19 / 47
第1章
【対応記録:第19回】
しおりを挟む火曜日の午前九時。
都心の空を突き刺すようにそびえ立つアガレス・リソース本社ビルは、かつてない静寂に包まれていた。
全面ガラス張りの外観は相変わらず端正だが、その内部は「全停止」していた。地下ダンジョンからの魔力供給が途絶えたことで、空調は止まり、照明は非常用の薄暗い赤色に切り替わり、何よりエレベーターがただの鉄の箱と化していた。
「……九時ちょうどですね。おはようございます、佐藤さん。今日も定時退社を目指して、効率的に進めましょう」
久我は、自席……ではなく、アガレス・リソース本社ビルのロビーに設置された特設の「紛争解決窓口」で、悠然と時計を確認した。
隣では、佐藤が真っ青な顔でタブレットを抱え、ガタガタと震えている。
「く、久我さん。定時退社どころの話じゃないですよ! 見てください、外を! アガレス社の株価はストップ安、ギルド上層部からは『今すぐ魔物を動かせ』って一分おきに催促の電話が来てるんですよ!」
「佐藤さん、慌てないでください。電話の受話器を置く勇気も、プロには必要です。……彼ら(魔物)は今、正当な権利を行使している最中なのですから」
久我の足元では、クラが三つの首を器用に使い、ロビーの警備員たちが不穏な動きを見せないか監視していた。デスクの上では、コトがシルクハットから取り出した「鑑定の老眼鏡」をかけ、成瀬社長が徹夜で書き上げたであろう「改善計画書(仮)」の束を、厳しい目査でチェックしている。
「……おじさん、この計画書、全然ダメだね。想い出の欠片も入ってない。ただの『数字の書き換え』だよ。こんなのじゃ、ゴーレムたちは納得しないよ」
「左様ですか。……では、コト君。そのまま赤ペンで修正を入れておいてください」
そこへ、階段を駆け下りてきた成瀬社長が、なりふり構わず久我のデスクに詰め寄った。
かつての自信に満ちた面影はない。ネクタイは曲がり、髪は乱れ、その瞳には焦燥と怒りが混濁している。
「久我ぁ! 貴様、何をした! 魔物たちが一歩も、指一本動かそうとしない! 鎮圧部隊を送り込もうとしたが、地下の魔素圧が高すぎて扉さえ開かないんだぞ!」
「成瀬社長。おはようございます。まずは落ち着いて、深呼吸を。……鎮圧部隊の派遣は、今の状況では『火に油を注ぐ』行為です。……彼らが求めているのは、暴力的な制圧ではなく、誠実な『団体交渉』です」
「団体交渉だと!? バケモノ相手に何を言っている! 契約書も判子もない奴らと、何の交渉ができる!」
久我は、ブリーフケースから一通の書類を取り出した。
それは、ギルドの公式な書式を久我が独自に改変した「魔物労働基準・暫定協定書」だった。
「判子は必要ありません。……必要なのは、あなたの『合意』です。……成瀬社長。彼らの要求は極めてシンプルです。一日八時間の『完全沈黙(睡眠)』時間の確保。一週間に一日の『魔素充填休職』。そして、地下フロアの換気システムの抜本的な改善。……これらは生命体としての最低限の権利です」
「ふざけるな! そんなことを認めれば、魔力産出量はこれまでの半分以下になる! 株主になんと説明すればいい!」
「株主に説明する言葉がないからといって、お客様……いえ、現場の労働力を使い潰して良いという理屈は通りません」
久我の声は、冷徹なまでに冷静だった。
彼は成瀬の瞳を真っ向から見据え、かつてのブラック企業で死んでいった同僚たちの顔を思い浮かべていた。
「成瀬社長。あなたは『魔物は資源だ』と仰いましたね。……ですが、資源であっても、管理を怠れば腐敗し、汚染を引き起こします。……今、地下十五階で起きているのは、長年の不備による『感情のオーバーフロー』です。……彼らは今、私の指示で魔力の出力を『内側に』向けています。……わかりますか? ダムが決壊する寸前の状態を、彼らは自らの意志で維持しているのです」
「……なっ」
「交渉が決裂した場合、彼らは出力を解放します。……そうなれば、このビルは地下から消滅し、大手町一帯に未曾有の魔力汚染が広がります。……その時、株主に何と説明されますか? 『事務屋の正論を聞かなかったせいで、会社が消し飛びました』とでも?」
成瀬は、膝から崩れ落ちそうになった。
暴力でも、魔法でもない。ただの「数字」と「論理」によって、自らの帝国が脆くも崩れようとしている事実に、ようやく気づいたのだ。
その時、地下から「グォォォォ……」という、低い、地鳴りのような響きが上がってきた。
それは怒号ではない。まるで、全員で呼吸を合わせ、タイミングを図っているかのような、規則正しい振動。
「……彼らが、回答を待っています。成瀬社長。……サインをいただけますか。それとも、このまま『全社解散』の道を選ばれますか?」
久我は、一本の高級な万年筆を差し出した。
成瀬の震える手が、それを掴んだ。
ロビーを囲むガードマンたちも、ギルドから派遣された監査官たちも、ただ息を呑んでその様子を見守るしかなかった。
「……わ、わかった。サインする。……だから、今すぐあの唸り声を止めさせてくれ」
成瀬が、泣きそうな顔で協定書に名前を書き込んだ。
その瞬間、久我はクラに合図を送った。
(ワンッ! みんな、合意だよ! おじさんが、お休みを勝ち取ってくれたよ!)
