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その傷跡を抱きしめて
その傷跡を抱きしめて2
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どことなく沈んだ気分でバイト先に向かうと、いつものように雪乃さんがノートパソコンと向き合っていた。夏休みで他にやることもないからバイトには毎回顔を出していたけど、雪乃さんは決まって僕より先に事務所にいて物語を書いている。バイトが終わってからも事務所を出るのは三人一緒で、夏希さんが雪乃さんを車で送っていくことから、雪乃さんがいない事務所を僕は知らない。
今日はまだ夏希さんは来ていないらしい。その日のオーダーを留めるホワイトボードには一枚の伝票と冊子。伝票には依頼者の住所とどういった物語を聞きたいか、あるいは悩みなんかが記されている。
木下照乃、長部田大学の3年生。今回が一回目の注文で、依頼内容は「失恋を忘れられるような恋の話」だった。これだと僕は同席を断られるかもしれない。
言の葉デリバリーの仕事の特徴から、基本的には相手の希望を最優先する。僕が同席していいかは当日の事前連絡で夏希さんが先方に確認し、了解が得られた所だけ僕がついていくという形をとっていた。この一週間でも恋愛絡みのオーダーが二件あって――いずれも依頼者は女性だった――どちらも僕は同席NGとなっていた。
伝票と一緒にとめられていた小冊子の方を手に取る。収められているのは二人の高校生がお互いの気持ちに気づいていく過程の物語。物語を書くためにその経験が必要ではないという話はよくするけど、雪乃さんが恋愛小説を書いているイメージがイマイチわかない。
それに、逆の立場に置き換えてみて自分が書いた恋愛小説を目の前で誰かに読まれたら気が気でなくなりそうだけど、雪乃さんは平然とキーボードをたたき続けている。まあ、僕がバイトを始める前から夏希さんは何度も雪乃さんの前で物語を読んできただろうからとっくに慣れているのかもしれないけど。
冊子に一通り目を通して息をつく。もし同席を断られたら今日はこの冊子で練習してみよう。恋愛の話を朗読するのは気恥しい気もするけど、いいトレーニングになるだろう。
と、ポケットに入れていたスマホがブーブー震える。夏希さんからの着信だった。
「もしもし、田野瀬です」
「あっ、悠人君。もう事務所にいる?」
受話器から聞こえる夏希さんの向こう側の音は雑然としている。何だろう、その気配と夏希さんの声色から少し嫌な予感がした。
「はい、ちょうど今日の宅配用の冊子に目を通したところです」
「あ、よかった。実はちょっと街中の方に用事があって出かけてたんだけど、事故があったみたいで車が全く動かなくなっちゃってさー」
壁にかかる時計に目を向ける。どこで渋滞に引っかかっているかはわからないけど、オーダーの時間まではあと30分くらい。家に向かう時間まで含めると間に合わせるのは厳しそうだ。
「遅れてもいいか、日をずらすか確認しましょうか?」
「ううん、木下さんには先に電話して確認したんだけどね」
何気ないやり取りのはずなのに、夏希さんの声に含みがある。何か言いにくそうにしているけど、なんだろう。遅れるにせよ別日になるにせよ僕はそんなに気にしないんだけど。
夏希さんが息を吸う音が受話器越しでもはっきり聞こえた。
「新人でも男子でも構わないから、予定通りやって欲しいって」
「は?」
予想外の内容に思考が一瞬停止した。新人でも男子でもってことは、朗読を、僕が。すぐに血の気が引く音がしてきた。スマホを落としそうになって慌てて握り直す。
「いやいやいや、無理ですよ!」
「大丈夫。この一週間、悠人君の朗読はどんどん上達してたよ」
「でもっ……」
でも、夏希さんは一度も納得した顔をしてくれなかったじゃないですか。そう思ったけど言葉が出てこない。それを言えば夏希さんは僕に幻滅するかもしれない。いつもそうだ。言わなければならないと思った言葉が喉元で竦んでしまう。
「悠人君。この一週間練習を見てきて、大丈夫だと思ったから木下さんの希望を受け入れたの。私が悠人君をこの仕事に誘った理由を忘れなければ大丈夫」
