蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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浅黄

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「はい……ええ、それは良かった。お疲れさま、周……ええ、伝えましょう。では」

 笑顔で携帯を閉じた清方は、自分を注視している二人に向き直った。

「朔耶君の手術は無事に終了したそうです」

 清方の言葉に薫は目を潤ませ、月耶は歓声を上げた。

「俺、三日月兄さんに知らせて来る!」

 月耶が慌ただしく部屋を出て行くと、薫が縋り付くような眼差しを清方に向けた。

「先生…帰っちゃうの?」

「いえ、今日は隣室に成瀬 雫警視正と待機します」

「久留島さんは?」

「3日程休養して戻って来ます」

 どうやら薫は多少、人見知りするらしい。慣れた顔が余り知らない顔と入れ替わるのが不安らしい。

「雫とは入学式にお目もじいたしましたね?」

「うん」

「彼は武さまや薫さまの父宮さまとは従兄弟同士になります」

「従兄弟?」

 目を見開いて驚く姿が愛らしい。

「ええ。彼はご母堂が成瀬家に降嫁されたので身分が違いますが」

「詳しいんですね?」

「私の大切な人ですから」

 笑顔で告げると薫はもっと驚いた。

「武兄さまと夕麿兄さまみたいに?」

「そうです。私は夕麿さまとは従兄弟同士になります」

「え?周先生も従兄弟って仰ってました」

「そうです。夕麿さまの父君の姉が周の母で私の乳母になります。それで夕麿さまのご母堂さまが、私の母の異母妹なのです」

 考えてみれば夕麿を間に、清方と周は縁が繋がっているのだ。子供の頃に赤ん坊だった夕麿と幼児だった周と、六条家で過ごした時間が今は愛しい。やはり人と人の縁は不思議だと思う。これは科学では説明出来ない。『偶然』で片付けるのは簡単だ。科学は説明がつかないと済ませてしまう。医師という職業は科学者の一端でもある。だから本当はそんな事を言ってはいけないのかもしれない。

 しかし武の皇家の霊感を見て来た今は、科学ではまだまだ説明出来ない事がたくさんあるのだと思うようになった。全てを解き明かすなどと言うのは人間の傲慢なのかもしれないと。

「成瀬さんも、兄さまたちや周先生と仲良しなのですか?」

「もちろんです。お訊きになりたいのですか?」

「うん。何も知らないから知りたい」

 家族…というものを知らない。その感覚は他ならぬ清方が、良く知っている事であった。武のお蔭で学院から解放され両親にも出会えた。愛する人との暮らしもである。

「わかりました。夕食をこちらへ運ばせましょう。武さまがいらっしゃったら、お手ずからのお料理をお作りくださいますのですが」

「お料理!?」

 薫は何から何まで目新しい事ばかりのようだ。



 久しぶりにゲートを通過する。周はここのところ、術後の朔耶にずっと付き添って集中治療室に詰めていた。昨日、ようやく病室に戻った彼を護院 高子に任せて帰宅した。 

 周は腕時計を見て夕焼けに染まる高等部の校舎へと歩き出した。校医たちが詰める保健室や医務室には、出来得る限り顔を出さない事にしていた。彼らは学院側の都合でしか生徒たちの治療をしない。わかっているつもりだったが、初見でわかる朔耶の状態を見て見ぬ振りをしていた。指示が出ていた薬の処方箋を出すだけ。医師としての責任感も義務感もない。 

 彼らは学院内で育った、『医師』という名前のマリオネットなのかもしれない。マリオネットだからこそ、校医として選ばれたのかもしれない。そのような者たちと馴れ合うつもりは毛頭ない。 

 薫の主治医として訪れても、周はここでは白衣すら着なかった。 

 学院内の医師たちとの線引き。佐久間が武を暗殺する為に赴任して来た校医だった事実は、武を中心とした全員が、紫霄学院の医師たちに不信を持つ原因になっていた。かつてはその医師たちの中にいた清方すら彼らを信用してはいない。

 ましてや周は佐久間と親しかったし、学院に在学中は彼を尊敬していた。武に忠義を尽くす為の指針を示してくれたのも他ならぬ佐久間だった。最初から武を監視して、病気として葬り去る命令で学院にいた。裏切られた思いを味わった周は、誰よりも学院の医師たちを信じていなかった。

