【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 その夜、トーマスは決めていた。

――しばらくは自分の部屋で寝起きしよう、と。

 ハルディの部屋から荷物を取りに来ただけのつもりだったが、ここで腰を落ち着けるうちに、胸の内でさまざまな思いが巡り始めていた。

 表向きの理由は簡単だ。上司から急ぎの設計を任され、提出期限も迫っている。図面机に張りつく時間が要る――そう言えば、ハルディも咎められない筈だ。

(本当は……ブレーキをかけたいだけだ)

 ハルディの部屋から戻る途中、何度もその言葉が胸の裏でこすれた。

 熱に浮かされたみたいに始まった交際は、勢いのまま同棲の話まで転がっていった。

 部屋の更新の紙に並ぶ二つの署名欄。
 あのまま流されれば、次に出てくるのは「結婚」という二文字だ。

 そこまで思い描いたとき、未来の生活がどうしても形を取らなかった。 

 朝、どんな匂いで目覚め、どんな静けさの中で食器が鳴り、どんなふうに一日が閉じていくのか――ハルディと結び直すたびに、その輪郭がむしろぼやける。

 扉を閉め、灯をともす。
 乾いた木の匂いがゆっくり肺の奥へ沈む。机は片づいている。T字定規、コンパス、分度器、薄く磨いた三角定規。ジャンヌが揃えてくれたままの配置で、指先に触れる場所に収まっている。

(ー慎重にならなきゃ、と思うのは悪いことじゃない)

 ハルディには「図面に集中したい」と伝えた。彼女は唇を尖らせた。

「うちでやれば良いんじゃない?」
「道具が自分の部屋に置いてあるし、提出期限が近いんだ」
「そう……わかったわ。終わったら真っ先に帰って来てね?」
 わざと見せた不機嫌はすぐに笑顔へ戻した。

『帰ってきてね』

 その一言が、首筋のどこかを冷やした。


 椅子に腰を落とし、紙を広げる。線を引く前に、ふと、いつかの景色が胸の内をよぎった。

 ――雨上がりの夕暮れ。
 濡れた上衣を戸口で脱ぐと、ジャンヌが黙って竈に火を入れ、窓辺に縄を渡してくれた。

 床には古い紙が敷かれ、彼女は膝をついて靴底の泥を小さな刷毛で落とす。

 綻びた袖の糸を見つけると、蜜蝋でしごいた糸を針に通し、指先だけの静かな動きで留め直す。

 自分は小刀で芯を削り、彼女は掌を器のように差し出して削り屑を受ける。

 やがて湯が鳴り、蜂蜜をひとさじ溶かした湯飲みが、何も言わずに手元へ押しやられた。

 あの夜、言葉は少なかったのに、部屋は不思議に満ちていた。
 翌朝、縄には乾いた上衣、机には揃え直された定規と鉛筆。気づけば、すべてが “次の線” を引けるように整っていた。

(ああ……結婚生活って、本来はああいう感じなんだろうな)

 そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。そこに彼女の名を置いた自分に気づき、我に返る。

(……ジャンヌは、もう来ない)

 会社の受付で、彼女に向けて吐き出した言葉が蘇る。

『見てわからないか? 恋人ができたんだ』

『もう俺の部屋には来ないでくれ。今までありがとうな』

 眉間を押さえた。あれは――酷い言葉だった。ハルディに誤解されたくない一心で、何も考えずに発してしまった。発した後も大して気にしてもいなかった。

 台所の小卓に、まだ残してあった小さな紙片が目に入る。

【トーマスへ 会いたい。 ジャンヌ】

 日付は、あの日の前日。
 胸がひとつ脈打つ。指先が勝手に端をなぞる。

(謝りたい……)

 今の気持ちが口の中で言葉になった。

 薄い灯が揺れ、壁が近づく。
 せめて、幼馴染の関係に戻れないだろうか――そう思うのは身勝手だ、とすぐにもう一人の自分が言う。自分が切った縁を、自分の都合で結び直そうとしているだけじゃないか、と。

(それでも……)

 ペンを取り、白紙に「ごめん」と書いてみる。

 あまりに軽く見えて破り捨てる。もう一枚。「あの時の言い方は……」

――違う。言い訳にしかならない。

丸めて、また投げる。丸い紙の影が机に増えるたび、後悔という言葉の芽が、静かに確実に大きく育っていた。

 ハルディの笑顔が脳裏をよぎる。愛らしい顔、気まぐれな仕草、柔らかな肌。夜の激しさ。彼女のことは確かに好きだ。
 だが、その“好き”だけでは埋まらない何かがある――と、ようやく自覚しはじめていた。

 ハルディが悪いわけじゃない。
 彼女は彼女で、真っ直ぐだ。それでも、今の自分は息を継げていない。その事実だけは否定できなかった。

(まず、図面を上げよう。仕上げたら……)

 そこまで考えて、窓を少し開ける。
 夜気が紙の端を震わせ、蝋燭の炎が細くなる。深く息を吸い込み、吐く。

(ジャンヌに謝ろう。言葉を選んで、きちんと。戻れなくても、伝える)

 決心は、まだ心許ない。
 けれど、線の起点に鉛筆を置けるくらいには固い。トーマスはT字定規を寄せ、ようやく一本、まっすぐな線を引いた。

 紙の上に現れた細い道は、さっきまでよりも静かに、先へ伸びている。

「……悪かった、ジャンヌ」

 小さく呟いてから、彼はもう一度ペン先を整えた。夜は長い。図面は待っている。胸の奥の痛みは消えないが、痛みの形がようやく見え始めている――そんな手応えが、机の木目より確かにそこにあった。
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