夏希さんの声は優しい。人の気持ちに寄り添えること――それが、夏希さんが僕に声をかけた理由。そう言われても相変わらず僕にその自覚は全然なくて、その言葉を受けても自信はまるで浮かんでこない。
「わかり、ました」
それでも頷く。もし本当に夏希さんが僕に期待してくれているなら、それに応えたいと思った。バクバクと騒がしい胸に手を当てて、ゆっくりと息を吐く。
「ありがとう。頑張ってね」
電話が切れると情けないくらいに足がガクガク震えてくる。前の弁当屋のバイトの時はこんなことなかった。ただ運べば終わるというのはやっぱり僕の性に合っていたらしい。できるだろうか、僕に夏希さんのような朗読が。
「これ、木下さんの家の場所」
無造作に横から一枚の紙が手渡される。それは住宅地図を拡大したもので、駅近くの学生向けのマンションに印が入っていた。それを差し出した雪乃さんは無表情のままだけど、どうやら電話の内容から状況を察したらしい。
「ありがとう。でも、本当に僕でいいのかな……」
「どうして?」
「どうしてって、僕は夏希さんみたいに上手く朗読できるわけじゃないし」
相手にガッカリされたらどうしよう。僕が期待外れだと思われるだけならいいけど、この言の葉デリバリーが、雪乃さんの物語の評価を下げるのは嫌だった。だけど雪乃さんは興味を失ったようにノートパソコンの前に戻ってしまう。
「朗読が上手いか下手かは、そんなに大事じゃない」
雪乃さんの視線はノートパソコンの画面をのぞいているけど、その手はキーを打つ姿勢のままで固まっている。無表情だけど、何かを考えているように見えた。
「朗読の練習は技術的な話。大事なのは届けたいって気持ちだって、夏希はいつも言ってる」
届けたい気持ち。上手くいくとか失敗するとかじゃなくて、困っている人に物語を届ける。不思議と気分が軽くなった気がした。状況は何一つ変わらないけど、うまくやれなくてもいいんだという言葉はするりと胸の隙間に入ってきた。
「この一週間の練習で貴方はそれができると思う。だけど、もし自分のことが信じられないなら」
雪乃さんがもう一度僕の方を見る。透明だと思っていた瞳に確かに色を感じた。雪女だなんてとんでもなくて、海のような深くて落ち着いた蒼。その色に思わず息を呑み込んだ。
「その代わりに私が書いた物語を信じてほしい」
今日はまだ夏希さんは来ていないらしい。その日のオーダーを留めるホワイトボードには一枚の伝票と冊子。伝票には依頼者の住所とどういった物語を聞きたいか、あるいは悩みなんかが記されている。
木下照乃、長部田大学の3年生。今回が一回目の注文で、依頼内容は「失恋を忘れられるような恋の話」だった。これだと僕は同席を断られるかもしれない。
言の葉デリバリーの仕事の特徴から、基本的には相手の希望を最優先する。僕が同席していいかは当日の事前連絡で夏希さんが先方に確認し、了解が得られた所だけ僕がついていくという形をとっていた。この一週間でも恋愛絡みのオーダーが二件あって――いずれも依頼者は女性だった――どちらも僕は同席NGとなっていた。
伝票と一緒にとめられていた小冊子の方を手に取る。収められているのは二人の高校生がお互いの気持ちに気づいていく過程の物語。物語を書くためにその経験が必要ではないという話はよくするけど、雪乃さんが恋愛小説を書いているイメージがイマイチわかない。
それに、逆の立場に置き換えてみて自分が書いた恋愛小説を目の前で誰かに読まれたら気が気でなくなりそうだけど、雪乃さんは平然とキーボードをたたき続けている。まあ、僕がバイトを始める前から夏希さんは何度も雪乃さんの前で物語を読んできただろうからとっくに慣れているのかもしれないけど。
冊子に一通り目を通して息をつく。もし同席を断られたら今日はこの冊子で練習してみよう。恋愛の話を朗読するのは気恥しい気もするけど、いいトレーニングになるだろう。
と、ポケットに入れていたスマホがブーブー震える。夏希さんからの着信だった。
「もしもし、田野瀬です」
「あっ、悠人君。もう事務所にいる?」
