【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 午前の運用棟は、ほどよく忙しかった。

 港からの便が順調で、荷台も人の流れもきれいに伸びている。

 黒板には昨日と同じ矢印が残っていて、その上に今日の日付と、ライリーの手でさらっと「風向き北/滑り注意」と書き足されていた。

 ミナはそれを見上げながら、手首の細いブレスレットをちょん、と鳴らす。

(今日こそ、距離を詰める)

 そう思っていた。

 帳場のほうから白いリボンが見えたときも、いったん笑って横を通すだけにした。余計なところで睨んでも、主任には響かない。響くのは“役に立つ人”だけ。彼の視線は、そこにだけちゃんと落ちている。

 午前の詰めが終わった頃、ライリーは一段落したように伝票板を抱えて廊下に出た。

 ちょうど、運用棟と帳場をつなぐ渡り廊下に向かっていた。人の行き来がいったん薄くなるところだった。

 ミナは待ってましたとばかりに小走りで近づく。

「ライリー主任!」

「どうした、ミナ。書式の件か」

「それもなんですけど……それより。少し、お話が」

 彼は歩みを緩める。今日も袖口はきちんと畳まれ、靴は濡れていない。どこを見ても「ちゃんと仕事の人」だ。

 ミナは一瞬、口の中で言葉を転がしてから、わざと声を落とした。

「昨日、帳場のジャンヌさんと……ご一緒に帰られてましたよね?」

 ライリーの足が止まる。

 一拍だけ間が空いた。怒鳴られる気配はない。だけど、空気の温度がすっと一段下がる。

「見ていたのか」

「い、いえ、たまたまです。わたし、主任のお仕事ぶり尊敬してて……どんな方とお付き合いされるのかなって……あの方、とても優しそうで。お似合いだなって思って」

 にこっと笑う。言葉だけ聞けば、悪意なんてどこにもない。けれど、その「お付き合い」という言い方が、廊下という職場の空気にそぐわないのは、さすがに彼も見逃さなかった。

「ミナ」

 名前を呼ぶ声が、さっきより低くなる。けれど静かだ。周囲にも届きすぎない音量で、芯だけは通っている。


「ここは仕事の場だ。から聞いてもいない私生活を、話として持ち込むのはやめておこう」

「……っ、す、すみません。そういうつもりじゃ……」

「君に悪気がないのはわかってる。ただ、誰と帰っていたかとか、どこで見かけたかっていう“”を、推測を足して話すとすぐに噂になる。部署をまたぐと余計にね」

「……はい」

「仕事で必要なことなら、俺もケイシーや、マイルズから事情を聞くことはある。それは『仕事を回すため』だからだ。
今の話はそうじゃない。だから線を分けよう」

 言葉がきれいに並ぶ。怒りが混ざっていないからこそ、逃げ場がなかった。ミナは一瞬、笑顔を保つのに苦労した。

「はい……気をつけます」

「それと」

 ライリーは視線を窓のほうへ一度だけ流し、また彼女に戻した。

「君が誰を“”と思ったとしても、その評価はここでは要らない。俺たちは、荷が通るか通らないか、紙が合っているかいないかを話す場所にいる」

「……はい」

「三時に港側の会議室を押さえてある。書式の相談はそこで。要点は三つに。さっき言っていた件も、仕事に関わるならそこで聞こう」

「わかりました。失礼します」

 ミナは小さく頭を下げ、踵を返した。
 背中を向けてから、奥歯をそっと噛む。

(やっぱり、帳場のあの人……)

 胸の奥で、悔しさと納得が同時に広がる。あの穏やかそうな白いリボンの女の人は、ただの帳場の女の人じゃない。主任があんなふうに「ここは仕事場だ」と線を引くほどには、特別だとわかった。

(でも、仕事の話なら聞いてくれる……)

 今日、彼女はうっかり口を滑らせた。
 だが同時に、確信したことがある。ライリー主任に近づく道があるとしたら、やっぱりそれは“役に立つ人”であることだ。

かわいいだけじゃ届かない。嫉妬の匂いをさせたら、即座に線が引かれる。

 渡り廊下の向こう、帳場の扉が開く気配がした。書類を抱えたジャンヌが、いつものように姿勢よく現れて、運用棟に向けて軽く会釈をする。真新しい白いリボンに淡いスカーフを巻いていた。あの人だけ、空気が静かに潤う。

 ミナは目を細める。

(……ほんと、守ってもらえそうな顔してる)

(でも、わたしだって仕事、できるもん)

 胸のブレスレットを指で弾き、彼女は会議室の予約表を取りに走った。

 その日の夕方、ライリーはいつも通りジャンヌを寮の前まで送っていた。

 前日にあった“廊下の一件”には、ひとことだけ触れただけだった。

「今日は少し、部下をきつめに注意した。仕事場で話すことと、そうでないことがあるからって」

「……そっか」

 ジャンヌは一瞬、あの蜂蜜色の髪を思い出して、胸の奥で小さくざわめいたが、灰青の瞳を見つめていると、騒いだ心が凪いでいく。

 週末に彼の部屋へ行く約束をしてある。次に会うときも、きっと同じ瞳で見つめてくれる。それがわかっているだけで、落ち着きを取り戻していた。


***


 そして、この翌週。

 人事から「国境倉庫に再び人を出す」という文書が回ることになる。

 ライリーの名前がそこにあるとは、このときのジャンヌもミナも、まだ知らない。
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