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ありのままの貴方で
ありのままの貴方で8
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「こんにちは、言の葉デリバリーです」
「おう」
道尾さんの部屋を訪れたのはちょうど木下さんの話を聞いてから5日後だった。扉の向こうから顔を出した道尾さんは前回会ってから一週間も経ってないけど、心なしかやつれて見える。
前回同様ローテーブルに向かい合って座る。向かいに座った道尾さんからすっと鋭い視線を向けられると、それだけで室内にピリッとした緊張感が走る。
「それで、俺に必要な物語ってのは出来たのか?」
「はい。できました」
震えそうになる指先を握りしめて道尾さんの視線を受け止める。
木下さんと話した日の夜、物語を書き直し始めた雪乃さんは一時間くらいで話を書き終えた。それから道尾さんの約束が取れるまでの間、僕はひたすらその物語を読み込んだ。それはなにか凄い突飛な物語というわけではない。だけど、雪乃さんはそこに道尾さんが必要とするものを詰めたはずだ。
僕がするべきことは、それを信じるだけだった。
「まあ、別にどっちでもいいけどな」
道尾さんの視線は少し冷めているように見えた。
「今回の話がどうであれ、照乃には上手くやってもらったと説明しておく。それでお互いあと腐れなく終わるだけだ」
奥歯をぐっと噛みしめる。そうなってしまったら何も変わらない。いや、僕らの役目は終わるのかもしれないけど、それでは道尾さんも木下さんも今の場所から動けない。鞄から冊子を取り出す。雪乃さんが物語に込めた想い。小さくその冊子の表紙を撫でると不思議と勇気が湧いてくる気がした。
「それでは、始めます」
息を吸い込む。まず思い浮かべるのは少年時代。自信のない小学生くらいの男の子の姿。
「あの頃の僕には何もなかった。勉強もスポーツも誰よりもできなかったし、顔もパッとしない。優しいのが取り柄だなんていう人はいたけど、それは何もないことの同義だったと思う。友達といて時折感じるのは僕を見てほっと安心する姿。それは落ち着くとかそういうものじゃなくて、こいつよりはマシだという歪んだ安堵。唐突に飛んでくる嘲るような視線」
少しだけ吐き捨てるように読み上げる。主人公の気持ちになり切ろうとすると胃袋の辺りをぐわりと締め付けられるような感じがする。だけど、それに抗わない。それが全ての原点だ。
「見下したような視線は嫌いだったけど、それで誰かの気が済むなら別にいいかと思っていた。それに、僕にはただ一人だけ傍にいてくれれば十分だった。幼馴染の遥奈、彼女だけは僕を自分が安心するためだけの道具には使わず、純粋に友達としての笑顔を僕に見せてくれた。『まーくんが優しいままだったら、大きくなってもずっと一緒にいる』幼い約束だったけど、遥奈のその言葉を思い浮かべるだけで他の何も必要なかった」
陽だまりのような笑顔を浮かべる遥奈。それが、主人公が前を向いて生きるための全てだった。遥奈の存在が主人公を支えていて、それは一種の依存であり、変わらないままでいいという甘えでもあった。
「中学生になっても僕を取り巻く環境は変わらない。僕を見て安心する同級生たちと、僕を安心させてくれる遥奈の存在。このまま段々と大人になって、幼き日の約束のままいつか遥奈と一緒に生きていくのだろうと思ってた」
そっと道尾さんの顔を見る。表情には何も変わらない。ただこの時間が流れ過ぎる事だけを待っているようだ。冊子に視線を戻してふっと息を吐く。転調。
「だけど、そんな願望にも近い約束はあっさりと暗転した。ある休日、遥奈が知らない男子と街中を歩いているのを見かけた。翌日学校に行くと、その相手が文武両道にイケメンと僕に足りないものを全て持ち合わせた校内でも有名な男子生徒だったと知った。遥奈とその男子生徒が付き合っているという噂とともに」
道尾さんの目がスッと細められる。何かを見定めるように僕の口元と冊子を視線が行き来した。思わず竦みそうになってしまうけど、ちゃんと物語を聞いてくれているのだと前向きにとらえる。
「その日から、遥奈と話すことはなくなった。『まーくん』と明るく呼びかける彼女の声は記憶の中だけのものになった。唯一大切にしていたものを失って、僕からは何もなくなった」
目を閉じて、深呼吸をする。それでも息苦しくなって、酸素の無くなった水中から顔を出すように目を開く。真っすぐと道尾さんのことを見る。
