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14、トゲが落ちて〈累目線〉

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 そして、音楽祭当日。

 午前十時から始まるプログラムは様々だ。大ホールでは、学生オーケストラの公演が行われ、普段は授業で使用される教室も、今日ばかりは華々しいステージへと姿を変えている。萌香と多香子の案内で、朝一のキャンパス内を見て回ったのだが、普段オーケストラや合唱の練習で使用される大教室にはステージが姿を現し、ずらりと椅子が並べられ、さながら本物のコンサートホールのような設えであった。

 また、普段は学生たちが自由に寛いで過ごすことのできるラウンジがあるのだが、そこでも今日は様々なイベントが行われるらしい。ハロウィンが近いとういこともあり、そこだけは少し砕けた印象の装飾だった。窓には黒いカーテンがかかり、キラキラしたコウモリ型の飾りが天井からぶら下がっている。床にはジャックオランタンや魔女のオブジェが飾られていた。
 窓をバックにした小さなステージには、ドラムセットやアンプが既に置かれている。なるほどここではハロウィンパーティーが開かれるのだろう。

 中庭のそこここでは、突然のようにゲリラライブが始まったりもするらしい。萌香の説明を聞いているだけで、わくわくと胸が弾んだ。

 累と外を出歩けたことが嬉しいといって、萌香も多香子もいつもよりテンションが高かった。レッスン中はなんとなく雑談をしにく雰囲気だが、今日は祭りの本番だ。女子大生ふたりのお喋りに付き合って、累もドイツでの暮らしについての話や、音楽以外のことはまるでダメは母親の話などを語ってみた。すると二人はきゃっきゃと楽しそうに笑ってくれ、朝から少しだけ緊張していた累の気持ちも解れてゆく。あちこちで写真を撮ったり撮られたりしているうちに時間が経ち、累はようやく控え室に戻ってきた。

 累はゲスト扱いだが、当然個室と言うわけにはいかないので、スペースは賢二郎と共有だ。今日の舞台は、大学内に四つある中ホールの一つである。ホールの最大収容可能人数は八十人。ホールの裏には男女分かれて使えるよう二つの控え室まで作られている。控え室はそれほど広い部屋ではないが、姿見と化粧台などもセットされているので使い勝手が良く、ありがたい。

 多香子らと別れ累が控え室に戻ると、賢二郎はちょうど私服のシャツを脱いでいるところだ。ノックもなしに突然ドアを開けたのが悪かったらしく、「いきなり入ってくんなや!!」と怒られた。

「すっ、すみません! もっと遅く来られるのかと思って」
「ふん。僕はステージ前の準備は怠らへんほうやねん」
「そうですか、さすがです」
「うっさい。君もさっさと着替えなあかんで」
「はい」

 賢二郎の言う通り、そろそろリハーサルに入らねばならない。累らのステージは午前11時からである。
 持参したキャリーケースの中から舞台用の衣装を出し、累も着替えることにした。正装は久しぶりなので、スーツ用のシャツを身に馴染ませておきたい。

 何の頓着もなく私服を脱ぎ捨て上半身裸になり、そのままさっさとズボンまで脱いでしまう。ボクサーパンツ一枚と言う格好でスーツカバーを開き、中からワイシャツを取り出していると……化粧台に並んだ二枚の鏡に、微動だにせず累のほうを見ている賢二郎の姿が写っている。何か用事かと思い、累はくるりと後ろを振り返った。すると賢二郎が、ぎょっとしたように顔を引きつらせ、さっと目線を逸らす。

「何ですか?」
「えっ? あ、いや、別に?」
「? 何か忘れ物でもしたんですか? 貸せるものがあれば……」
「ちゃ、ちゃうわ!! ……いや、高一のくせにエエ身体してんなと思っただけやし。さすがハーフやな」

 確かに、ここ一年でぐっと筋肉質な身体になったなという自覚はある。持久力をつけるために始めたランニングは、ドイツでも欠かさず行っていたし、水泳も続けている。ただでさえ、ヴァイオリンを長時間支えて弓を引き続けるには、そうとうな体力が必要だ。
 これまで続けてきたことの成果が出てきたのか、すくすくと伸びた手足には筋肉が備わり、背筋や腹筋もしなやかなラインを描いている。本当はもっとムキムキした男らしい身体になりたいところだが、無理な筋トレなどをすることは母親から禁じられている。

「本当はもっと逞しい身体になりたいんですが」
「はぁ? 贅沢言いなや。背ぇもそんな伸びて、羨ましい」
「石ケ森さんは……えーと……小柄、ですよね」
「……チッ」

 自分よりも一回りほど小さい石ケ森を傷つけないように日本語を選んだつもりだったが、賢二郎はブスッとした顔で舌打ちをした。何かマズいことを言ってしまったらしいと流石に気づいた累は、素っ裸だった上半身にそっとシャツを羽織った。

「すみません……」
「ハァ、これやから何でも持ってて恵まれとる奴は」
「……すみません。でも、石ケ森さんは小が……スタイルもいいし顔だってきれいだし、ヴァイオリンも上手くて十分恵まれてると思うんですけど」
「……はァ?」

 いたたまれなさに苛まれながらも、累は常日頃から思っていたことを口にした。すると賢二郎はしばしぽかんと呆けた顔をした後、ぶわわっと顔を真っ赤に染め上げた。

「はっ!? な、何なん急に!? 天才クンにそんなん言われてもなぁ、ただの嫌味にしか聞こえへんねんん!」
「す、すみません。そんなつもりじゃないんですが……」
「はぁ……なんやねん自分……」

