。だけどこれからは本当に歩きたい人生を探していいの」
高子は泣き続ける朔耶をそっと抱きしめた。
「はい……ありがとうございます」
震える声でそう答えるのがやっとだった。
昼食はベッドのリクライニングを起こして摂るように指示された。両手首に繋がれた点滴のチューブが幾分に邪魔にはなったが、食欲は普通にあるのに自分で驚く。
高子が見守る中、午後からはベッドに座る練習をする。胸部はしっかりとベルトで固定されているため、気になるのは動くことによる痛みのみだ。前日の朝まで座ったり立ったりしていたのだ。傷や身体に取り付けられているいろんなものから伸びているものが気にはなるが、普通にベッドサイドに座ることができた。むしろ付き添いの高子がオロオロしていたくらいだ。
周は仕切りのカーテンの所でこの微笑ましい光景を見守ってから、清方と武にこの状況を知らせた。
朔耶は途中で病室に戻り、五月末近くまで入院。その後、六月までの数日を護院夫妻のマンションの部屋で過ごし、卒業まで学院に戻ることになる。
衣類をすべて取り去って手術台に横たわった朔耶の口にマスクが被せられる。
「これは被せるだけですから」
麻酔科医の言葉に朔耶は小さく頷いた。
「麻酔を注入します」
今度は多分、これから手術を行うスタッフに向けられた言葉だろう。軽く呼吸をすると一気に頭の中が霞む。もう一呼吸すると意識は遠くなった。
「朔耶君……朔耶君」
誰かの呼ぶ声がする。ゆっくりと目を開くと保がのぞき込んでいた。口にはまだチューブが入ったままだ。
「私の声が聞こえるね?聞こえるのならばこの手を握って」
手の中に彼の指らしきものが差し入れられる。朔耶は言われたとおりに軽く握った。
「人工呼吸器はもう少し後で外すからね」
保の言葉に軽く頷いたのはかすかに記憶しているが、すぐにまた瞼を閉じて麻酔がもたらす深い眠りに堕ちていった。
再び保の声を聞いてわずかに目を開けるとまたのぞき込まれていた。今度は集中治療室内にかなりのスタッフがいる。
「気管に入れているのを今から取るから」
まず首に刺されていた管を取り、鼻腔内のチューブが抜かれた。次いで水蒸気を含んだ酸素が流れるチューブが鼻に取り付けられ、いよいよ気管のチューブを引き抜く手順になった。これが大変だった。当然ながらこれまで酸素を送り込んでいた機械は停止する。だが気管はチューブが塞いでいるのだ。鼻から噴射される酸素で吸気は強制的にできるが、吐くことができずに肺は膨らんだままだ。
……苦しい……と思った時、手動の呼吸器で呼気をが吸い出された。ホッと力を抜いた途端に少しチューブが引き出される。だがすぐに苦しくなる。また手動で呼気が吸い出される。朔耶が力を抜いて再び引き出される。次に苦しくなったタイミングで気管からチューブが取り出された。
……終わったと思って深々と息を吐いた。麻酔でぼんやりしていた頭がかなりはっきりしている。朔耶はゆっくりと周囲を見回した。室内にはたくさんの機械が設置され、そこから伸びた管や配線が自分の身体に取り付けられている。点滴も腕だけではなく足にも取り付けられているのが見えた。
「朔耶、今は眠れ」
スタッフと保が室内から出て残ったのは周だった。彼は『よく頑張った』と言って手をそっと握りしめてくれた。
朔耶は小さく頷いて目を閉じ、再び深い眠りの中に堕ちていった。
「朔耶、朝食だ」
不意に聞こえた周の声に朔耶はぱっちりと目を開いた。すぐに自分に繋がれている管や配線を目にして、ここが病院の集中治療室であるのを思い出した。
「ベッドを起こそう」
周がベッドの脇にあるリモコンを操作してリクライニングを作動させた。ほぼ普通に座った状態にまで身を起こされる。すぐにベッド用のテーブルが出され、少し離れた台にのせられていたトレイが置かれた。見るとのっているのは普通の食事だ。
