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休日の朝。雲は薄く、風はやわらかい。
植物園の門の前で、ライリーは少し早く着いて、木陰に立っていた。胸の奥が、昨夜からずっと静かに弾んでいる。
「お待たせしました」
白いリボンを結んだジャンヌが、小さな籠を両手に抱えて駆けてくる。淡い色のワンピースに薄手のショール。息が弾んで、頬がほんのり桜色だ。
「いや、今、来た所だよ。行こうか」
ライリーは入園札を差し出し、門番に軽く会釈する。
ふたりで並ぶ最初の一歩に、足取りが自然と揃った。
*
温室の扉を押すと、湿った緑の匂いがふわりと包む。大きな葉の雫が光り、細長い花が風に揺れる。
「ここ、すきです」
ジャンヌが小声で言う。
「草の匂いが、息づいてるみたい」
「わかる。紙の匂いも好きだが、今日はこっちが勝ちだな」
ライリーは肩の力の抜けた笑みで応じ、解説札を覗き込む。
「これは何語かな?――“白い鐘の花”?」
「たぶん、“風鈴草”の仲間です」
ジャンヌが札の図を指でなぞる。
ふいに距離が近づき、ライリーの袖にショールが触れた。心臓が、昨日の返事を思い出して少し強く打つ。
「ジャンヌ…」
「はい?」
「……手を繋いでも良いだろうか」
「……はい」
ライリーが照れたように左手を差し出した。
彼の手をゆっくりとジャンヌが握りしめた瞬間、温室の空気ごと甘くなる。ふたりは同時に照れ、同時に笑った。
蘭室では奔放な色に目を奪われ、シダの回廊では葉のうらの渦巻きに足を止める。
「模様が図面の渦に似てる」
「じゃあ、これが“うずまき図面・春”ですね」
そんな他愛ないやりとりだけで、胸の真ん中がじんわり満たされていく。
芝生の縁に木のベンチを見つけ、二人は休憩に腰掛ける。
池の水面が光を砕いて、鯉がゆっくり影を引いた。
「…お昼、よかったら」
ジャンヌが籠の布をめくる。
香ばしいパンに、卵のキッシュ、薄切りのハム、窓辺で育てたハーブのピクルス。小瓶には、淡い色の林檎のコンポート。
「……すごいな」
言葉が一度だけ立ち止まる。ライリーは一品ずつ見つめ、顔を上げた。
「嬉しい。こんなふうに“誰かのため”に詰められた昼を、久しく食べてないよ」
「拙いですが……召し上がってください」
「拙くない。君らしい」
彼はパンをちぎって、卵の層を丁寧に確かめ、それからゆっくり口へ運ぶ。目尻が、自然とほどけた。
「うまい。君は料理が上手だな」
「ありがとうございます。よかった」
安堵の息と一緒に、ジャンヌの肩が少し落ちる。
「林檎も、どうぞ。…白ワインを少しだけ」
「君の“少し”は、いつもちょうどいい」
木匙で一口すくい、目を閉じる。
温室の甘い空気と、林檎のやさしい酸味が重なって、心の中の糸がするすると解けていく。
「昨日から、夢みたいです」
ジャンヌがぽつりと言う。
「俺は現実だと確かめ続けてる。……こうして」
ライリーは、再び手を差し出し、二人の指先を重ねる。手のひらの温度が、胸の奥の鼓動と同じ速さになった。
「“さん”付けは、普段は無しで呼んでほしいな」
「……えっ」
ジャンヌは驚き、目を開いてしまう。
「ふふ、恋人同士になったんだ。ライリーと呼んでくれたら嬉しい」
柔らかな笑みを見せながらライリーは呟いた。
「……ら、ライリー…」
名前だけが風にのり、ライリーは少しだけ目を伏せた。
「ジャンヌに呼ばれると特別な響きに聞こえるな」
二人で笑って、またひと口ずつ分け合う。静かで、贅沢な時間だった。
午後、香草園でミントを摘む体験の札を見つける。
「窓辺で育てられます。小さな鉢なら、寮でも」
ジャンヌが書かれた文字を読んで顔を上げる。
「君が帰るとき、ひと鉢、買おう。……“朝の合図”にすればいい。香りを吸って深呼吸、それから一行目へ」
「素敵です」
白いリボンを指で確かめる仕草が、いつもよりずっと柔らかくなっていた。