 中途半端に着替えたままの格好で、賢二郎は長い長いため息をつき、どさりとソファに腰を落とした。前が空いたままの白いシャツと、ベルトも通してないスラックスという格好でうなだれている。

「君はほんまに、下々の者の気持ちがわかれへんねやな」
「しもじも?」
「僕はな、子どもの頃に初めてコンクールで負けた日から、君のことが大嫌いやった。どれだけ練習しても、君の音が頭から離れへんくて……めっちゃ、しんどい思いもした」
「……えっ……」

 生まれて初めて人から面と向かって『大嫌い』と言われたことがショックで、累の全身からさぁぁと血の気が引く。しかし、賢二郎はそんな累を見上げて、初めて少しだけ笑顔を見せたのだ。累は目を瞬く。

「でも同時に、君は僕の憧れにもなった。嫉妬でのたうちまわるほど苦しいのに、君が海外で演奏してる動画なんかを血眼で探して、聴いて、また苦しむのに……やめられへん。ちっこかった君がドイツでだんだん成長していくのを画面越しに見て焦りもしたけど、ほんなら僕ももっと気合入れて頑張らなあかんやろって思った。せやないと、次に世界の舞台でぶつかる時に勝てへんやんて思ったら……それが、僕のやる気になった」
「……へ」
「君が帰国するて聞いて、しかも高城音大うちで弾くとか聞いた時……うわぁどないしよて思ったんや。君の演奏を生で聴くだけやない、共演できるなんて思ってもみぃひんかった。……いろいろ力みすぎてて、いろいろ君にはツンケンしてもたけど……」

 賢二郎はつと目線を上げ、ボクサーパンツに白シャツを羽織っただけという中途半端な格好の累を見て、ふはっと噴き出す。

「何やねんそのカッコ。ズボンくらい履きーな」
「あっ……す、すみません……」
「……ほんま可愛いなぁ、君は」
「えっ……?」

 笑いながら呆れたようにそんなことを言う賢二郎に、今度は累が呆けた顔を返す番だ。だが、賢二郎はぷいと視線を空し、うなじを掻きながらこう言った。

「どんな高飛車なお坊ちゃんが来るんかと思ってたら……君は思ってたよりずっと素直で、真面目で……拍子抜けしてしもたわ」
「……」
「ずーっと君を目の敵にしてた自分がアホらしくなってん。……ま、今日はとにかく楽しも。きっとええ音楽がれるわ」
「は、はい……!」

 これまで累を威嚇し距離をとっていた賢二郎から、ぽろぽろとトゲが抜け落ちていくようだ。それが嬉しくて、累の表情もようやくゆるんで綻んでゆく。

 目を細め、微笑む累を見上げる賢二郎の瞳に、ふっと寂しげな翳りがよぎったように見えたけれど……賢二郎はすっと立ち上がって着替えの続きを始めた。

「ところで……君の彼女さんも今日見に来はるんやろ? 空ちゃん、ていうたっけ」
「彼女? いえ、空は男ですよ」
「…………えっ? 男、なん?」
「はい。それが何か?」

 ずっと空にだけ恋心を焦がしてきた累にとって、空の性別など気にもしたことがなかったのだが、ちょっと面食らったような顔をしている賢二郎を見て、「ああ」と思った。

「……すみません、驚かせましたか? 日本ではまだ同性愛に理解がないとか……」
「い、いやいやいや! そういうんちゃうし。別に僕は、そういう偏見持ってへんし……」
「そうですか? なら良かったんですけど……」
「そらそうや。音楽家は、そういうの気にせぇへんもんや」

と、言いつつも、賢二郎はどこか居心地が悪そうな表情である。それを怪訝に思いながらも、累は取り合えず着替えを済ませてゆくことにして、スラックスに脚を通して革靴を履いた。

 こうして改まった格好をしていると、身体も気持ちも引き締まる。累は鏡の前に座ってワックスを取り出し、さらりとした前髪をざっと後ろに撫でつけた。緩い角度の上がり眉がすっきりと見えると、気合が入る。


 ——空の前で舞台に立つの……初めてだな。やばい、ちょっと緊張するな……。

 
 否応なしにドキドキと胸が高鳴ってくると、少し指先が冷えてくるように感じた。手を拭いながら手を握ったり開いたりしていると、賢二郎のため息が横から聞こえてくる。

「髪、それはそれでカッコええけど、もうちょいきれいにせんと。せっかく彼氏の前で弾くんやろ?」
「彼氏……彼氏ですか」
「ほれ、貸してみ」

 賢二郎は累の整髪料を手に取り、少量をとって掌に広げる。そして累の背後に立つと、金色の髪の毛に指を通した。すると、目に見えて髪の毛流れがきれいにキマり、上品にまとまった気がする。確かに、今日はゆったりとした室内楽を演じる日だ。ラフな雰囲気より、賢二郎に整えてもらった髪型のほうが似合いである。

「おお、すごいですね。ありがとうございます」
「ええよ、たいしたことちゃうし。髪、さらっさらやな自分。将来ハゲへんたらええな」
「はげ……気をつけます」

 生真面目な累の言葉に、賢二郎が笑う声が聞こえる。
 また少し賢二郎と親しくなれた気がして、累は嬉しかった。
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