「えっと、こういう時は流動食じゃないんですか?」
小等部の時に虫垂炎の手術をした同級生がいて、彼が術後の最初の食事は豆乳とオレンジジュースだったと言っていたのを記憶していた。
「ん?誰か手術の経験した奴がいるのか?」
「小等部の同級生に虫垂炎をした人がいて」
「ああ、なるほど。あれは消化器系のだからな。お前の場合はそっちには触ってないから大丈夫だ。食べ難いなら柔らかいものに変えるぞ?」
「いえ、柔らかいのは苦手なので」
「ああ、味が変わるからだろう。武さまもよく嫌がられるよ」
武は身体が弱いと聞いた。先天性の心臓病である朔耶もよく臥せった。多分、自分と同じように武も病の間は粥が出されたのだろう。味もさることながら粥と病気の辛さが、心の中で結びついてしまっているのかもしれない。少なくとも朔耶にとっては『粥=病気=辛く苦しい』なのだ。
とりあえず一昨日の夜から何も口にしてはいないが、空腹感はあまりない。それでも病の時は食事も薬と思っていて、朔耶は箸に手を伸ばして気が付いた。胸は徹底した痛み制御がされているため、痛みがないわけではないがまだ許容範囲だと言える。それよりも全体に広がる鈍い痺れとチクチクとする痛みとも呼び難い感覚がある。これは何だろうと首を傾げた。
「どうした?傷が痛むのか?」
「いえ、その…………」
この感覚を何と表現すればいいのだろうかと戸惑う。
「ああ、胸部の違和感か。メスで大量の神経を切断したからな。大事なものは縫合前に繋いだが全部は無理なんだ」
言われてみれば事前の説明によると鎖骨の間のすぐ下から鳩尾まで切り開かれたのだ。この部分にはどれくらいの神経があるのだろう。如何に保が凄腕の外科医であっても、すべてを繋いでいたならば夜が明けたのではないかと思ってしまう。
「高子さまは昼頃から来られる」
集中治療室とはいっても今、朔耶がいるのは武のために造られた特別病棟に設えらえたものだ。ここには厳選されたスタッフしかいない。その半数が紫霄学院の卒業生だとも聞いている。しかも周が泊まり込みをしてくれている様子だ。ここまでの事をしてもらえるのは一つには武の指示があったのは予想できる。同時に考えられるのは護院家が朔耶を養子に迎えるという事実だ。
朔耶の生家である御影家は元々、西の島にある皇家の祖神である月神を奉じる皇大神宮に仕える一族だった。現在でも一族の何人かは神職に就いている。『朔耶』という名と二人の弟の名を見てわかる通り、月に因んで命名される者が多い。三兄弟の父の名は『十六耶』という。
御影家は清華貴族の中でも中位に位置する。現在の紫霄学院の高等部では皇子である薫に次ぐ立場にいる。とは言っても朔耶は弟二人よりは生母の身分が低い。表向きは正室の子にはなってはいるが。
周は取り囲む機械を無言でチェックしている姿を目で追う。真剣な眼差しに胸がときめく。朔耶は自分の感情が何であるのかは理解していた。今のところ完全な一方通行であるのはわかっている。過去に彼が愛していたのは夕麿だ。女系ながら皇家の血を引く高貴さと優雅さ、母親譲りの美貌、明晰な頭脳と伝説にまでなっている生徒会長。卒業して10年近くの歳月が経過しているというのに、教職員たちの口に尊敬をもって語られる彼に実際に会って、想像以上だったのを覚えている。あの彼が恋敵ならば到底敵うものではない。夕麿の気持ちは伴侶にあるが、想いはそう簡単に断ち切れるものなのだろうか。
振り向いて欲しい。自分を見て欲しい。切実に願っているがどうすれば叶えられるのか、恋をするのが初めてでわからないのだ。こうやってただ好きな相手を見つめることしかできない。先輩と後輩、主治医と患者。近いようで遠く感じる関係が悲しくなる。
昼近くになってになって周の言葉通り高子が病室を訪れた。