 校舎から特別棟へと入ってもう一度腕時計を見た。特待生の授業が終了するまで今少し時間がある。周はエレベーターに乗ると生徒会室のある階のボタンを押した。

 高等部を卒業して10年以上の歳月が過ぎた。それでもここに来ると様々な思い出が蘇る。会長執務室に下級生を引っ張り込んでいた時に、当時中等部生徒会長だった夕麿が来た事があった。確か学祭の為の相談だったと記憶している。何も知らないで入って来た夕麿は、真っ最中の光景を見て蒼褪めた。手にしていたファイルを周に叩き付け、無言で踵を返して立ち去った。

「あの頃の夕麿はまだ可愛いかったな」

 身長が伸び始めていたとはいえ、今の武くらいの身長だった。あの事件から夕麿の性格が豹変したのは知っていた。前年の学祭の時には、2度目の自殺未遂を起こした後で、学院側の監視が付いていた。友人である義勝たちも、片時も彼から目を離さないようにしていた。苦しみも悲しみも全て、自らの内に封じ込めた結果が、氷のように冷たくて固い心を形成していた。

 夕麿への想いから離れたのをきっかけに縋っていたものとも決別した。大夫も辞した今、周のよすがは紫霞宮家の主治医という立場だけ。

 孤独だった。御園生邸に住みながら、帰る場所すら今の周にはなかった。

「新しい恋をしなさい」

 清方は周にそういう。だが一体どこに行けばそんな相手がいる?バイセクシャルではあるが、今更異性に心が動かない。勤務する病院のナースたちから、誕生日だとかバレンタインにプレゼントを贈られるが、彼女たちに心が動いた事は一度もない。

 雫に紫霄の生徒たちの事を揶揄やゆされたが、自分の年齢の半分くらいの彼らを恋愛対象にしてどうなるのだろう?第一、高校生からしたら30歳に近い男など眼中にないだろう。

 運命の相手との運命的な出会い。自分にはそんなものは存在しないのかもしれないと、近頃はそんな想いにすら心が満たされてしまう。もしかしたら夕麿への片想いで、一生分の恋心を使い果たしてしまったのかもしれないと、清方と雫が聞いたら呆れ果ててしまいそうな感情さえ抱いてしまう。 

 このまま満たされない心で、ずっと生きて行くのかもしれない。両親のように愛情が消えて、互いに憎み合いながら夫婦でいるような…そんな生き方はしたくないから。家に帰って彼らの道具にはなりたくない。あの寒々しい家より孤独ではあっても、御園生邸は笑いに包まれて温かいから。 

 まだ誰もいない生徒会室で、周はそんな事を考えながら座っていた。 

 夕麿への想いが消えてなくなった訳ではない。愛情はある。ただそれはもう、一心に彼を求める恋心ではなくなっていた。温かで穏やかな気持ちは敢えて言葉にするならば『家族愛』であろうか。兄が弟を見詰めるような気持ち。それが今のありのままの周だった。 

「おや、久我先輩?」 

 生徒会室の扉を開けて入って来たのは行長だった。 

「下河辺か」 

「御影 朔耶は如何ですか?」 

「集中治療室から病室へ戻った。経過さえ悪くなければ、6月始めには戻って来れるだろう」 

「卒業式には間に合うのですね?」 

「大丈夫だ。思ったよりも体力があるし回復力もある。彼は元気になるよ」 

 医師として自信を持って言える。

「そうですか、ありがとうございます。白鳳会に上がった頃から、動くのが辛そうで気にはなっていたんです」

 だが校医たちも大学の附属病院の医師たちも、朔耶には薬を与えるだけだった。

「だから先輩が動いてくださった時には、本当に嬉しかったんです」

 武と夕麿の望みに助力したい想いから行長はここ、紫霄学院高等部の教師になる道を選択した。御園生家が理事の席を次々と買取、武たちが卒業生や関係者に与えている。お蔭で一時のような風紀の乱れは鎮静化している。その上で定員はわずかだが、生徒の一般募集を始めていた。それでも難関で外部編入の条件を満たす者はわずかではあるが増えつつある。経済界トップの子息などが、この特殊で閉鎖された場所に新たな風を吹き込んで欲しいと願っていた。