受話器から聞こえる夏希さんの向こう側の音は雑然としている。何だろう、その気配と夏希さんの声色から少し嫌な予感がした。
「はい、ちょうど今日の宅配用の冊子に目を通したところです」
「あ、よかった。実はちょっと街中の方に用事があって出かけてたんだけど、事故があったみたいで車が全く動かなくなっちゃってさー」
壁にかかる時計に目を向ける。どこで渋滞に引っかかっているかはわからないけど、オーダーの時間まではあと30分くらい。家に向かう時間まで含めると間に合わせるのは厳しそうだ。
「遅れてもいいか、日をずらすか確認しましょうか?」
「ううん、木下さんには先に電話して確認したんだけどね」
何気ないやり取りのはずなのに、夏希さんの声に含みがある。何か言いにくそうにしているけど、なんだろう。遅れるにせよ別日になるにせよ僕はそんなに気にしないんだけど。
夏希さんが息を吸う音が受話器越しでもはっきり聞こえた。
「新人でも男子でも構わないから、予定通りやって欲しいって」
「は?」
予想外の内容に思考が一瞬停止した。新人でも男子でもってことは、朗読を、僕が。すぐに血の気が引く音がしてきた。スマホを落としそうになって慌てて握り直す。
「いやいやいや、無理ですよ!」
「大丈夫。この一週間、悠人君の朗読はどんどん上達してたよ」
「でもっ……」
でも、夏希さんは一度も納得した顔をしてくれなかったじゃないですか。そう思ったけど言葉が出てこない。それを言えば夏希さんは僕に幻滅するかもしれない。いつもそうだ。言わなければならないと思った言葉が喉元で竦んでしまう。
「悠人君。この一週間練習を見てきて、大丈夫だと思ったから木下さんの希望を受け入れたの。私が悠人君をこの仕事に誘った理由を忘れなければ大丈夫」
夏希さんの声は優しい。人の気持ちに寄り添えること――それが、夏希さんが僕に声をかけた理由。そう言われても相変わらず僕にその自覚は全然なくて、その言葉を受けても自信はまるで浮かんでこない。
「わかり、ました」
それでも頷く。もし本当に夏希さんが僕に期待してくれているなら、それに応えたいと思った。バクバクと騒がしい胸に手を当てて、ゆっくりと息を吐く。
「ありがとう。頑張ってね」
電話が切れると情けないくらいに足がガクガク震えてくる。前の弁当屋のバイトの時はこんなことなかった。ただ運べば終わるというのはやっぱり僕の性に合っていたらしい。できるだろうか、僕に夏希さんのような朗読が。
「これ、木下さんの家の場所」
無造作に横から一枚の紙が手渡される。それは住宅地図を拡大したもので、駅近くの学生向けのマンションに印が入っていた。それを差し出した雪乃さんは無表情のままだけど、どうやら電話の内容から状況を察したらしい。
「ありがとう。でも、本当に僕でいいのかな……」
「どうして?」
「どうしてって、僕は夏希さんみたいに上手く朗読できるわけじゃないし」
相手にガッカリされたらどうしよう。僕が期待外れだと思われるだけならいいけど、この言の葉デリバリーが、雪乃さんの物語の評価を下げるのは嫌だった。だけど雪乃さんは興味を失ったようにノートパソコンの前に戻ってしまう。
「朗読が上手いか下手かは、そんなに大事じゃない」
雪乃さんの視線はノートパソコンの画面をのぞいているけど、その手はキーを打つ姿勢のままで固まっている。無表情だけど、何かを考えているように見えた。
「朗読の練習は技術的な話。大事なのは届けたいって気持ちだって、夏希はいつも言ってる」
届けたい気持ち。上手くいくとか失敗するとかじゃなくて、困っている人に物語を届ける。不思議と気分が軽くなった気がした。状況は何一つ変わらないけど、うまくやれなくてもいいんだという言葉はするりと胸の隙間に入ってきた。
「この一週間の練習で貴方はそれができると思う。だけど、もし自分のことが信じられないなら」
雪乃さんがもう一度僕の方を見る。透明だと思っていた瞳に確かに色を感じた。雪女だなんてとんでもなくて、海のような深くて落ち着いた蒼。その色に思わず息を呑み込んだ。
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