園内の売店で、押し花の栞を見つける。白い花弁と小さなシダが薄紙に閉じ込められている。
「よかったら」
ライリーがそっと差し出す。
「帳簿の栞に。――“ほどけても、結び直せる”印に」
「大切にします」
栞を受け取る指が震えて、ふたりとも気づいて、また笑った。
帰り道。園の外は夕風がすこし冷たくなっていた。
「ショールがずれてる」
ライリーが無言で肩にかけ直すと、ジャンヌの足取りが半歩近づく。
石畳の響きが二つ、同じリズムを刻む。
「君と来られて、よかった」
ライリーがぽつりと言う。
「私も……今日が、ずっと続けばいいのにって思いました」
「続けよう。無理のない速度で。次は、温室が休みの曜日に、街の本屋に寄って、それから——」
「それから、林檎のタルトの店に」
「賛成だ」
女子寮の門灯が見えたところで、ふたりは歩みを緩めた。
「弁当、ほんとうに嬉しかった。次は俺の番だな」
「ライリーさんの、手料理……?」
「期待値を上げないでくれ。練習はするからさ」
「ふふ。では、私が助手をしますね」
「それは心強いね」
寮の門の前まで来る。門灯が風に揺れ、ガラスがちいさく光った。
「送ってくれて、ありがとうございます」
ジャンヌは頷き、扉に手をかけ――その前に、ほんの少しだけ背伸びした。
門灯の下で触れ合う、砂糖を溶かすみたいに短い口づけ。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
扉の向こうで廊下の灯がぱっと点り、足音が軽く遠ざかるのを確かめてから、ライリーは振り返る。
「ライリー…」
「ジャンヌ、では、また明日」
扉の向こうで廊下の灯が点くのを見届けてから、ライリーはゆっくり踵を返した。
手の中には、軽くなった籠の布の感触と、昼の笑い声と、呼ばれた自分の名が温かく残っている。
門灯の下、白いリボンはほどけていない。
今日拾い集めた小さな“胸の弾み”が、二人の明日へ、静かに道筋を描いていた。
植物園の門の前で、ライリーは少し早く着いて、木陰に立っていた。胸の奥が、昨夜からずっと静かに弾んでいる。
「お待たせしました」
白いリボンを結んだジャンヌが、小さな籠を両手に抱えて駆けてくる。淡い色のワンピースに薄手のショール。息が弾んで、頬がほんのり桜色だ。
「いや、今、来た所だよ。行こうか」
ライリーは入園札を差し出し、門番に軽く会釈する。
ふたりで並ぶ最初の一歩に、足取りが自然と揃った。
*
温室の扉を押すと、湿った緑の匂いがふわりと包む。大きな葉の雫が光り、細長い花が風に揺れる。
「ここ、すきです」
ジャンヌが小声で言う。
「草の匂いが、息づいてるみたい」
「わかる。紙の匂いも好きだが、今日はこっちが勝ちだな」
ライリーは肩の力の抜けた笑みで応じ、解説札を覗き込む。
「これは何語かな?――“白い鐘の花”?」
「たぶん、“風鈴草”の仲間です」
ジャンヌが札の図を指でなぞる。
ふいに距離が近づき、ライリーの袖にショールが触れた。心臓が、昨日の返事を思い出して少し強く打つ。
「ジャンヌ…」
「はい?」
「……手を繋いでも良いだろうか」
「……はい」
ライリーが照れたように左手を差し出した。
彼の手をゆっくりとジャンヌが握りしめた瞬間、温室の空気ごと甘くなる。ふたりは同時に照れ、同時に笑った。
蘭室では奔放な色に目を奪われ、シダの回廊では葉のうらの渦巻きに足を止める。
「模様が図面の渦に似てる」
「じゃあ、これが“うずまき図面・春”ですね」
そんな他愛ないやりとりだけで、胸の真ん中がじんわり満たされていく。
芝生の縁に木のベンチを見つけ、二人は休憩に腰掛ける。
池の水面が光を砕いて、鯉がゆっくり影を引いた。
「…お昼、よかったら」
ジャンヌが籠の布をめくる。
香ばしいパンに、卵のキッシュ、薄切りのハム、窓辺で育てたハーブのピクルス。小瓶には、淡い色の林檎のコンポート。
「……すごいな」
言葉が一度だけ立ち止まる。ライリーは一品ずつ見つめ、顔を上げた。
「嬉しい。こんなふうに“誰かのため”に詰められた昼を、久しく食べてないよ」
「拙いですが……召し上がってください」
「拙くない。君らしい」
彼はパンをちぎって、卵の層を丁寧に確かめ、それからゆっくり口へ運ぶ。目尻が、自然とほどけた。
「うまい。君は料理が上手だな」
「ありがとうございます。よかった」
安堵の息と一緒に、ジャンヌの肩が少し落ちる。
「林檎も、どうぞ。…白ワインを少しだけ」
「君の“少し”は、いつもちょうどいい」
木匙で一口すくい、目を閉じる。
温室の甘い空気と、林檎のやさしい酸味が重なって、心の中の糸がするすると解けていく。
「昨日から、夢みたいです」
ジャンヌがぽつりと言う。
「俺は現実だと確かめ続けてる。……こうして」
ライリーは、再び手を差し出し、二人の指先を重ねる。手のひらの温度が、胸の奥の鼓動と同じ速さになった。
「“さん”付けは、普段は無しで呼んでほしいな」
「……えっ」
ジャンヌは驚き、目を開いてしまう。
「ふふ、恋人同士になったんだ。ライリーと呼んでくれたら嬉しい」
柔らかな笑みを見せながらライリーは呟いた。
「……ら、ライリー…」
名前だけが風にのり、ライリーは少しだけ目を伏せた。
「ジャンヌに呼ばれると特別な響きに聞こえるな」
二人で笑って、またひと口ずつ分け合う。静かで、贅沢な時間だった。
午後、香草園でミントを摘む体験の札を見つける。
「窓辺で育てられます。小さな鉢なら、寮でも」
ジャンヌが書かれた文字を読んで顔を上げる。
「君が帰るとき、ひと鉢、買おう。……“朝の合図”にすればいい。香りを吸って深呼吸、それから一行目へ」
「素敵です」
白いリボンを指で確かめる仕草が、いつもよりずっと柔らかくなっていた。
園内の売店で、押し花の栞を見つける。白い花弁と小さなシダが薄紙に閉じ込められている。
「よかったら」
ライリーがそっと差し出す。
「帳簿の栞に。――“ほどけても、結び直せる”印に」
「大切にします」
栞を受け取る指が震えて、ふたりとも気づいて、また笑った。
帰り道。園の外は夕風がすこし冷たくなっていた。
「ショールがずれてる」
ライリーが無言で肩にかけ直すと、ジャンヌの足取りが半歩近づく。
石畳の響きが二つ、同じリズムを刻む。
「君と来られて、よかった」
ライリーがぽつりと言う。
「私も……今日が、ずっと続けばいいのにって思いました」
「続けよう。無理のない速度で。次は、温室が休みの曜日に、街の本屋に寄って、それから——」
「それから、林檎のタルトの店に」
「賛成だ」
女子寮の門灯が見えたところで、ふたりは歩みを緩めた。
「弁当、ほんとうに嬉しかった。次は俺の番だな」
「ライリーさんの、手料理……?」
「期待値を上げないでくれ。練習はするからさ」
「ふふ。では、私が助手をしますね」
「それは心強いね」
寮の門の前まで来る。門灯が風に揺れ、ガラスがちいさく光った。
「送ってくれて、ありがとうございます」
ジャンヌは頷き、扉に手をかけ――その前に、ほんの少しだけ背伸びした。
門灯の下で触れ合う、砂糖を溶かすみたいに短い口づけ。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
扉の向こうで廊下の灯がぱっと点り、足音が軽く遠ざかるのを確かめてから、ライリーは振り返る。
「ライリー…」
「ジャンヌ、では、また明日」
扉の向こうで廊下の灯が点くのを見届けてから、ライリーはゆっくり踵を返した。
手の中には、軽くなった籠の布の感触と、昼の笑い声と、呼ばれた自分の名が温かく残っている。
門灯の下、白いリボンはほどけていない。
今日拾い集めた小さな“胸の弾み”が、二人の明日へ、静かに道筋を描いていた。
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