言の葉デリバリー

粟生深泥

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その傷跡を抱きしめて

その傷跡を抱きしめて3

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 駐輪場に自転車を止めて汗を拭う。言の葉デリバリーでバイトを始めてからはずっと夏希さんの同席だったから、移動は夏希さんの車の助手席に乗せてもらっていたけど、一人で配達に行くことを考えると移動手段も考えなければいけない。原付を買えたらいいのだけど、そんな余裕はとてもない。
 とにもかくにも、今は目の前の仕事だ。タオルで一通り汗を拭うとエントランスを通り、エレベーターに乗る。お役御免になった住宅地図のコピーをしまおうとして、裏側に何か書かれているのに気づいた。

「これって……」

――頑張って。

 とても小さく、気づくか気づかないかの大きさで一言書き込まれていた。
 私が書いた物語を信じてほしい。事務所を出る前の一言を思い出して胸の奥の方が不規則な跳ね方をした。息が詰まって、慌てて深呼吸をする。早鐘のようになりかけた心臓を落ち着かせる。いや、これはここまで全力で自転車を漕いできたからで。
 グルグルと混乱したまま木下さんの部屋の前に着いてしまった。約束の時間も迫っているし、落ち着くための時間もない。インターホンを押すかどうか躊躇っていると、先にドアの方がガチャリと開いた。オレンジ色のTシャツを着た女性が迷いがちに僕を見ている。

「あの、もしかして」
「は、はい。お待たせしました。言の葉デリバリーです!」

 弁当屋のバイトで体に染みついた習慣のまま、声をあげて頭を下げる。そっと顔を挙げて様子を伺うと、その女性はニカッと笑みを浮かべた。顔や腕が仄かに日に焼けているけど、何かスポーツでもやっているのかもしれない。

「来てくれてありがとう。木下です」

 本当に男がきたら躊躇いが生じてドタキャンしてくれないかなと思ったけど、木下さんは躊躇いなく僕を部屋にあげた。ワンルームのリビングにはあまり物がなく白を基調としてシンプルにまとめられている。
 木下さんに促されてリビングの中央に置かれた小さめのテーブルに向かい合うように座る。窓からは西の方に傾いた黄昏色の陽射しが柔らかく差し込んできていた。

「この度はご注文ありがとうございます。言の葉デリバリーの田野瀬です。あー、えっと。長部田大学の1年です」
「あ、後輩君なんだね。私、経済学部の3年生なんだ」

 僕が後輩とわかったからか、木下さんの緊張感がほどけて綻ぶ。一方で僕は少しだけそんな木下さんの雰囲気に戸惑っていた。依頼の内容から線の細い人を思い浮かべていたけど、木下さんはラフな格好と少し日に焼けた肌だったり、短く切りそろえられた髪だったりとアクティブな人という印象だった。

「夏希は教養部の頃に知り合ったんだけど、今日は無理してきてもらっちゃってごめんね。私、昔からせっかちで予定が遅れたりすると落ち着かなくなっちゃってさー」
「いえ、むしろこちらこそ、僕みたいな新人ですみません」

 テーブルに向かい合って頭を下げあって、小さく息をつく。部屋に入るまでは凄い緊張していたけど、今は思っていたより落ち着いていた。もし木下さんが想像していた通りの線が細いタイプで失恋に追い詰められているのであれば責任を感じていたかもしれないけど、あっけらかんとした雰囲気にそのプレッシャーは薄れていた。

「それで、本日のご注文ですが『失恋を忘れられるような恋の話』でよかったですね」
「うん、合ってるよ」

 木下さんは苦笑を浮かべながら頬をかく。

「高校3年の終わり位から付き合いだしたんだけどね。ほら、さっきも言ったけど私せっかちで。それが負担だったみたいで、先月スパッとフラれちゃって」

 木下さんは小さく窓の方を振り返って、部屋に入り込む夕日に目を細める。

「自分でもびっくりなんだけど、結構長いこと付き合ってたからかな。意外なほどショック受けててさ。これから就活も本格化してくるし、夏休みの間には切り替えたくって」
「わかりました。それでは、始めてよろしいですか?」
「うん、お願い」

 鞄から白い冊子を取り出す。不思議と冊子を開くと心が落ち着いた。難しいことは考えなくていい。ただ、この物語を木下さんに届ける。そっと目を閉じて小さく息を吸う。瞼の裏に事前に読んだ物語の情景が浮かび上がる。

「一年の中でも海がとびきり蒼く光るある夏の日、夏休みの高校のグラウンドに一人佇む村野美咲を見つけた――」

 思っていたよりもずっとスムーズに物語に入ることができた。読み上げながら世界に足を踏み入れていく感じ。それまではただのクラスメイトだった主人公と村野美咲は夏休みのある日グラウンドで顔を合わせる。何をしているのかと問いかける主人公に実咲は「青を探している」と儚げに笑うのだった。

「『青だって?』不可思議な行動をとる実咲は暑さで頭がやられたかのようにも思えたけど、いたって真面目な顔をしている。『夏休みの間にとびっきりの青を見つけたい』触れてしまえば壊れそうな程にその声は震えていて、実咲の存在自体が夏の日の陽炎が描き出した幻なんじゃないかと思うほど希薄だった」

 そんな実咲を見ていると居ても立ってもいられなくなって、主人公は実咲の青探しを手伝うことにした。青く佇む海、空色が濃ゆく色めく山の上、水が煌めくプール、夏祭りのブルーハワイのかき氷など青に関係しそうな場所を巡るが、中々実咲が求める青は見つからない。
 結局街中のどこにも青を見いだせないまま、夏休みは最終日を迎えてしまう。

「夏休み最終日、実咲から呼び出されたのは何の変哲もない高校の屋上だった。約束の時間に訪れてみると、実咲は汚れるのもいとわず屋上に寝転がってゆっくりと雲が流れる夏空を見上げていた」

 物語の架橋。ゆっくりと呼吸を整える。一瞬だけ意識が現実に帰ってきて、じっと聞き入る木下さんが見えた。目を閉じる。パチリと意識が物語の世界を泳ぎ始める。

「『青探しは諦めたのかよ』実咲に促されるまま横に寝転がると、出会った時と何も変わらない青空が俺たちを見下ろしていた。『見つけたよ』隣で笑う実咲の指が微かに触れる。あの日、希薄に感じた実咲の存在を今はありありと感じていた。『海も山も、プールも夏祭りの花火も私にとって最高の夏の思い出』」

 ほうっと息が漏れた。それは俺の息ではなくて、木下さんの音だった。

「『ずっと物語の世界みたいな青春に憧れてた。いてもたってもいられなくなってバカみたいに学校に探しに行ってみたら、君が来てくれた』はにかむ実咲が俺を見ている。朧気に触れていた指先がするりと絡んだ。『ありがとう。今日はお礼を言いたかっただけ。これ以上は――多分、迷惑になっちゃうから』絡んでいた指先がするりと解けて実咲が立ち上がる。その手が逃れていかない様に、とっさにつかんでいた。ハッと息を吸う実咲の声がはっきり聞こえた」

 遠くから蝉の残響が聞こえてきた気がした。それは物語にそっと夏の色を添える。

「『迷惑なんて今更だって』こんな時でも俺の声はぶっきらぼうで、でもその手は決して離さない。『これで終わりなんて寂しすぎるだろ。俺はもっと実咲と二人で、色々な青を探していきたい』」

 小冊子を閉じる頃には日は殆ど暮れかけていた。テーブル越しの木下さんを西日が緩やかに照らす。角度の関係で木下さんの半分が明るく染まり、もう半分は陰に落ちていた。
 朗読しているときは何も感じなかったのに、今更のように震えが湧き上がってきた。僕はちゃんとできただろうか。急に緊張してまともに木下さんのことを見られなくなる。
 大丈夫だろうか。物語は直接的な恋の話は少ない。二人の間の空気をちゃんと表現できたかな。段々と指まで震えてきたところで、木下さんのゆっくり長い息が聞こえた。

「あー、いいなあ。私もこんな恋愛してみたかったなあ」

 そんな言葉を漏らした木下さんは泣き笑いのような表情を浮かべている。すっと瞳を閉じて、自分に言い聞かせるように首を軽く横に振る。

「ううん。今からだって遅くないよね。ありがと、後輩君。私もこの夏にもうちょっと『青』を探してみるよ」

 夕日に照らされている木下さんが、再びニカッと勝気な笑みを浮かべた。
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