「ごきげんよう、朔耶さん。お加減はどうかしら?」
優しく微笑む彼女にホッとする。朔耶は母親の愛情を知らない。実母には会ったことはおろか、名前もどんな女性かも知らない。わかっているのは父親を含む一族が金を与えて、なかなか子供ができない正室の代わりに産ませたのが朔耶だったという事実である。しかし生まれてさほど日が経たない時点で先天的な心臓の欠陥が見付かった。同時に正室が懐妊が判明した。朔耶は完全に不要になってしまったのだ。弟たちは朔耶とは異母兄弟であるとは知らない。
そして下の弟である月耶が生まれてすぐに、御影家は薫を乳部として預かることになった。ここから朔耶の立場が今のものになった。武の言ったのが真実ならば朔耶が捨て駒であることには変わりはなかった。
弟二人と薫。彼らと共に紫霄学院で過ごして来た。長期の休みに入っても帰宅はできなかったが、常に薫の傍らにいた。一人ではなかったはずなのに朔耶はいつも孤独だった。心臓の病と折り合いをつけながら肌を重ねた相手にも、何をどうしても愛情を、恋心を持つことができなかった。
どうせ長くは生きられない……
いつ消滅するかわからない明日に、希望も夢もなかった。たとえ生きていられたとしても薫と共に、生涯を学院都市で過ごす未来には選択肢はほとんどなかったのだ。
だが目の前で穏やかな笑みを浮かべる高子を見て、自分の未来は変わったのだと実感した。
「えっと、あの、高子さま……」
戸惑いながらそう言うと彼女は朔耶の目の前で軽く指を振って答えた。
「違うでしょう?朔耶さん」
「え、あ……その、お母さん」
育ての母すらほとんどそう呼んだことはない。
「何かしら?」
「あの、私を本当に養子に、あなたの息子にしていただけるのですか?」
「もちろんよ。すでに届を出して認可も下りてるし御影家の方も話は終わってるわ。今すぐにでもあなたは御影 朔耶から護院 朔耶になれるの。あなたは紫霄を卒業するという区切りが欲しいだろうと主人が言うから、私もそれまでは待つことにしました。でも気持ちはすでにあなたは私の一番最後の子供よ」
彼女の言葉はまるで乾いた海綿が水を与えられて、柔らかくふっくらと潤ったように朔耶の心を満たした。不思議な感覚だった。高子とさほど話したことがあるわけではないのに、彼女からは確かな温もりを持った愛情を感じられる。これはずっと自分が求めていたものの一つだ……と思った。
不意に目が熱くなった。ポロポロと涙が零れ落ちてシーツに模様をつくる。この気持ちを言葉にできなくて、ただただ溢れる涙に戸惑い、困った。
「あなたはこれまでたくさんのことを我慢して、諦めてきたのよ。だけどこれからは本当に歩きたい人生を探していいの」
高子は泣き続ける朔耶をそっと抱きしめた。
「はい……ありがとうございます」
震える声でそう答えるのがやっとだった。
昼食はベッドのリクライニングを起こして摂るように指示された。両手首に繋がれた点滴のチューブが幾分に邪魔にはなったが、食欲は普通にあるのに自分で驚く。
高子が見守る中、午後からはベッドに座る練習をする。胸部はしっかりとベルトで固定されているため、気になるのは動くことによる痛みのみだ。前日の朝まで座ったり立ったりしていたのだ。傷や身体に取り付けられているいろんなものから伸びているものが気にはなるが、普通にベッドサイドに座ることができた。むしろ付き添いの高子がオロオロしていたくらいだ。
周は仕切りのカーテンの所でこの微笑ましい光景を見守ってから、清方と武にこの状況を知らせた。
朔耶は途中で病室に戻り、五月末近くまで入院。その後、六月までの数日を護院夫妻のマンションの部屋で過ごし、卒業まで学院に戻ることになる。
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