「不思議と僕の心に残ったのは寂しさでも切なさでもなく、見返してやりたいという気持ちだった。僕を下に見ることで安堵してきたクラスメイトたちを。あまりにも呆気なく僕から離れていってしまった遥奈を」
その瞬間から主人公の色が変わる。ただ一色に染まればよかった白色から、何者にも染まらず周りのものを染めてしまう黒色へ。
「高校は地元から離れた場所を選んだ。僕のことを知る人がいない場所で僕は生まれ変わりを始めた。勉強もスポーツも苦手だからと遠ざけていたものに時間という時間をささげた。気にしたこともなかった身だしなみに気をつかうようにした。性格だけはすぐには変わらなかったけど、勉強やスポーツの結果が出てくると段々とそれに紐づくように太くなっていった」
大学に進むころには、主人公からかつての「まーくん」の気配はなくなっていた。まるで遥奈の隣を歩いていた男子学生の影を追いかけるように自分を作り替えていく。何かに結果を出していくにつれ、在りし日のまーくんを一欠片ずつ捨てていく。
「大学を卒業して社会人になる頃には、自分が何のために頑張っていたのかも忘れていた。誰もが名前を知っているような大企業に就職したけど、地元にはもう何年も帰っていない。風の便りで中学の時の遥奈の噂は噂でしかなかったと聞いたけど、今の僕には関係なくなってしまっていた。目的の為に背負ってしまった役割にただ引きずられていく生きていく毎日」
働くということがどういうことなのか、僕はまだよくわかっていない。働いた経験なんてバイトだけだし、今の言の葉デリバリーも、一つ前の弁当の宅配も一番の新参者だからある意味では気楽だった。
入部してすぐにエースとなった道尾さんがエースであり続けるためにどれだけの努力を積んできたのだろう。何がそれだけ道尾さんを頑張らせてきたのだろう。それは多分、不調の原因と表裏の関係なのだと思う。
「虚しさを埋めるように、僕は寄付だとか支援だとかにのめり込んだ。事業失敗とか倒産寸前とか、困っているベンチャーなんかを調べもせずに投資した。それはほとんど気まぐれで、利益なんてこれっぽっちも考えていない無茶な支援。ありのままで生きていただけで優しいと言われたあの頃を懐かしむための自己満足だった」
ポツリポツリと言葉を吐き出していく。そんな言葉とともに重いため息が混じって溢れた。そして、自嘲的な笑みが浮かぶ。きっとこの時の主人公はそんな顔をしていたはずだ。
冊子のページをめくる。再び転調――あるいは転落。
「そんな僕が全てを失うのは突然だった」
しんとした部屋に言葉を落とす。
「交通事故、飲酒運転の車が歩道に突っ込んできて、どうすることもできなかった。病室で意識を取り戻したとき、僕の顔や体は事故の後遺症でボロボロになっていた。そして、僕が立ち上げた会社は、最近の僕の無茶な投資に反対していた人たちに乗っ取られていた。居場所はもう、どこにもなかった」
道尾さんから表情がなくなっていた。それは、無表情という表情だった。
僕はそこに色を付けなければいけない。何色を選ぶかは道尾さん次第だけど、きっと選んだ色がそのまま道標になるはずだから。
「ただ病室で生きているとも死んでいるともわからない日々を過ごしていた。そんな僕の元に一人の女性がやってきた。その女性の会社の事業拡大に合わせて僕を雇いたいということらしい。『今の僕には何もないんです』きっと女性は失望して帰っていくだろうなと思いながら自嘲気味に言い放つ。僕は資金も能力も事故で失っていた。」
だけど、女性は帰らない。その女性の会社は主人公のかつての支援で倒産寸前のところから立ち直ったという。けれど、主人公は首を横に振る。所詮それはただの気まぐれで誰かを思いやった行為ではなくて、だから恩返しなど受ける理由がないと。
「『気まぐれでも何でも、その優しさがこれからの私に必要だから』それでも女性は食い下がる」
ただ単に、困ってそうだからとろくに調べずに支援した会社のはずだった。だけど、その言葉で主人公はようやく女性が誰か気づく。ずっと優しいままだったら、かつて全てだった言葉。
「『まーくんはあの頃から何も変わってないんだね』」
女性は――遥奈は泣き笑いのような表情でそっと主人公の手を取った。
「『気づいた時にはどんどんまーくんの存在が遠くなって、私じゃ追いつけないやって思ってたけど。私は昔の約束、ずっとずっと覚えてるよ?』」
冊子を閉じる。