「それで御影 朔耶はやはり護院家へ?」

「在校中は御影のままで、卒業後に養子縁組みの届けを出す事になった」

「御影家は彼を護院家に売り渡したのですよね?」

「そうだ」

「彼は正室の子ではなかった?」

「戸籍上は夫婦の実子になってる。子供が出来ない正室の猶子ゆうしにしたらしい」 

「その後に二人も息子が生まれたわけですね?それで捨て駒にした。武さまはお怒りになられたでしょう?」 

「かなりな」 

 武の怒りと嘆きを耳にした護院夫妻が、恩に報いる為と隠居の慰めにと身元引受を名乗り出たのだ。護院家は清方の実弟の憲方のりかたが相続した。清方は護院家の席に入る時、財産や家督の相続権を放棄する書類を自ら出した。血の繋がった兄弟と無益な争いをしたくなかったからだ。十分に生活をする経済力はある。朔耶も養子に入っても、恐らくは同じ事をすると思えた。 

「兎に角、彼が元気になってくれるのが一番です」 

 笑顔で言った行長の顔を、周はまじまじと見詰めた。 

「何か?」 

「いや…しっかりと教師の顔だな」 

「当然です。これでも良き教師になれるように、日々精進してますから」 

「ふ…そういうところは相変わらずだな?よく武さまをやり込めてたっけな?」 

「あの方はそうでもしないと、自分の中に籠もって浮き上がって来られませんでしたから」 

 行長は周に答えながら、二人分のダージリンを入れた。夕麿の信奉者である行長は完全に紅茶党だ。周は紅茶を苦笑しながら飲んだ。 

 武が在校していた頃の話に興じていると、三日月が執行部を引き連れて入って来た。 

「周先生」 

 三日月は真っ直ぐにやって来た。 

「この度はありがとうございました。兄は如何でしょう?」 

「順調に回復している。来月中には戻って来れるだろう」 

 口では心配をしているが、三日月は奇妙なくらいに冷静だった。どうも彼は朔耶が異腹だと本当は知っている様子だ。だが問い詰めたり非難しても朔耶の立場が変わる訳ではない。 

 そう考えていると視線を感じた。視線を巡らせると月耶に隠れるようにして薫がいた。頬を膨らませて睨んでいる。子供っぽい愛らしさに周は吹き出しそうになった。 

「薫さま、検診に参りました」 

 笑いをかみ殺して言うと一層膨れて横を向く。 

「三日月君、執務室を借りる」 

「どうぞ」 

 先に執務室のドアを開けると、膨れっ面のままの薫がついて来た。苦笑しながら薫をカウチに座らせた。カウチそのものは買い換えられているが、この部屋にソファでなく代々これがある。置いたのは誰が最初だったのか知らない。下級生を引っ張り込んでいた頃をふと思い出してしまう。夕麿に見られて余計に拍車がかかった。浅はかだったと思う。夕麿に本格的に嫌われたのはあれ以来だった。 

「失礼いたします」 

「ヤダ…失礼されてあげません」 

「はあ?」 

 薫はカウチに座って両手を背後にまわして隠した。 

「メールしてもお返事くださらないし、来ても三日月と話して私の事忘れてるし…だからヤダ」 

「あの…薫さま?」 

 どちらかというといつもは、おとなしく周の言う事をきく。これは一体どうなっているのだろう? 

「周先生、ここ、座って」 

 薫は自分の横を指差した。 

「薫さま、先に診察を」 

「ヤダ」 

「あの…何かあったのですか?」 

「別に」 

 反抗的な態度は清方と雫の入れ知恵だった。周に構って欲しいならば、おとなしく言う事をきいていてはいけない。困らせて甘えてみれば良い。あの二人は悪戯心半分で薫にそう教えたのだ。そうしなければ朔耶に周をとられてしまうと。 薫の心に周への『想い』の揺らぎが芽生えはじめていた。小さくてまだ恋とは呼べない。二人は薫の無垢な心に賭けてみようと考えたのだ。少しでもいいから頑なになった周の心を揺す振ってみたいのだ。 

 もちろん、周はそんな二人の心配と思惑は知らないままだ。 

「薫さま、困ります」 

「もっと困ったら良いよ」 

 取り付く島もない。周はここは折れるしかないと思った。 

「わかりました。ではこういたしませんか?先に診察をさせてください。そのあとは三日月君に言って先に寮へ。夕餉をご一緒させていただきます」 

「それだけじゃヤダ」 

「薫さま……」 

 相手は皇家の貴種。基本的には逆らうという考えはない。周は戸惑ってしまった。 

「では如何いたせば、お気に召していただけますか?」 

「周先生とお話がしたいです。今日は帰らないでください」 

「…………………え?」 

 言われた意味がとっさには理解出来ない。 

「だ・か・ら!今夜私の部屋に泊まってください。周先生とお話がしたいんです」 

 噛んで含めるように言われた内容に周は思わず後退あとづさった。 

「周先生とお話がしたいんです」 

 さらに畳み込むように一度言われる。その瞳はキラキラしていた。どうやら純粋に話がしたいらしい。別の意味に聞こえて背中にドッと汗をかいてしまった。薫に手を出したら間違いなく武と夕麿に殺される。怒りに染まった武の顔と夕麿の軽蔑の眼差しが、見えた気がして周は思わず頭を振った。そもそも周にそのような感情はない。 

「お部屋にはちょっと…おしずまりになられるまで、お側にはおりますから…そればっかりはお許しを」 

 事実がなくても泊まったら叱られそうな気がする。隣室に泊まらせてもらえばまだ言い訳は立つ。 

「ダメ」 

「薫さま…そのような事は、みだりにお口になされてはなりません。それは………本当に想われる方にこそ、仰られるべきお言葉でございます」 

 薫の無垢な無邪気さが、周には余りにも哀しかった。 

「私は、周先生が良い!」 

「薫さま!」 

 抱き付いて来た小柄な身体を、周は思わず引き剥がした。 

「どうして…?」 

 薫のやや大きい瞳に、みるみるうちに涙が浮かんだ。 

「あなたはまだご自分がお口になされているお言葉の、本当の意味がおわかりになってはいらっしゃらないのです」 

 周は薫の涙を拭いながら、ゆっくりとした口調で告げた。薫は何も知らない。あなたにはもっと相応しい相手がいる、と。彼はただ年齢の離れた周に甘えたいだけだ。第一、10歳以上年齢が離れた自分に、高校生である彼がそれ以外の何の魅力を感じるというのか? 

「さあ、診察をいたします。まず、お手を」 

 周が差し出した手を薫は涙目で睨み付けた。 

「薫さま、僕を困らせないでください」 

 戸惑って嘆願するようになおも手を出す。すると薫はカウチから立ち上がった。 

「薫さま、お願いでございます」 

「知らない…周先生なんか…嫌い…」 

 涙をポロポロと零しながら言うと、薫は踵を返して執務室を飛び出した。 

「薫さま!」 

 慌てて執務室を出た周を生徒会室にいた全員が見た。責めているような眼差しに周は立ち竦んだ。余りにも不利な状況だった。朔耶が周の紫霄在校時代の情報を得ていた。それはつまり、生徒会執行部全員が知っていてもおかしくはない…という事だ。既に過去の事であり、武が在校していた頃にはもうそんな悪癖からは卒業してはいた。 

 行長が歩み寄った。 

「診察は?」 

 その問い掛けに首を振って答えた。 

「薫さまは先輩が来られたら、部屋に泊まってもらうと盛んに仰っていらっしゃいましたが?」 

 彼の助け舟に周はコクコクと頷いた。 

「…そういう事は本当に好きになられた方に、とお答えしたら泣いて飛び出された…」 

 視線を床に落として呟く。 

「特別室にお一人きりでいらっしゃる寂しさは…武さまの時で十分にはわかっている。だがけじめはつけるべきだろう…?」 

 これでは言い訳をしているようなものだ。 

「すまない、下河辺。僕は…今日はこれで…帰る。その…薫さまにはお詫びを伝えて欲しい」 

 言葉が上手く紡げなくて、中途半端な内容になっていた。 

「わかりました」 

「お願いする…」 

 周はそう呟いて生徒会室を後にした。 

 重苦しい気分のままでエントランスからロータリーを抜けて、関係者用の駐車場に足を向ける。自分の車に乗り込んでシートに身を投げ出した。苛立ちが湧いて来る。もっと言い様があったのではないかと。薫に悪意はなく、ただ真っ直ぐに甘えて来ただけなのに、狼狽して拒絶しか出来なかった。きちんと説明して納得させる努力を怠った。薫の純粋な心を傷付けてしまった。戸惑いと混乱と後悔が周の気持ちを常になく乱していた。 

