水底の歌

渡邉 幻月

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因果

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さて、どうするか。女は考えた。どうしたら、あの人魚を誘き出せるのか。どうしたら、絶望をも与えることができるのか。どうしたら…
にィ、女は底意地の悪い笑みを浮かべた。幸か不幸か、誰もその顔を見ることはなかった。

 明くる日。女はまた男の後をつけた。だが、その日は男は沖に出ていった。
「毎日会ってる訳じゃないの?」
ぼそり、女は呟いた。本の少し、溜飲が下がった気がした。気がしただけで、一向に嫉妬も憎悪も収まらぬ。今日のところは、女は何もできずに踵を返した。
その明くる日も、女は男の後をつけた。いつの間にやら恋慕よりは執着に変わっていたのかもしれない。女の顔は既に、般若のようになっていた。
そうして女は、欲しかった情報を得る。どのようにして、男が人魚を呼び出しているのかを。その時、怖気が走るほど残酷な笑みが女の顔に浮かんでいた。
その後女は二、三日様子を観察していた。男が漁に出る日と人魚と逢瀬をする日と。女の中で燃え滾るほどだった嫉妬と憎悪はいつしか冷たく尖った氷のようになっていた。
そうして。女はついに、行動に出た。男が人魚に会う日。いつもよりずっと早くに起き、男が家を出るより早く身支度を整えると、例の岩場の陰へ向かう。
「おぅい、人魚やーい。」
女は男が呼び掛けるように、水面に声をかけた。ぱしゃり、水の跳ねる音がして、人魚が顔を見せた。
「おまえさまは、誰ですかえ?」
見知らぬ女が立っている。人魚が不思議に思い、尋ねた。何か、嫌な予感がする。本能が告げていたが、他の人間が知るはずの無い、この場所呼び掛けを知っているのだ。あの男に聞いたに違いない。どうして? 何かあったのだろうか。…それとも? 
女はその問いに微笑みで返した。腹の底に邪悪な想いをひた隠して。細心の注意を払って柔らかな動きで人魚に近付く。人魚は本能に従って逃げれば良かった、本当なら。
それができなかった。淡い想いを抱いた相手に、何かあったのではないか、そんな事が人魚の思考を支配していたからだ。
女の手が優しく人魚の顔に触れる。その顔に浮かぶ笑みと、その手の優しげに触れる感触が人魚を油断させた。人魚が特別抵抗もしないのを見てとると、女は人魚を岩場へ引き上げた。殺意を隠すようにやさしい手つきで人魚に触れてだ。そうして、左手で人魚を押さえ付ける。
「あれ、痛い。おまえさま、何をなさる?」
ゴツゴツした岩場に押さえ付けられ、人魚が痛みを訴える。
「私は、あのひとの許嫁だ。」
背筋が凍るような声が、人魚に答えた。ゾッとして人魚が女を仰ぎ見る。般若が、そこにいた。
「バケモノが。人の旦那を横取りする気か。そんな事ができると、本当に思ったのか?」
「な、なんのことか… わたしは、ただ、助けていただいた恩をお返ししたいと…」
人魚は慌てた。つがいの事まで考えなかった自分を恥じた。少なくとも、この瞬間までは人魚誰に対しても悪意も恨みも抱いてなかった。
「売りに出そうか、喰ろうてしまおうか、ずっと相談していたが…」
「え?」
サァっと人魚の顔色が変わるのを見て、女は喜びを覚えた。私と同じ絶望を味わっているのかと思うと、恍惚さえ覚えた。
「私は、誰より美しくありたい。私が、お前を喰うことにしたよ。」
「ま、待って、相談て、一体誰と?」
「何を言っているの? お前のことを知っているのは誰?」
蔑んだ笑みが、人魚の視界に映った。
人魚は目眩を覚えた。
わたしは、騙されていた? 売るか喰らうかで、ずっと。そんな、そんな事が… 目の前が真っ暗になり人魚は今までのことを思い巡らせていた。
嘘、嘘… 弱々しい声が何度も繰り返す。にたり、女は嗤っていた。 
鈍い痛みが体を走る。そこで人魚は我に返った。腹が痛い。抉られるような痛みだ。見れば、腹の肉を抉り取られていた。
「な、にを…」 
人魚の問いに答えることなく、女はその肉を喰うた。何かに取り憑かれたような様子に人魚は恐怖した。 
一心不乱に肉を喰らうが故に、それまで拘束していた手が人魚から離れた。それを幸いに、どうにか身をよじり這うようにして人魚は海へ逃げ込んだ。さすがに女も気付く。
「おぅい、人魚やーい。」 
もう一度、女は呼び掛けた。手の届かぬ場所で人魚は顔を出した。恐怖の中に恨みの色がある。
「騙されたわたしにも非はある… だが、おまえたちのことは、赦せぬ。呪うてくれる。末代まで…!」
憎悪に満ち満ちた声でそう言い残して、人魚は水面に消えていった。
女は、その様子を眺め満足げに嗤っていた。これでもう、あのひとに近付くことはない。それに人魚の肉を喰ったのだ。私は美しさも若さも手に入れたのだ。私は勝った。この時、女はその事以外考えられなかった。 
 束の間の、勝利の美酒に酔うていた。ふと、我に返り男が来る前に、と、人魚の血を海の水で流す。そうしてそそくさとその場を後にした。
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