【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 午前の帳場。
 回覧札は滞りなく流れ、受領印の“上”にそろった時刻が一本の道みたいに視界を案内していた。 

 ジャンヌは栞の押し花を指先で確かめ、いつもの一行目へペン先を落とす。

 そのとき――入口がふっと明るくなる。
 紺の外套、白い襟。黒曜石の瞳がまっすぐに通りを切り取って、エレナが歩み入った。

「こんにちは。王都の帳場は、相変わらずきちんとしてるのね」

 言葉は柔らかいのに、どこか試すような光が縁にひそむ。

 ジャンヌは立ち上がり、微笑の角度を変えずに一礼した。

「おはようございます。何かお手伝いしますか?」

「お気持ちはありがたいけど、ライリー――いえ、隊長に用があるの」
 白い指が、腰のキーリングの笛をすこし撫でる。

 廊下の奥から一定の足音。
 灯りに外套の裾が揺れ、長身の姿ーーライリーが現れた。

 灰青の眼がまずジャンヌ、次にエレナをとらえ、彼は穏やかに会釈して近づく。

 エレナはぱっと顔を輝かせ、半歩前に出て、「ライリー!」と弾む声が走った。

「ライリー、少し時間ある?」

 視線が一瞬で場の空気を測り、落ち着いた声で言う。

「ハンネスは出立の準備か?――エレナ、ここは仕事場だ」

「じゃあ、少しだけ。人目が少ない所で」
 にっこり笑いながら、目は笑っていない。

 ライリーはほんの一拍黙り、はっきりと線を引いた。
「仕事に関わる内容なら構わないが、それ以外では、申し訳ないが……時間を割くことはできない」

 空気が、ごく短く止まった。
 エレナの睫毛がひと揺れして、すぐに微笑みが戻る。

「……ほんの少しでも?」
「ああ、大切な人を悲しませたくないから」

 視線がするりとジャンヌに滑り、白いリボンでひと瞬き止まる。
「ふうん……、、ね…」

 何か言葉が続きそうだったが、エレナはジャンヌをひとしきり視線を向けたあとに

「おめでとう、お二人さん」

 言葉は礼儀正しい。けれど、甘い蜜をくぐらせた小さな棘が、確かにあった。



 夕暮れ前の市場通りに仕事帰りのジャンヌは来ていた。

 ジャンヌは白い綿のブラウスに、淡い霜降りが入った生成りのスカートを合わせていた。
 本屋の包みと、小玉トマトを詰めた紙袋を抱えて歩いていた。露店の呼び声、石畳を洗った水の匂い。帰り道が少しだけ軽い。

「きゃ、ごめんなさい——」

 紺の外套が横切った。
 すれ違いざま、細い肘が紙袋の口を“そっと”引っかける。

 紙が裂け、小さなトマトがコロコロと石畳を駆け、ひとつ、ふたつ、ぱちん、と弾けた。赤い飛沫がスカートの裾に散る。

「……っ」

 振り向いた黒曜石の瞳——エレナだった。目元は申し訳なさそう、けれど声は妙に明るい。

「あら、ごめんなさい。王都って、人が多いものね。荷物、そんな持ち方じゃ危ないわ……地味なスカートに派手な柄になったわね?ふふふ」

 エレナは愉快そうに言いながら、転がってきたトマトを“うっかり”踵で踏む。
 ぱしゃ、ともう一度。種と果肉が、今度は足首のあたりまで跳ねた。

「やだ、ごめんなさい、足もと悪くて——あ、拭いてあげたいけど、手拭い持ってなかったわ」

(……これって…わざと?)

 喉に言葉がひっかかる。
 ジャンヌが布を探そうとした、そのとき——

「ジャンヌ」

 落ち着いた低い声が背後から聞こえた。
 振り向くとライリーがいた。外回りの帰りらしく、手に仕事用の小さな鞄を持っていた。

 彼は状況をひと目で把握し、迷いなく上衣を脱いでジャンヌの前に差し出す。

「腰に巻いて。噴水へ。果汁は水で叩けば落ちる」

「ありがとうございます……」

 ライリーは通りの端の公用噴水に誘導し、手桶で水を汲む。布を湿らせ、裾の赤い跡をそっと押さえる。

エレナが少し離れて腕を組み、つま先で石畳をつついた。

「私がぶつかったの。ほんと、ごめんなさい」

 ライリーの視線が短くエレナをかすめ、すぐにジャンヌの方へと戻る。

「わかった。――けれど、今は彼女を先だ。用があれば、今、この場で話してくれるか」
 表情は柔らかいのに、言葉はまっすぐだった。

「……隊長…」

 一拍の沈黙。エレナの笑みが薄く張った。

「……そう。わかった。じゃあ、またね、隊長」

 彼女は肩をすくめ、ヒールの音を軽く鳴らして人波に紛れた。


「冷たくないか?」
「大丈夫です……すみません」
「謝らなくていい。君は何も悪くない」

 通りの八百屋の女将が、見ていられないというふうに古布を差し出す。

「お嬢ちゃん、あの娘、わざとよ。目の端が笑ってたもの。——ほら、これで種を取って」

「ありがとうございます」
 ジャンヌが頭を下げると、女将は「いいのいいの」と笑って去っていく。

 跡が薄れたのを確かめると、ライリーは露店で薄青のスカーフをひとつ買った。
裾にふわりと巻いて軽く結ぶ。

「急場しのぎだけど……ジャンヌによく似合う」

 風が通るたび、薄青がやさしく揺れる。
ジャンヌは胸のきしみがほどけていくのを感じて、微笑んだ。

「ありがとうございます。助かりました」
「トマトは、また買えばいい。今度は俺が袋を持つ。——それと、さっきの言葉、気にするな」

「……はい」



 寮へ向かう小路に入ると、人通りが薄くなる。夕暮れの色が建物の縁に集まり、スカーフの薄青だけが小さく明るい。

「さっき、嫌な気持ちにさせたな」
 ライリーが言う。ジャンヌは首を横に振った。

「平気です。……大丈夫。私の不注意でもあったし」

「それでも、君に嫌な思いをさせるのは好きじゃない。君の時間と、笑う顔を守りたい。――勝手かもしれないけど」

 胸の奥が、そっと熱を持つ。
ジャンヌは足を止め、スカーフの端を指でつまんだ。

「じゃあ、これは“守り札”ですね」

「そうだな。ふふふ、君によく似合う守り札だな」

 軽口に、胸の奥で小さく鈴が鳴るようにときめいた。

 嫌な出来事は跡形を変え、薄青の布と一緒に、二人の記憶の棚に収まっていく。

 寮の前に到着し、ライリーはいつものように灯りが点くのを見届け、手を振った。

「また明日」
「はい、明日」

 扉が閉まる直前、ジャンヌはスカーフの端に指を添えた。

 小さな波乱は、ふたりの距離をもう一歩だけ、確かに近づけていた。
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