【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 仕掛けが効いたのは、二日目の午後だった。

 小口台帳の束の「真ん中」に挟んでおいた目印のカナリア紙(No.038)が、なぜか「一番うしろ」の伝票の下に移っている。外からは見えない位置だったはずだ。

(中で、誰かが触った)

 ジャンヌはまず自席の引き出しを開け、昨夜差し込んだ封印紙を確認。――無傷。隣席の封印も無傷だった。

(……ということは、動かされたのは“机の外”。共用棚に出ていた時間帯だわ)

 ジャンヌが静かにケイシーに報せる。
「……カナリア紙が、後ろにずれていました」

 ケイシーはすぐ束を受け取り、ライリーは壁の板に「時刻と関係者」を書き出す。受け渡し簿と立会簿を照合して、時間帯が二つに絞られた。

「この束に触ったのは――
午前十時二十五分、入庫照合の立会二名と、十一時五十七分、昼前の回覧の当番ね」

 マイルズが外部商人の控えと照合して眉を上げる。
「十一時台の回覧に去年の様式が一枚混じってる。誰が持ち込んだんだ?」

 オーベルが前に出た。簡易監査の準備は、もう出来ていた。

「番号付きの紙は嘘をつかない。――立会簿、回覧名簿、受け渡し簿。三つを揃えて確認しよう」

 帳場の空気がぴん、と張る。
 オーベルは落ち着いた声で三冊を捲り、指でたどった線を立会人たちに確認させた。

 回覧当番の欄で、ふたりの同期が固まった。
「……あの…回覧、私は
受け取っていません」
「受け取ったのは、当番の人のはずで……」

 ケイシーが指差す。
「その“当番の机”の封印紙は?」

 皆の視線が向く。机の前板に差してあった薄紙――端の小さな印が裂けている。

 ライリーが淡々と補足する。
「封印紙は破れている。目印のカナリア紙は位置が変わっている。そこへ去年の様式が紛れた。……偶然でこうは揃わない」

 オーベルは短く息を吐いた。
「意図的な手順逸脱と判断する。サラ、リータ、両名は地方商会へ異動・減給処分とする。詳細は別途通達する――以後、封印紙と立会い規程を厳守すること」

 ざわ、と小さな波が走り、すぐ収まる。  
 同期二人は青ざめて頭を垂れ、背後で誰かがそっと視線を外した。

 ジャンヌは深く一礼した。数日続いた“おかしなズレ”が、ようやく止まる――その事実に安堵する。

「もう大丈夫だ。ここで止められた」
 ライリーだった。見上げると、彼はもう次の束を片手に持っている。

 掛けられた言葉は短いのに、確かな温度だけが残った。ジャンヌの胸の奥の灯が、またひとつ息をしていた。


***


 同じ頃――。

 トーマスは、久しぶりに自分の部屋へ戻っていた。

(いつぶりだ……?)

 ハルディと付き合い始めてからというもの、寝起きのほとんどを彼女の部屋で過ごし、ここへは着替えと日用品を取りに立ち寄るだけになっていた。

 扉を閉めると、乾いた木の匂いと、石鹸の残り香が胸の奥まで静かに満ちる。

 整えられた机、畳まれた衣類、壁に掛けたままの上衣――物の少ない簡素な空間が、体の深いところをいっぺんで沈めてくれた。

(やっぱり、ここが落ち着くな)

 台所の小さな卓に目をやると、一枚の紙が置いてあるのに気づく。見覚えのある、端正な筆致。

【トーマスへ 会いたい。 ジャンヌ】

 胸がどくりと跳ねた。息が一拍、うまくつながらない。日付を確かめ、すぐに肩の力が抜ける。彼女が会社に来た前日のものだった。

(……前か)

 ほんの小さな落胆が、思いがけず重く沈んだ。首を振って気持ちを立て直す。

(今日は荷を運びに来たんだ)

 ハルディの部屋で暮らし始めるため、少しずつ持ち物を移す――そのつもりで帰ってきたのだ。

 紐のついた袋を広げ、シャツを数枚、手拭い、図面用の道具を少し。詰めながら、ふと手が止まる。

 寝室の扉を開ける。きちんと伸ばされたシーツに身を投げると、わずかな石鹸の匂いが鼻先をくすぐった。天井を見上げ、長く息を吐く。

(少し、休みたい……)

 ここには、ハルディと一緒では得がたい静けさがあった。

 彼女は美しく、よく笑い、夜は激しいほど情熱的だ。社の男たちの視線を集める彼女が、自分を選んだ。

 ――その高揚に浮かされるように走り出し、身体を求め合った。

 最初のうちは、それで何もかも満たされる気がしていた。

 けれど、いつからか、目覚めの重さが抜けなくなった。
 図面に向かっても線がまっすぐ引けず、必要な勉強を「明日」で押し流す日が続く。

 気づけば、同期の背中が少し遠くなっている。上司や先輩からの期待の声もほとんど掛けられなくなっていた。


(ジャンヌといたときは、こんなふうじゃなかった)

 同じ部屋にいても、お互いに干渉せずに過ごす時間があった。

 自分は書き写しや製図の練習をし、ジャンヌは静かに本を読む。

 湯の沸く音、布巾を絞る音、ページを繰る微かな気配。

 何でもないその音の積み重ねが、どれほど自分を休ませていたのか、今さら思い知る。

 ハルディの部屋は賑やかだ。
 散らかってはいないが、物が多く、いろいろな装飾、鮮やかな色が視界の端で揺れ続け、気持ちが休まらない。

 食事は外で済ませるか、出来合いの皿を並べることが多く、テーブルの隅に香水瓶が新しく増えるたび、どこかで落ち着きが削れていくのを感じる。

(一人の時間が、少しほしい)

 
 視線を落とすと、卓の端のメモがまた目に入る。【会いたい】の文字。指先が知らず、紙の縁をなぞっていた。

(……俺は、今、何をしている)

 ハルディは、二人の暮らしに向けて楽しそうに、家具選びやこれからのことを語っている。
 自分は、その傍らで曖昧に頷き、夜になれば彼女に求められるまま、熱に身を投げている。彼女を抱きしめて眠り、朝は鈍く重い頭を抱えて起き上がる。

 机の上に、未完成の演習図。角の欠けた定規。後回しにした練習問題の束。

 ここでなら、今からでも線が引ける――そう思えるのに、体は動かない。

 天井の節目をぼんやり追いながら、トーマスは目を閉じた。

 まぶたの裏に、湯気の立つ鍋と、紺色の細いリボンが、なぜだか同時に浮かぶ。心のどこかで、言葉にならないものが芽の先をのぞかせる。

 後悔、という文字がよぎる。いや、後悔なんてしていない筈だ。そう思いたかった。

 眠気が、ゆっくりと全身を撫でていく。ハルディの部屋では得られない眠りが、静かに降りてきた。最後にもう一度だけ、卓の紙へ視線を落とし、

(……ジャンヌ)

 名前を心の中で呼んで、彼は浅い眠りへ沈んだ。胸の奥で、小さな芽がひそやかにほころび、息をした。
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