その言葉で、雪乃さんの書いた冊子は終わりを迎える。
どれだけ道尾さんに届けることができただろうか。冊子から顔をあげると道尾さんは痛そうな顔を浮かべていた。それがいいのか悪いのか、すぐには判断できなかった。ただじっと道尾さんの言葉を待つ。
「ご都合主義だな」
ようやく口を開いた道尾さんの言葉は容赦なかった。痛そうな顔のまま道尾さんはそう言い放って、なおさら痛そうに脇腹の辺りを抑える。
僕も雪乃さんも道尾さんの悩みに意識が向きすぎて、本来あるべき物語の形を見失ってしまっていただろうか。
「全てを失った主人公のところに颯爽と現れるヒロインなんて、夢物語だ」
道尾さんの言葉に僕はなにも言い返せない。だって僕たちは夢物語を描いていた。それは決して、ピンチになったら訪れる王子様的なヒロインのことではないけれど。
そのことを直接伝えるべきか迷っているうちに道尾さんは一つ息をついて立ち上がる。右手で首を抑えてゴキゴキと鳴らした。
「照乃には上手く言っておくから。仕事が終わったなら帰ってくれ」
そのまま捲し立てられるように玄関の方へと追いやられる。物語を話しきってしまった以上、その言葉に従うしかなくてあっという間に玄関の外に追い出された。せっかく雪乃さんが書いてくれた物語だったけど、僕では力不足だったのか。
「……何もなかった昔のまま、か」
ポツリと道尾さんの呟きが聞こえた。ハッとして振り返ると道尾さんは何かを考え込むかのように通路越しの空を見つめている。
けれどすぐに我に返ったように詰まらなさそうな顔をその顔に浮かべてしまい、道尾さんが何を考えていたかはわからなかった。
「お前さ、恭太の友達なんだろ。来週の駅伝、ローカルだけど中継も入るからテレビで応援してやってくれよ」
ドアを閉める途中で道尾さんが放った言葉にぎくりとする。道尾さんの前で恭太の話をした記憶はないのだけど。
「あの、何で僕と恭太のことを……」
「この前の練習の時にさ、恭太が友達から俺のこと聞かれたって言いだすから。タイミング的に俺のことを聞きたがるやつなんてお前しかありえないだろうなって」
そういえば、恭太に何の口止めもしてなかった。呆れたようにため息をついた道尾さんの顔に苦笑が浮かぶ。
「恭太の奴、陸上部の外にもいい友達をもってんだな」
その言葉の意味を聞く前にドアが閉まり、西に傾き始めた夏の空に一人取り残された。
「おう」
道尾さんの部屋を訪れたのはちょうど木下さんの話を聞いてから5日後だった。扉の向こうから顔を出した道尾さんは前回会ってから一週間も経ってないけど、心なしかやつれて見える。
前回同様ローテーブルに向かい合って座る。向かいに座った道尾さんからすっと鋭い視線を向けられると、それだけで室内にピリッとした緊張感が走る。
「それで、俺に必要な物語ってのは出来たのか?」
「はい。できました」
震えそうになる指先を握りしめて道尾さんの視線を受け止める。
木下さんと話した日の夜、物語を書き直し始めた雪乃さんは一時間くらいで話を書き終えた。それから道尾さんの約束が取れるまでの間、僕はひたすらその物語を読み込んだ。それはなにか凄い突飛な物語というわけではない。だけど、雪乃さんはそこに道尾さんが必要とするものを詰めたはずだ。
僕がするべきことは、それを信じるだけだった。
「まあ、別にどっちでもいいけどな」
道尾さんの視線は少し冷めているように見えた。
「今回の話がどうであれ、照乃には上手くやってもらったと説明しておく。それでお互いあと腐れなく終わるだけだ」
奥歯をぐっと噛みしめる。そうなってしまったら何も変わらない。いや、僕らの役目は終わるのかもしれないけど、それでは道尾さんも木下さんも今の場所から動けない。鞄から冊子を取り出す。雪乃さんが物語に込めた想い。小さくその冊子の表紙を撫でると不思議と勇気が湧いてくる気がした。
「それでは、始めます」
息を吸い込む。まず思い浮かべるのは少年時代。自信のない小学生くらいの男の子の姿。
「あの頃の僕には何もなかった。勉強もスポーツも誰よりもできなかったし、顔もパッとしない。優しいのが取り柄だなんていう人はいたけど、それは何もないことの同義だったと思う。友達といて時折感じるのは僕を見てほっと安心する姿。それは落ち着くとかそういうものじゃなくて、こいつよりはマシだという歪んだ安堵。唐突に飛んでくる嘲るような視線」