クラの三つの首が同時に咆哮し、その魔力波動が地下深くへと浸透していく。
直後、ビルの底から響いていた不気味な振動が、ふっと消えた。
同時に、非常灯だった赤い照明が消え、ロビーに明るい白光が戻ってきた。空調が静かに動き出し、止まっていたエレベーターが、チン、と軽やかな音を立てて一階に到着した。
「……交渉成立、ですね」
久我は、成瀬から受け取った協定書を丁寧にクリアファイルに収めた。
「成瀬社長。これで終わりではありません。明日から、私は『第三者委員』として、この地下フロアの環境改善を逐一チェックさせていただきます。……あ、もちろん、私のコンサルティング費用はギルドを通して正式に請求させていただきますので、悪しからず」
「……貴様、それでも人間か」
成瀬の毒づきに、久我は完璧なビジネススマイルで答えた。
「はい。私は、誰よりも人間らしい生活……特に『定時退社』を愛する、ただの事務員ですよ」
久我は、呆然とする成瀬を背に、クラとコトを連れて出口へと歩き出した。
「佐藤さん。まだ十時半です。……残りの時間は、ギルドに戻って今回の事案の『改善実績レポート』を作成しましょう。……これ、他部署への良い牽制になりますよ」
「……久我さん。僕、一生あなたについていきます。……でも、一つだけ言わせてください。……魔物の労働基準法って、世界であなたしか使ってませんからね!」
地下三階の「ゴミ溜め」と呼ばれた部署が、企業の闇を一つ、事務的な正論で飲み込んだ。
久我は、青く晴れ渡った大手町の空を見上げ、短く息を吐いた。
定時までは、まだたっぷり時間がある。
彼の次なる仕事は、この勝利を「前例」として、組織の歪みをさらにハックすることだった。
11
あなたにおすすめの小説
僕の秘密を知った自称勇者が聖剣を寄越せと言ってきたので渡してみた
黒木メイ
ファンタジー
世界に一人しかいないと言われている『勇者』。
その『勇者』は今、ワグナー王国にいるらしい。
曖昧なのには理由があった。
『勇者』だと思わしき少年、レンが頑なに「僕は勇者じゃない」と言っているからだ。
どんなに周りが勇者だと持て囃してもレンは認めようとしない。
※小説家になろうにも随時転載中。
レンはただ、ある目的のついでに人々を助けただけだと言う。
それでも皆はレンが勇者だと思っていた。
突如日本という国から彼らが転移してくるまでは。
はたして、レンは本当に勇者ではないのか……。
ざまぁあり・友情あり・謎ありな作品です。
※小説家になろう、カクヨム、ネオページにも掲載。
ギャルい女神と超絶チート同盟〜女神に贔屓されまくった結果、主人公クラスなチート持ち達の同盟リーダーとなってしまったんだが〜
平明神
ファンタジー
ユーゴ・タカトー。
それは、女神の「推し」になった男。
見た目ギャルな女神ユーラウリアの色仕掛けに負け、何度も異世界を救ってきた彼に新たに下った女神のお願いは、転生や転移した者達を探すこと。
彼が出会っていく者たちは、アニメやラノベの主人公を張れるほど強くて魅力的。だけど、みんなチート的な能力や武器を持つ濃いキャラで、なかなか一筋縄ではいかない者ばかり。
彼らと仲間になって同盟を組んだユーゴは、やがて彼らと共に様々な異世界を巻き込む大きな事件に関わっていく。
その過程で、彼はリーダーシップを発揮し、新たな力を開花させていくのだった!
女神から貰ったバラエティー豊かなチート能力とチートアイテムを駆使するユーゴは、どこへ行ってもみんなの度肝を抜きまくる!
さらに、彼にはもともと特殊な能力があるようで……?
英雄、聖女、魔王、人魚、侍、巫女、お嬢様、変身ヒーロー、巨大ロボット、歌姫、メイド、追放、ざまあ───
なんでもありの異世界アベンジャーズ!
女神の使徒と異世界チートな英雄たちとの絆が紡ぐ、運命の物語、ここに開幕!
※不定期更新。
※感想やお気に入り登録をして頂けますと、作者のモチベーションがあがり、エタることなくもっと面白い話が作れます。
【完結】『飯炊き女』と呼ばれている騎士団の寮母ですが、実は最高位の聖女です
葉桜鹿乃
恋愛
ルーシーが『飯炊き女』と、呼ばれてそろそろ3年が経とうとしている。
王宮内に兵舎がある王立騎士団【鷹の爪】の寮母を担っているルーシー。
孤児院の出で、働き口を探してここに配置された事になっているが、実はこの国の最も高貴な存在とされる『金剛の聖女』である。
王宮という国で一番安全な場所で、更には周囲に常に複数人の騎士が控えている場所に、本人と王族、宰相が話し合って所属することになったものの、存在を秘する為に扱いは『飯炊き女』である。
働くのは苦では無いし、顔を隠すための不細工な丸眼鏡にソバカスと眉を太くする化粧、粗末な服。これを襲いに来るような輩は男所帯の騎士団にも居ないし、聖女の力で存在感を常に薄めるようにしている。
何故このような擬態をしているかというと、隣国から聖女を狙って何者かが間者として侵入していると言われているためだ。
隣国は既に瘴気で汚れた土地が多くなり、作物もまともに育たないと聞いて、ルーシーはしばらく隣国に行ってもいいと思っているのだが、長く冷戦状態にある隣国に行かせるのは命が危ないのでは、と躊躇いを見せる国王たちをルーシーは説得する教養もなく……。
そんな折、ある日の月夜に、明日の雨を予見して変装をせずに水汲みをしている時に「見つけた」と言われて振り向いたそこにいたのは、騎士団の中でもルーシーに優しい一人の騎士だった。
※感想の取り扱いは近況ボードを参照してください。
※小説家になろう様でも掲載予定です。
嵌められたオッサン冒険者、Sランクモンスター(幼体)に懐かれたので、その力で復讐しようと思います
ゆさま
ファンタジー
ベテランオッサン冒険者が、美少女パーティーにオヤジ狩りの標的にされてしまった。生死の境をさまよっていたら、Sランクモンスターに懐かれて……。
懐いたモンスターが成長し、美女に擬態できるようになって迫ってきます。どうするオッサン!?
【完結】スーパーの店長・結城偉介 〜異世界でスーパーの売れ残りを在庫処分〜
かの
ファンタジー
世界一周旅行を夢見てコツコツ貯金してきたスーパーの店長、結城偉介32歳。
スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。
偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。
スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!
冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!
アイテムボックスの最も冴えた使い方~チュートリアル1億回で最強になったが、実力隠してアイテムボックス内でスローライフしつつ駄竜とたわむれる~
うみ
ファンタジー
「アイテムボックス発動 収納 自分自身!」
これしかないと思った!
自宅で休んでいたら突然異世界に拉致され、邪蒼竜と名乗る強大なドラゴンを前にして絶対絶命のピンチに陥っていたのだから。
奴に言われるがままステータスと叫んだら、アイテムボックスというスキルを持っていることが分かった。
得た能力を使って何とかピンチを逃れようとし、思いついたアイデアを咄嗟に実行に移したんだ。
直後、俺の体はアイテムボックスの中に入り、難を逃れることができた。
このまま戻っても捻りつぶされるだけだ。
そこで、アイテムボックスの中は時間が流れないことを利用し、チュートリアルバトルを繰り返すこと1億回。ついにレベルがカンストする。
アイテムボックスの外に出た俺はドラゴンの角を折り、危機を脱する。
助けた竜の巫女と共に彼女の村へ向かうことになった俺だったが――。
無属性魔法しか使えない少年冒険者!!
藤城満定
ファンタジー
「祝福の儀式」で授かった属性魔法は無属性魔法だった。無属性と書いてハズレや役立たずと読まれている属性魔法を極めて馬鹿にしてきた奴らの常識を覆して見返す「ざまあ」系ストーリー。
不定期投稿作品です。
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる