42 / 74
42
しおりを挟む
その夜、トーマスは決めていた。
――しばらくは自分の部屋で寝起きしよう、と。
ハルディの部屋から荷物を取りに来ただけのつもりだったが、ここで腰を落ち着けるうちに、胸の内でさまざまな思いが巡り始めていた。
表向きの理由は簡単だ。上司から急ぎの設計を任され、提出期限も迫っている。図面机に張りつく時間が要る――そう言えば、ハルディも咎められない筈だ。
(本当は……ブレーキをかけたいだけだ)
ハルディの部屋から戻る途中、何度もその言葉が胸の裏でこすれた。
熱に浮かされたみたいに始まった交際は、勢いのまま同棲の話まで転がっていった。
部屋の更新の紙に並ぶ二つの署名欄。
あのまま流されれば、次に出てくるのは「結婚」という二文字だ。
そこまで思い描いたとき、未来の生活がどうしても形を取らなかった。
朝、どんな匂いで目覚め、どんな静けさの中で食器が鳴り、どんなふうに一日が閉じていくのか――ハルディと結び直すたびに、その輪郭がむしろぼやける。
扉を閉め、灯をともす。
乾いた木の匂いがゆっくり肺の奥へ沈む。机は片づいている。T字定規、コンパス、分度器、薄く磨いた三角定規。ジャンヌが揃えてくれたままの配置で、指先に触れる場所に収まっている。
(ー慎重にならなきゃ、と思うのは悪いことじゃない)
ハルディには「図面に集中したい」と伝えた。彼女は唇を尖らせた。
「うちでやれば良いんじゃない?」
「道具が自分の部屋に置いてあるし、提出期限が近いんだ」
「そう……わかったわ。終わったら真っ先に帰って来てね?」
わざと見せた不機嫌はすぐに笑顔へ戻した。
『帰ってきてね』
その一言が、首筋のどこかを冷やした。
椅子に腰を落とし、紙を広げる。線を引く前に、ふと、いつかの景色が胸の内をよぎった。
――雨上がりの夕暮れ。
濡れた上衣を戸口で脱ぐと、ジャンヌが黙って竈に火を入れ、窓辺に縄を渡してくれた。
床には古い紙が敷かれ、彼女は膝をついて靴底の泥を小さな刷毛で落とす。
綻びた袖の糸を見つけると、蜜蝋でしごいた糸を針に通し、指先だけの静かな動きで留め直す。
自分は小刀で芯を削り、彼女は掌を器のように差し出して削り屑を受ける。
やがて湯が鳴り、蜂蜜をひとさじ溶かした湯飲みが、何も言わずに手元へ押しやられた。
あの夜、言葉は少なかったのに、部屋は不思議に満ちていた。
翌朝、縄には乾いた上衣、机には揃え直された定規と鉛筆。気づけば、すべてが “次の線” を引けるように整っていた。
(ああ……結婚生活って、本来はああいう感じなんだろうな)
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。そこに彼女の名を置いた自分に気づき、我に返る。
(……ジャンヌは、もう来ない)
会社の受付で、彼女に向けて吐き出した言葉が蘇る。
『見てわからないか? 恋人ができたんだ』
『もう俺の部屋には来ないでくれ。今までありがとうな』
眉間を押さえた。あれは――酷い言葉だった。ハルディに誤解されたくない一心で、何も考えずに発してしまった。発した後も大して気にしてもいなかった。
台所の小卓に、まだ残してあった小さな紙片が目に入る。
【トーマスへ 会いたい。 ジャンヌ】
日付は、あの日の前日。
胸がひとつ脈打つ。指先が勝手に端をなぞる。
(謝りたい……)
今の気持ちが口の中で言葉になった。
薄い灯が揺れ、壁が近づく。
せめて、幼馴染の関係に戻れないだろうか――そう思うのは身勝手だ、とすぐにもう一人の自分が言う。自分が切った縁を、自分の都合で結び直そうとしているだけじゃないか、と。
(それでも……)
ペンを取り、白紙に「ごめん」と書いてみる。
あまりに軽く見えて破り捨てる。もう一枚。「あの時の言い方は……」
――違う。言い訳にしかならない。
丸めて、また投げる。丸い紙の影が机に増えるたび、後悔という言葉の芽が、静かに確実に大きく育っていた。
ハルディの笑顔が脳裏をよぎる。愛らしい顔、気まぐれな仕草、柔らかな肌。夜の激しさ。彼女のことは確かに好きだ。
だが、その“好き”だけでは埋まらない何かがある――と、ようやく自覚しはじめていた。
ハルディが悪いわけじゃない。
彼女は彼女で、真っ直ぐだ。それでも、今の自分は息を継げていない。その事実だけは否定できなかった。
(まず、図面を上げよう。仕上げたら……)
そこまで考えて、窓を少し開ける。
夜気が紙の端を震わせ、蝋燭の炎が細くなる。深く息を吸い込み、吐く。
(ジャンヌに謝ろう。言葉を選んで、きちんと。戻れなくても、伝える)
決心は、まだ心許ない。
けれど、線の起点に鉛筆を置けるくらいには固い。トーマスはT字定規を寄せ、ようやく一本、まっすぐな線を引いた。
紙の上に現れた細い道は、さっきまでよりも静かに、先へ伸びている。
「……悪かった、ジャンヌ」
小さく呟いてから、彼はもう一度ペン先を整えた。夜は長い。図面は待っている。胸の奥の痛みは消えないが、痛みの形がようやく見え始めている――そんな手応えが、机の木目より確かにそこにあった。
――しばらくは自分の部屋で寝起きしよう、と。
ハルディの部屋から荷物を取りに来ただけのつもりだったが、ここで腰を落ち着けるうちに、胸の内でさまざまな思いが巡り始めていた。
表向きの理由は簡単だ。上司から急ぎの設計を任され、提出期限も迫っている。図面机に張りつく時間が要る――そう言えば、ハルディも咎められない筈だ。
(本当は……ブレーキをかけたいだけだ)
ハルディの部屋から戻る途中、何度もその言葉が胸の裏でこすれた。
熱に浮かされたみたいに始まった交際は、勢いのまま同棲の話まで転がっていった。
部屋の更新の紙に並ぶ二つの署名欄。
あのまま流されれば、次に出てくるのは「結婚」という二文字だ。
そこまで思い描いたとき、未来の生活がどうしても形を取らなかった。
朝、どんな匂いで目覚め、どんな静けさの中で食器が鳴り、どんなふうに一日が閉じていくのか――ハルディと結び直すたびに、その輪郭がむしろぼやける。
扉を閉め、灯をともす。
乾いた木の匂いがゆっくり肺の奥へ沈む。机は片づいている。T字定規、コンパス、分度器、薄く磨いた三角定規。ジャンヌが揃えてくれたままの配置で、指先に触れる場所に収まっている。
(ー慎重にならなきゃ、と思うのは悪いことじゃない)
ハルディには「図面に集中したい」と伝えた。彼女は唇を尖らせた。
「うちでやれば良いんじゃない?」
「道具が自分の部屋に置いてあるし、提出期限が近いんだ」
「そう……わかったわ。終わったら真っ先に帰って来てね?」
わざと見せた不機嫌はすぐに笑顔へ戻した。
『帰ってきてね』
その一言が、首筋のどこかを冷やした。
椅子に腰を落とし、紙を広げる。線を引く前に、ふと、いつかの景色が胸の内をよぎった。
――雨上がりの夕暮れ。
濡れた上衣を戸口で脱ぐと、ジャンヌが黙って竈に火を入れ、窓辺に縄を渡してくれた。
床には古い紙が敷かれ、彼女は膝をついて靴底の泥を小さな刷毛で落とす。
綻びた袖の糸を見つけると、蜜蝋でしごいた糸を針に通し、指先だけの静かな動きで留め直す。
自分は小刀で芯を削り、彼女は掌を器のように差し出して削り屑を受ける。
やがて湯が鳴り、蜂蜜をひとさじ溶かした湯飲みが、何も言わずに手元へ押しやられた。
あの夜、言葉は少なかったのに、部屋は不思議に満ちていた。
翌朝、縄には乾いた上衣、机には揃え直された定規と鉛筆。気づけば、すべてが “次の線” を引けるように整っていた。
(ああ……結婚生活って、本来はああいう感じなんだろうな)
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。そこに彼女の名を置いた自分に気づき、我に返る。
(……ジャンヌは、もう来ない)
会社の受付で、彼女に向けて吐き出した言葉が蘇る。
『見てわからないか? 恋人ができたんだ』
『もう俺の部屋には来ないでくれ。今までありがとうな』
眉間を押さえた。あれは――酷い言葉だった。ハルディに誤解されたくない一心で、何も考えずに発してしまった。発した後も大して気にしてもいなかった。
台所の小卓に、まだ残してあった小さな紙片が目に入る。
【トーマスへ 会いたい。 ジャンヌ】
日付は、あの日の前日。
胸がひとつ脈打つ。指先が勝手に端をなぞる。
(謝りたい……)
今の気持ちが口の中で言葉になった。
薄い灯が揺れ、壁が近づく。
せめて、幼馴染の関係に戻れないだろうか――そう思うのは身勝手だ、とすぐにもう一人の自分が言う。自分が切った縁を、自分の都合で結び直そうとしているだけじゃないか、と。
(それでも……)
ペンを取り、白紙に「ごめん」と書いてみる。
あまりに軽く見えて破り捨てる。もう一枚。「あの時の言い方は……」
――違う。言い訳にしかならない。
丸めて、また投げる。丸い紙の影が机に増えるたび、後悔という言葉の芽が、静かに確実に大きく育っていた。
