【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 夜明け前、まだ空は薄鼠で、吐く息が白い。
 荷馬車に縄がかけ直され、樽の蓋が叩かれて音を返す。門番が灯りを下ろし、門の滑車がぎい、と短く鳴いた。

「おう、隊長――じゃなかった、ライリー」
 毛皮縁の外套の男、ハンネスが笑う。霜に焼けた頬に、狼の灰の目。

「積み込みは?」
「上出来だ。峠の風が変わる前に抜けたい」

 そこへ、ジャンヌが小走りで現れた。
 薄青のスカーフが首元でやわらかく揺れる。抱えてきた封筒を差し出す。

「越境の控えと関所の通行票です。出立時刻も記しました」
「助かる」
 ライリーが受け取り、手短に確認して印を置く。

「父さん、わたしの外套の襟……」
 低い声に振り向けば、紺の外套の襟を指で正すエレナが立っていた。

 白い襟もとに朝の気配が落ち、黒曜石の瞳が一瞬だけジャンヌのスカーフで止まる。

「…朝早くなのに…来てくれたのね」
「はい。通行票を渡しに。お気をつけて。良い旅を」
 ジャンヌは頭を下げ、礼を添える。
エレナは半歩近づき、少しだけ顎を上げた。
「この前は――その、悪かったわ。王都は人が多いから、って言い訳したけど……私、目が曇ってた」

 ジャンヌは小さく笑って首を振る。
「大丈夫です。……もう、跡は残っていませんから」

「スカーフ、似合ってるわ」
 短い言葉が落ちる。
 ふいに、エレナが外套の内ポケットから小さな包みを取り出した。薄い蜂蜜の焼き菓子が二枚、紙にくるまれている。

「隊長の好物。……今度は、あなたが“半分”分けてあげて」
 声には少し照れが混じり、目の縁は負けず嫌いの光を残したままだ。

「ありがとう。あとで皆でいただきます」
 ジャンヌは受け取り、包みに「雪見亭」と小さく記された印を見つめた。

「エレナ」
 ライリーが呼ぶ。キーリングの小さな笛が、金具の上でかすかに鳴った。
「これを」
 差し出されたのは握りやすい厚紙。三行だけ、整った字で並ぶ。

 ――「灯りを先に」「湯を先に」「風の道を開ける」

 エレナが眉を上げる。
「宿の迎え入れ手順。君の現場で、君なりに変えていい。要るのは“順番”だけだ」
「ふふ。王都でも、やっぱり“隊長”ね。……借りてくわ」

 ハンネスが荷台に肩で体重をかけ、締め具の具合を確かめながら、声を潜めてライリーへ囁く。

「王都に戻って、いい顔になったな……心当たり、あるんだろ?」
 ライリーは短く笑い、返事の代わりに笛を親指で弾いた。澄んだ音が一度だけ朝気に溶ける。

「ジャンヌ、ちょっといい?」
 エレナがふと向き直る。
「あなたの“道しるべ”、良いわ。王都の掲示板、見た。迷う人が減るわね」
「……ありがとう」
 ジャンヌは少し目を丸くし、うなずいた。

 門番が手を上げる。「出立!」
 手綱が鳴り、車輪が石畳を噛んだ。
 ハンネスは御者台に上がり、エレナは足掛けに片足をかけたまま振り返った。

 彼女は胸元の白い襟を指で押さえ、ジャンヌへ目だけで「元気で」と言い、ひらりと身を返す。

 鞭は入らない。ただ、馬が前へ意思を移した。

 車列が門外の坂に消えるころ、キーリングの笛がもう一度だけ鳴る。合図のように、短く、確かに響いた。

「……行きましたね」
 ジャンヌが静かにつぶやく。薄青のスカーフが肩で静かに光った。

「峠は冷えるがあの親子なら、越えられる」
 ライリーが言う。言葉は淡いが、目の奥に温度があった。

 門の影から陽だまりへ出ると、街の音がふつうの大きさに戻ってくる。
 ジャンヌは懐の小さな包みを見下ろし、紙の角を整えた。


***


 終業の少し前、回覧札の端に小さな紙片が添えられた。

 ――〈終業後、本屋の回廊で。雨が弱まる頃〉

 ライリーの癖のない字だった。
 ジャンヌは受け渡し簿の余白に小さく「了解」と置き、封印紙に今日の日付を記すと外套を取った。

 鐘が鳴り、帳場の灯が一段落ちる。
 約束の回廊へ向かう途中、空はにわかに暗くなり、細かな雨がガラス屋根を叩きはじめた。

 本屋の看板の下で足を止めると、ほどなくランタンの灯が近づく。

「ごめん、待った?」

 振り向けば、ライリーがいた。
 外套の肩は少し濡れているのに、息は乱れていない。

「いいえ、今来たところです」
 ジャンヌは微笑みながら言葉を続ける。
「濡れませんでしたか」

「俺は大丈夫だよ。それより、君のほうが濡れてる。――貸して」
 彼はスカーフの端を受け取り、布を軽く絞る。

 無駄のない手つきなのに、どこまでもやさしい。滴がぽとりと石に落ちる音が大きく聞こえた。

「痛くない?」
「大丈夫です」

 彼がほんの一瞬ためらってから、指先でジャンヌのこめかみの後れ毛をそっと払った。手が離れても、そこだけじんわり温かい。

 回廊の向こう、露店の灯がひとつ、雨に消えかける。

 ライリーが短く口笛を三度ほど、吹いた。軒下の少年がこちらを見て、慌てて芯を整えた。音は小さいのに、ちゃんと届く。

「ありがとう」
 少年が笑って手を振る。ジャンヌも思わず振り返した。

 雨脚はまだ強い。二人はランタンを挟んで並び、しばらく雨を眺めた。
ライリーがランタンのガラス越しに、じっとこちらを見る。灰青の眼が、灯りの中で深くなる。

「手を握っても良いかな?」
「……はい」

 指先が触れて、からむ。
 びっくりするほどしっくりと収まって、雨音の粒が少し丸くなった。握り返すと、彼はわずかに力を返してくれる。言葉よりも確かな会話だった。

「お腹、空かないか?」
「ふふ、ちょうど、私も同じことを」
「それは光栄だ。話が早い」

 ライリーが握った指先にほんのり熱がのり、自然に肩が寄る。

「ジャンヌ……」
 名をやわらかく呼ばれ、次の瞬間、唇がそっと触れた。

離れて、もう一度、今度は角度を変えて、一呼吸ぶんだけ深い口付けだった。灯の輪の中だけ、時間がゆっくりになる。

「……ライリー……」

 潤んだ瞳で見上げると、彼はふわりと抱き寄せ、耳許で照れた声を落とした。

「空腹に負けて、君の唇をひとくち食べてしまったみたいだ」
 くすっと笑いがこぼれる。

「なら、私も……もう一口」

 今度はジャンヌから唇を重ねた。
 軽く触れて、すぐ離れる、羽のように軽い口付けだった。

 やがて雨が細くなり、屋根の縁から落ちる水の筋がほどけ、通りの灯がひとつ、またひとつ戻っていく。

ライリーはランタンの芯を少し下げ、外套の裾を整えた。

「じゃあ、行こうか。うまい店に連れてくよ」
「はい。お願いします」

 回廊を抜ければ、石畳が黒く光っている。水たまりを避けるたび、彼は自然に路肩側へ回り込み、歩幅を合わせる。

 指はまだつながったまま。雨上がりの匂いと、ふたりぶんの足音だけが、静かに夜へ延びていった。





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