少しだけ吐き捨てるように読み上げる。主人公の気持ちになり切ろうとすると胃袋の辺りをぐわりと締め付けられるような感じがする。だけど、それに抗わない。それが全ての原点だ。
「見下したような視線は嫌いだったけど、それで誰かの気が済むなら別にいいかと思っていた。それに、僕にはただ一人だけ傍にいてくれれば十分だった。幼馴染の遥奈、彼女だけは僕を自分が安心するためだけの道具には使わず、純粋に友達としての笑顔を僕に見せてくれた。『まーくんが優しいままだったら、大きくなってもずっと一緒にいる』幼い約束だったけど、遥奈のその言葉を思い浮かべるだけで他の何も必要なかった」
陽だまりのような笑顔を浮かべる遥奈。それが、主人公が前を向いて生きるための全てだった。遥奈の存在が主人公を支えていて、それは一種の依存であり、変わらないままでいいという甘えでもあった。
「中学生になっても僕を取り巻く環境は変わらない。僕を見て安心する同級生たちと、僕を安心させてくれる遥奈の存在。このまま段々と大人になって、幼き日の約束のままいつか遥奈と一緒に生きていくのだろうと思ってた」
そっと道尾さんの顔を見る。表情には何も変わらない。ただこの時間が流れ過ぎる事だけを待っているようだ。冊子に視線を戻してふっと息を吐く。転調。
「だけど、そんな願望にも近い約束はあっさりと暗転した。ある休日、遥奈が知らない男子と街中を歩いているのを見かけた。翌日学校に行くと、その相手が文武両道にイケメンと僕に足りないものを全て持ち合わせた校内でも有名な男子生徒だったと知った。遥奈とその男子生徒が付き合っているという噂とともに」
道尾さんの目がスッと細められる。何かを見定めるように僕の口元と冊子を視線が行き来した。思わず竦みそうになってしまうけど、ちゃんと物語を聞いてくれているのだと前向きにとらえる。
「その日から、遥奈と話すことはなくなった。『まーくん』と明るく呼びかける彼女の声は記憶の中だけのものになった。唯一大切にしていたものを失って、僕からは何もなくなった」
目を閉じて、深呼吸をする。それでも息苦しくなって、酸素の無くなった水中から顔を出すように目を開く。真っすぐと道尾さんのことを見る。
「不思議と僕の心に残ったのは寂しさでも切なさでもなく、見返してやりたいという気持ちだった。僕を下に見ることで安堵してきたクラスメイトたちを。あまりにも呆気なく僕から離れていってしまった遥奈を」
その瞬間から主人公の色が変わる。ただ一色に染まればよかった白色から、何者にも染まらず周りのものを染めてしまう黒色へ。
「高校は地元から離れた場所を選んだ。僕のことを知る人がいない場所で僕は生まれ変わりを始めた。勉強もスポーツも苦手だからと遠ざけていたものに時間という時間をささげた。気にしたこともなかった身だしなみに気をつかうようにした。性格だけはすぐには変わらなかったけど、勉強やスポーツの結果が出てくると段々とそれに紐づくように太くなっていった」
大学に進むころには、主人公からかつての「まーくん」の気配はなくなっていた。まるで遥奈の隣を歩いていた男子学生の影を追いかけるように自分を作り替えていく。何かに結果を出していくにつれ、在りし日のまーくんを一欠片ずつ捨てていく。
「大学を卒業して社会人になる頃には、自分が何のために頑張っていたのかも忘れていた。誰もが名前を知っているような大企業に就職したけど、地元にはもう何年も帰っていない。風の便りで中学の時の遥奈の噂は噂でしかなかったと聞いたけど、今の僕には関係なくなってしまっていた。目的の為に背負ってしまった役割にただ引きずられていく生きていく毎日」
働くということがどういうことなのか、僕はまだよくわかっていない。働いた経験なんてバイトだけだし、今の言の葉デリバリーも、一つ前の弁当の宅配も一番の新参者だからある意味では気楽だった。
入部してすぐにエースとなった道尾さんがエースであり続けるためにどれだけの努力を積んできたのだろう。何がそれだけ道尾さんを頑張らせてきたのだろう。それは多分、不調の原因と表裏の関係なのだと思う。
「虚しさを埋めるように、僕は寄付だとか支援だとかにのめり込んだ。事業失敗とか倒産寸前とか、困っているベンチャーなんかを調べもせずに投資した。それはほとんど気まぐれで、利益なんてこれっぽっちも考えていない無茶な支援。ありのままで生きていただけで優しいと言われたあの頃を懐かしむための自己満足だった」
ポツリポツリと言葉を吐き出していく。そんな言葉とともに重いため息が混じって溢れた。そして、自嘲的な笑みが浮かぶ。きっとこの時の主人公はそんな顔をしていたはずだ。