ハルディの笑顔が脳裏をよぎる。愛らしい顔、気まぐれな仕草、柔らかな肌。夜の激しさ。彼女のことは確かに好きだ。
だが、その“好き”だけでは埋まらない何かがある――と、ようやく自覚しはじめていた。
ハルディが悪いわけじゃない。
彼女は彼女で、真っ直ぐだ。それでも、今の自分は息を継げていない。その事実だけは否定できなかった。
(まず、図面を上げよう。仕上げたら……)
そこまで考えて、窓を少し開ける。
夜気が紙の端を震わせ、蝋燭の炎が細くなる。深く息を吸い込み、吐く。
(ジャンヌに謝ろう。言葉を選んで、きちんと。戻れなくても、伝える)
決心は、まだ心許ない。
けれど、線の起点に鉛筆を置けるくらいには固い。トーマスはT字定規を寄せ、ようやく一本、まっすぐな線を引いた。
紙の上に現れた細い道は、さっきまでよりも静かに、先へ伸びている。
「……悪かった、ジャンヌ」
小さく呟いてから、彼はもう一度ペン先を整えた。夜は長い。図面は待っている。胸の奥の痛みは消えないが、痛みの形がようやく見え始めている――そんな手応えが、机の木目より確かにそこにあった。
386
あなたにおすすめの小説
あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢エリアーナには、三年間ずっと抱えてきた秘密がある。
婚約者であるヴァルフォード公爵・レオナルドへの、誰にも言えない恋心だ。
しかし彼の隣にいるのは、いつも幼馴染の伯爵令嬢・ソフィア。
儚げな笑顔と上目遣いで男性を虜にするあざとい彼女に、レオナルドも例外ではないようで——
「レオ、私のこと嫌いにならないでね?」
「……そんなことにはならない」
また始まった二人の世界。
「妹の方が可愛い」と不倫夫に捨てられた私。どうぞ借金まみれの実家ごと引き取って。私が肩代わりしていた負債、すべてお二人に引き継いでおきました
唯崎りいち
恋愛
「お前より妹の方が可愛い」
不倫した夫は私を追い出し、略奪した妹と笑った。
どうぞ、その「可愛い妹」と地獄までお幸せに。
私が肩代わりしていた実家と店の多額の借金、すべてお二人に引き継いでおきましたから。
「財布」を失った元夫と、逃げ場を失った妹。
身の丈に合わない贅沢を望んだ寄生虫たちの、惨めな末路を特等席で眺めさせていただきます。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜
クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。
生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。
母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。
そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。
それから〜18年後
約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。
アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。
いざ〜龍国へ出発した。
あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね??
確か双子だったよね?
もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜!
物語に登場する人物達の視点です。
どうぞお好きになさってください
みおな
恋愛
学園に入学して一ヶ月。
婚約者の第一王子殿下は言った。
「学園にいる間くらい自由にさせてくれないか。君が王太子妃になることは決定事項だ。だから、せめて学園に通う二年間は、僕は恋がしたい」
公爵令嬢はその綺麗な顔に冷酷な笑みを浮かべる。
「好きになさればよろしいわ」
夫が運命の番と出会いました
重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。
だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。
しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる