【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 雨の夜から季節は四度めくれた。
 青いスカーフの端は少しやわらぎ、林檎の季節が二巡した。

 二人は手をつなぎ、額にキスを落とし、門灯の下で『また明日』を重ね——そしてジャンヌは、もうすぐ二十歳になろうとしていた。


***

 午前の帳場は、軽やかに回っていた。
 回覧札は滞らず、受領印の上の時刻がすっと並ぶ。ジャンヌは束の“入口”を指で示してから、新人に笑いかけた。

「ここを“入口”に決めておくと迷いません。時刻は印の上。困ったら、入口に戻る――ここまで覚えたら十分ですよ」

「は、はい!」
 緊張でこわばっていた新人の肩から、目に見えて力が抜ける。

 横を通りながら、ケイシーが小声で囁く。
「ジャンヌの説明良いわね。短くて、届くわ」
 少し離れた席でマイルズが親指を立てた。
「頼りになるな、ジャンヌ」

 新人たちのまなざしは、尊敬の色でいっそうきらめいた。

「ジャンヌさん、私たちと年、そんなに変わらないのに……すごい」
「来年、自分たちがああなれる気がしないわ」

 ちょうどそのとき、外回りからライリーが戻ってくるのが視界に入った。

 入口の扉が軽く鳴り、背の高い影が差す。外套の肩には街路の細かな埃が淡く光り、襟元のボタンをひとつ外した白いシャツがのぞく。

 歩みは長く静かで、灰青の眼が一度だけ帳場全体を見渡し、ジャンヌのほうへ一瞬だけ視線が触れ、彼はいつもの控えめな微笑を置いてから、次の案件へと滑らかに歩を進めた。

「ねえ、あっちの背の高い人って、ライリーさんだよね? かっこいい……!」
「ほんと。あの感じ、素敵」

 彼女達のはしゃぐ声に、ジャンヌは苦笑をひとつ。胸の奥が、くすぐったくて、少しだけむずがゆい。

(…ライリー、人気者だわ)

 でも不思議と、ざわつきは長く残らない。

 彼はいつだって誠実で、揺るぎない。とても大切にしてくれていると日々、実感している。

ただ――ときどき、胸の真ん中に小さなつぶやきが生まれる。

(…まだ、私たちはーー深い結びつきがない)

何度も抱きしめられ、幾度となく唇を重ねてきたが、一線は超えていない。


(子ども扱い、じゃないよね。待ってくれてる、だけ…よね)

 白昼の忙しさに溶けていく不安を指先でなだめ、ジャンヌはもう一つの束に向き直った。





 石畳に雨の名残が光る、誕生日の朝。
二十歳になった日、王都美術館の正面に続く石造りの広い階段で、ライリーが手を振った。

煤竹色すすたけいろの上衣に薄い灰のベスト、白いシャツの第一ボタンを外し、濃茶のブーツをきちんと締めている。


 ジャンヌは、白い襟の藍色ワンピースに、薄青のスカーフを細く巻き、髪はいつもの白いリボンでまとめ、ライリーを見つけると綻ぶように微笑んだ。

「今日、美術館に行きたいと言った理由がここにあるんです」
 そう言って彼女が見上げる先は、王立絵画陳列館——大きな丸窓とガラスの天井、朝の光が静かに落ちる。

「今、巡回展で“旅する植物図譜”が来ていて……薬草や香料の、手彩色の版画が見られるんです。境界線ボーダーの細い線や余白の取り方、台帳にも活かせる気がして」
 そう言いながら、指先で自分のスカーフの端をつまむ。

「それに……並んで同じものを見られる場所って、好きです。向かい合うと、まだ少し照れてしまうから」

「はは、君らしい。照れてしまう君も可愛いが、俺としては……慣れてほしいな」
 ライリーの目尻がやわらかくほどけ、ジャンヌの手をそっと握って歩き始めた。

 館内は、紙と絵具の甘い匂いが漂う。
 薄緑の壁に、細密な植物画が等間隔に並び、乳白色のガラス天蓋から落ちる光が、葉脈の一本一本を浮かび上がらせる。

「この影、どうやって……」
 ジャンヌが囁く。
「葉の下だけ、ほんの少し濃くしてる。線を増やさず“順番”で深さを出してるんだな」
 ライリーが肩越しに応える。

 ふたりの時間は言葉を少し、沈黙を少しと穏やかに過ぎていく。

 ページをめくるみたいに、同じ歩幅で展示室を移り、ジャンヌはメモではなく心に写し取っていた。ライリーはその横顔を、絵の余白みたいに大切に見守る。





 夕暮れには、街路樹の並ぶ小さなレストランへ移動した。

 ランプの火が揺れるテーブルの上に、ライリーは包みをそっと置いた。

「二十歳の誕生日おめでとう」

 包みの中から現れたのは、細い銀のブローチ。小鳥が一羽、羽をたたんでいる。薄青の小さな石が一つ、目の位置で静かに光った。

「…わぁ、可愛い」
「君のスカーフに合うと思って。右を向いている小鳥――ちょっと縁起を担いでね」
「ありがとうございます。大切にします。ずっと」

 言葉を置くたび、胸の奥がやわらかく満ちる。
 食後の紅茶の湯気が細く立ちのぼり、カップを置く音がひとつ、静かな夜に混じった。

 店を出ると、石畳は薄く濡れて、灯りが粒になって揺れていた。寮の門が見える角で、ライリーがいつものように言う。

「寮まで、送るよ」

 ジャンヌは足を止めて、ブローチに触れた。

 喉の奥で小さな鼓動が跳ねる。
 ここで言わなければ、きっと後悔する。

「……あの、ライリー……」
「うん?」

 ジャンヌは顔を上げ、真っ直ぐにライリーを見つめ、声は震えないようにと言葉を続ける。

「……私、二十歳になりました。今日が来るのを、ずっと嬉しく数えていました。だから――もしよかったら、今夜は、もう少しだけ“同じ夜”を一緒に過ごしたいです」

 風が一枚、彼の前髪を揺らした。
 ライリーは瞬きをひとつだけして、すぐに表情をやわらげる。声は低く、やさしい。

「ジャンヌ……夜を一緒にって、言っている意味、わかってる?」
「…はい。わかっています」

 ライリーは周囲をひと巡り見て、小さく頷く。

「……じゃぁ、うちへ来る?散らかってはいないつもりだけど」

「はい。ライリーの部屋に連れて行ってください」

 差し出された温かい手を握る。二人の指先が、静かにからんだ。

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