冊子のページをめくる。再び転調――あるいは転落。
「そんな僕が全てを失うのは突然だった」
しんとした部屋に言葉を落とす。
「交通事故、飲酒運転の車が歩道に突っ込んできて、どうすることもできなかった。病室で意識を取り戻したとき、僕の顔や体は事故の後遺症でボロボロになっていた。そして、僕が立ち上げた会社は、最近の僕の無茶な投資に反対していた人たちに乗っ取られていた。居場所はもう、どこにもなかった」
道尾さんから表情がなくなっていた。それは、無表情という表情だった。
僕はそこに色を付けなければいけない。何色を選ぶかは道尾さん次第だけど、きっと選んだ色がそのまま道標になるはずだから。
「ただ病室で生きているとも死んでいるともわからない日々を過ごしていた。そんな僕の元に一人の女性がやってきた。その女性の会社の事業拡大に合わせて僕を雇いたいということらしい。『今の僕には何もないんです』きっと女性は失望して帰っていくだろうなと思いながら自嘲気味に言い放つ。僕は資金も能力も事故で失っていた。」
だけど、女性は帰らない。その女性の会社は主人公のかつての支援で倒産寸前のところから立ち直ったという。けれど、主人公は首を横に振る。所詮それはただの気まぐれで誰かを思いやった行為ではなくて、だから恩返しなど受ける理由がないと。
「『気まぐれでも何でも、その優しさがこれからの私に必要だから』それでも女性は食い下がる」
ただ単に、困ってそうだからとろくに調べずに支援した会社のはずだった。だけど、その言葉で主人公はようやく女性が誰か気づく。ずっと優しいままだったら、かつて全てだった言葉。
「『まーくんはあの頃から何も変わってないんだね』」
女性は――遥奈は泣き笑いのような表情でそっと主人公の手を取った。
「『気づいた時にはどんどんまーくんの存在が遠くなって、私じゃ追いつけないやって思ってたけど。私は昔の約束、ずっとずっと覚えてるよ?』」
冊子を閉じる。
その言葉で、雪乃さんの書いた冊子は終わりを迎える。
どれだけ道尾さんに届けることができただろうか。冊子から顔をあげると道尾さんは痛そうな顔を浮かべていた。それがいいのか悪いのか、すぐには判断できなかった。ただじっと道尾さんの言葉を待つ。
「ご都合主義だな」
ようやく口を開いた道尾さんの言葉は容赦なかった。痛そうな顔のまま道尾さんはそう言い放って、なおさら痛そうに脇腹の辺りを抑える。
僕も雪乃さんも道尾さんの悩みに意識が向きすぎて、本来あるべき物語の形を見失ってしまっていただろうか。
「全てを失った主人公のところに颯爽と現れるヒロインなんて、夢物語だ」
道尾さんの言葉に僕はなにも言い返せない。だって僕たちは夢物語を描いていた。それは決して、ピンチになったら訪れる王子様的なヒロインのことではないけれど。
そのことを直接伝えるべきか迷っているうちに道尾さんは一つ息をついて立ち上がる。右手で首を抑えてゴキゴキと鳴らした。
「照乃には上手く言っておくから。仕事が終わったなら帰ってくれ」
そのまま捲し立てられるように玄関の方へと追いやられる。物語を話しきってしまった以上、その言葉に従うしかなくてあっという間に玄関の外に追い出された。せっかく雪乃さんが書いてくれた物語だったけど、僕では力不足だったのか。
「……何もなかった昔のまま、か」
ポツリと道尾さんの呟きが聞こえた。ハッとして振り返ると道尾さんは何かを考え込むかのように通路越しの空を見つめている。
けれどすぐに我に返ったように詰まらなさそうな顔をその顔に浮かべてしまい、道尾さんが何を考えていたかはわからなかった。
「お前さ、恭太の友達なんだろ。来週の駅伝、ローカルだけど中継も入るからテレビで応援してやってくれよ」
ドアを閉める途中で道尾さんが放った言葉にぎくりとする。道尾さんの前で恭太の話をした記憶はないのだけど。
「あの、何で僕と恭太のことを……」
「この前の練習の時にさ、恭太が友達から俺のこと聞かれたって言いだすから。タイミング的に俺のことを聞きたがるやつなんてお前しかありえないだろうなって」
そういえば、恭太に何の口止めもしてなかった。呆れたようにため息をついた道尾さんの顔に苦笑が浮かぶ。
「恭太の奴、陸上部の外にもいい友達をもってんだな」
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