 周は半ば自棄な気分でエンジンをかけ、車を発進させた。夜遅く周はタクシーで御園生邸に帰宅した。文月が肩を貸して部屋へ連れて行くほど、周は酔っ払っていた。


 その後、周はしばらく紫霄に足を向けなかった。研修が重なった所為もある。薫と顔を合わすのが不安で逃げているのも事実だった。わざと保の助言に従って、大学病院などの手術に参加させてもらったり、見学に出向いたりしていた。薫の検診は清方に代理を頼んでいた。周が医師として成長するのに大切な時期であるのは事実だった。清方はそれを理解してわざわざ武に、しばらく周が研修に専念出来るようにと話して了承を取って来た。その清方の好意に甘えて逃げた。 

 清方と雫にしてもけしかけた手前、周のわがままだとは言えない。久我家は蓬莱皇国の清華貴族としては上位に位置している。夕麿のように皇家の流れではないが、薫の伴侶としての資格は十分だった。けれども周は武との関わりもあって、皇家に対する忠義心はかなり強い。



 このままではいけないのは、十分過ぎる程わかっている。 

 周は迷い悩み続けていた。けれど何をどうすれば良いのかわからない。薫に謝罪すべきなのだろうか? それとも毅然としているべきであろうか? 清方にも相談し難く、答えの出せない事態から逃げたくて、研修と勉学、医師としての職務に没頭する。 だが御園生邸に帰ってひとりになると、逃げ出していた事実が目の前に突き出されたようになる。連日アルコールに逃げる訳にもいかず、最近では弱い睡眠薬を服用して眠る。効き目が薄くなかなか眠くならなかったり、3~4時間で目が覚めてしまう事がある。食事も思うように喉を通らない。医者の不養生とはよく言ったものだ。 

 もっとも御園生邸に住む人々は、周が最近は朝食しか摂らないのでまだこの事態には気付いていなかった。余り顔色が良くないのを気にはかけていたが、多忙で疲れているのだろうと思っていた。 

 何度となく薫から着信があったが、周は一度も出なかった。メールが来ても読まずに削除した。今は薫に関わりたくはなかったのだ。無責任だと心のどこかが叫んでいる。わかっていると自らの声を拒絶する。自分で自分がわからない。何に衝撃を受け、何をこんなに恐れているのか。 

 だがいつまでも逃げ回ってはいられなくなった。退院して護院夫妻の所で療養していた朔耶が、学院に復帰する事になった。まだまだ無理が利かない状態で寮生活に戻る。当然ながら周もしばらく寮に泊まり込む事になった。 

 6月1日の夕方。寮に戻る朔耶を高子のもとに迎えに行き、そのまま護院家の車で紫霄に向かった。朔耶と共に特待生寮に入った。特待生はまだ授業中で寮の中は静まり返っている。 かつて周も住んでいた白鳳会の会長用の部屋へと向かう。 

 朔耶にはすぐに着替えてベッドに入るように命じて、周は懐かしい部屋を見回した。 

「周先生もこの部屋におられたんですよね?」 

「内部進学したから一年まるまるいた。白鳳会の会長でここに住まなかったのは、武さまと夕麿だけだろう」 

「お二方は特別室ですものね」 

「それだけじゃない。夕麿の前任者、つまり僕の後任が…別荘で心中した。その追悼もあってしばらく空室にしてあったんだ」 

「薔薇の碑のお二方ですね」 

「ああ………お茶を淹れよう」 

 周はそう言って立ち上がると、キッチンへ行ってしまった。 

 朔耶はその後ろ姿をじっと見詰めていた。違和感があった。 余り良くない顔色で無理に笑う。以前のような大人の落ち着きのようなものを、今の周はどこかに置き忘れて来たみたいだった。けれどそんな周を可愛いと感じてしまう。彼は10歳以上も年上の大人なのに時折、少年のような不安げな顔をする。 

 在校中は様々な醜聞を振り撒いた彼が、従弟を一途に想い続けていた。単なる噂程度のものを潔く認めたのにも驚いた。過去の事だと寂しく笑う姿が朔耶の胸を貫いた。周がひとりで懸命に立っていると感じたからだ。朔耶の孤独な心と共鳴する部分があった。気が付けば淡い恋心へと変化していた。春の光に息吹始めた浅黄色の新芽のように。 

 朔耶はずっと諦めの中で生きて来た。両親は口にはしないが自分はこのまま、薫の側に居続けなければならないのだと。先天的に心臓に欠陥を抱えて、長く生きられはしないならそれでも構わないと思っていた。定められた自分の人生だと思っていた。 

 だが武が現れて薫の運命を変えようとしている。そして薫の主治医として派遣された周が朔耶の病に気が付いた。 

 手術さえすれば完治すると言って全ての手配をしてくれた。自分を大切にしてくれる家族とも出会った。周が未来をくれた。幸せだと思う。だからこそ周の孤独が哀しかった。彼は何も求めずに生きているような気がした。全てを紫霞宮家に捧げ尽くして、孤独の中で生きて行く事が自分の宿命だと。医師として懸命な姿を見れば見る程、朔耶はその背中を抱き締めたくなった。無理は止めて欲しい、周の人生を取り戻して欲しいと願った。けれども周はどこまでも医師だった。そして………朔耶は患者だった。

 ベッドに腰掛けて周が淹れた紅茶を飲む。ベッドサイドテーブルには、スコーンをのせた皿が置いてある。キッチンのオーブンで温められたそれは、添えられたオレンジマーマレードと共に甘い香りを放っていた。

「スコーン?」

「焼いて時間が過ぎてるから、オーブンで水分を飛ばした。焼きたてと同じくらいにはなってる筈だ」

「あの…これ、先生が?」

「まあな。御園生邸のキッチンを借りて焼いたんだが、武さまに見つかってな…」

 周が苦笑する。

「見つかったらダメなのですか?」

「夕麿が好物なんだ。それで山ほど作らされた」

 げっそりと肩を落とす周に朔耶は吹き出した。

「笑うな」

「どうりで先生から甘い匂いがする筈です。ふふふ…あははは…」

 笑い転げる朔耶を、周は忌々しげに睨んだ。

「なる程。下河辺先生が仰ってたのは、こういうのが理由ですか?」

「?」

「昔、武さまが周先生にお嫁に行けと仰られたとか」

「……………下河辺め、余計な事を」

 少し頬を染めて吐き捨てる。10歳以上年上なのにそんな仕草が可愛い。

「私がお嫁さんにいただこうかな?」

「なっ…バカを言うな!」

 いきなり直球の言葉を投げかけられて周が狼狽する姿さえ、朔耶には堪らなく心が動いた。指を伸ばしてほんのりと色付いた頬に触れた。

「からかってなんかいませんから。私は本気で言ってるんです、周先生。あなたが好きです。今すぐにでもあなたを抱き締めたい」




 久し振りの全日休暇に、雫はリビングでゆったりと座っていた。そこへ清方がコーヒーとスコーンを運んで来た。

「スコーン?」

「周が持って来たんです。先程、朔耶君を迎えに来たついでに」

「ふうん」

「なあ、清方。薫さまと朔耶君、二人を周にけしかけて何を企んでる?」

「周もそろそろ新しい恋をするべきです」

「だからって二人をけしかけるのはやり過ぎじゃないか?」

「それくらいの刺激がないと彼は、自分の事に目を向けなくなってしまっています。あれではまるで殉教者です。生きているのに死んでいるようなもの」 

 保からの話もあって清方は周のこれからを心配していた。 

「お前…周があんな状態なのを、自分の責任だと思っているだろう?」 

「それは事実でしょう、雫? 私は彼に不安や苦悩を、快楽で紛らわせる事を教えてしまいました」 

 その罪だけは免れない。優しさ故に両親の不仲に泣いていた周を、自分の孤独を埋める道具にした事実は消えはしない。 

「あれは薫さまの為でもあります。彼は何もわからない状態になるように、わざと育てられたと思えるのです。周に対する気持ちも肉親を思慕する感情と同じものでしょう」

 薫の幼さは作為的なものだ。武のように伴侶を得て、紫霄から解放されるのを警戒した人物がいたという事だ。早急に伴侶を持たせなければ、彼の生命が脅かされる可能性があった。

 だからといって適当な相手を添わせるわけにはいかない。武と夕麿が危機を乗り越えられたのは、すれ違いながらも互いを想う強い愛情があったからだ。庇護の気持ちだけでは、到底乗り越えてはいけないと清方は考えていた。

 誰かを自分の巻き添えにしない。

 武のその強い意思が結局、彼に忠義を尽くす自分たちを団結させた。自分の身を危険にさらしても、武は夕麿だけでなく皆を守ろとしたのだ。

 身分の高い者は自分を守る事を一番に教えられる。夕麿はそれを武に教えようとしたが、彼は最終的にそれを拒否した。普段の生活では守られる事を受け入れている。

 では薫はどうだろうか。薫は自分の身を守る事も誰かを守る事も恐らくは出来ない。彼は堅い器の中の柔らかい豆腐のような状態だ。 

 堅い器は御影兄弟。ある程度の守りは効くが肝心の中身である薫は、自らの心の成長が出来ないままになっている。御影兄弟が全員卒業したら、薫は精神的にも身体的にも完全に無防備になってしまう。赤子の手を捻るより簡単に生命を奪えるだろう。 

 薫は学ばなければならない。痛みや悲しみ、愛情に付随するそれらを。わからなければ本当に愛する人を大切に想う心は育たない。人間はいつまでも揺り籠の中では生きてはいけないのだ。 

 周がどちらに応えても薫の心に一石を投じる。薫が周を得られれば朔耶が傷付く。誰かを傷付けても愛しい人を求める気持ちを知る事になる。朔耶が周を得れば薫が傷付く。身分と欲するだけでは、欲しいものが全て手に入らない。特に人の心は思うままにはならないというのを理解する事は重要なのだ、人間として。 

「だがな、清方。周が薫さまを選んだ場合、朔耶はどうなる?」 

「大丈夫です。朔耶君には新しい家族がいます。あなたも私もいます」 

 全員で支えてやれば良い。 

「問題は薫さまが失恋した時、誰が支えるか…何です」 

 清方が頭を雫の肩に乗せた。 

「それ…何だがな…」 

「何ですか?」 

「久留島の様子がちょっと気になる」 

「久留島君が、どう気になるんです?」 

「俺は奴が薫さまにそういう感情を持ち始めているんじゃないかと…」 

 久留島 成美は貴之に幾分似た性格をしていた。義理固く、彼も武に忠義の心を抱いて警察キャリアを志願した一人だった。武の代に貴之の後任の風紀委員長として、高等部からも信任が厚かった。 

 現在、武の強い願いに応えて彼は、薫にぴったりと寄り添って、警護に24時間体制で就いている。週に2日程交代して休みをとってはいるが、彼はほとんどが薫と一緒の生活なのだ。その彼が警護対象である薫に、庇護の気持ちから変化した愛情を抱いたとしても不思議ではない。 

「なる程。 彼には周のような不安定さは見えませんね。良いかもしれません」 

「………ふうん」 

「何です、雫」 

「お前…周がどっちを選ぶのか、見当がついているみたいだな?」 

「周の性格は知り尽くしていますから」 

 清方はそう言って傍らの愛しい男に嫣然えんぜんと笑いかけた。 




 気が付くと周はベッドに組み敷かれていた。 

「朔耶…やめろ…傷に障る…」 

「こんな時まで医者なんですね、あなたは。大丈夫です。慈園院先生に昨日、確認してみたんです。好きな人を抱きたいけれとまだ無理かどうかを。苦笑しながら大丈夫だと言っていただきました」

 欲望に瞳を輝かせながらも、朔耶の言葉はどこまでも冷静だった。

「あなたに付き添って欲しいと言ったのは、卒業まで待てなかったからです。そんな事をしたらあなたを薫の君に奪われてしまう」

「僕は…薫さまには…相応しくない…」

「でしたら、私のものになってください、周先生」

 キッチンに立つのに上着は脱いでいた。ネクタイを引き抜かれて両手を戒められる。

「何をする!解け、朔耶!」

「逃げないと約束してくださるならば」

「逃げるに決まっているだろう!?こんな…こんなのはダメだ…」

「どんなのだったら良いと言ってくださるんです?」 

 朔耶の指は周のシャツのボタンを素早く外していく。 

「こんなの…僕は…清方さんと…高子さまに…言い訳が立たない…」 

 どうやっても周が高校生をそそのかしたとしか見られない。朔耶は護院家の養子になるのだ。それが自分と…など許される筈がない。抵抗する以外に何が出来ると言うのか? 

 周は不仲だった両親の喧嘩を見て育った。故に彼は目上の眼差しに臆病な部分がある。特に恩がある人々に迷惑をかけたくないのだ。それがある意味で周を足踏み状態へと追い込んでいた。恋に対する臆病さと相俟って、周はもう自分の感情すらわからない。 

「朔耶…朔耶…ダメだ…やめろ…やめてくれ…」 

 抗おうにも周は朔耶の身体を傷付けたくない。中途半端な抵抗は抵抗にはなってはいなかった。 



 次の日の早朝、学院を辞した周はどこかへと姿を消し、数日後、全てから身を引くという内容の手紙が、武の手元に届いた。

 
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