水底の歌

渡邉 幻月

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破局

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何食わぬ顔で、女は家へ戻りいつものように自らの仕事に勤しむ。
 当然、男は何も知らぬ。知る由もない。男はいつもの時間、いつものように岩場へ向かう。
いつものように、人魚に呼び掛けるが、とんと返事がない。返事も無ければ、姿も見えぬ。不思議に思うて、何度も呼び掛けるが海原はただ、波打つばかり。
男は何やら不安になった。
何が、と、言われても良く分からないが不安になった。もしかしたら、悪い人間に捕まってしまったのではないだろうか? 急いで舟に乗ると、沖へ出る。いつかの場所まで来て、もう一度人間に呼び掛ける。
…ぱしゃり。水の跳ねる音に、振り返る。そこには、恨みのこもった双眸があった。
「まだ、足りないと言うのか。なんと言う欲深さ。」
地の底から響いてくるような声だった。いつもの鈴の音のような声からは想像もつかぬような、身の毛もよだつほどに恐ろし気な声。その、意外な声、何よりその視線が呼び起こす恐怖が男を凍り付かせた。
「おまえさまは、違うと思っていたのに。わたしを騙すとは。末代まで呪うてくれる。おまえさまとは、今日限りもう二度と会うことは無い。」 
そう言い残して、人魚は水面に消えていった。
男には何が何やら、さっぱり分からぬ。分かったのは、知らぬ間に人魚の、呪われるほどの恨みを買ったと言うことだけだった。
背筋に怖気が走る。海の上で、人魚に勝てるはずもない。とにかく男は岸を目指した。このまま一人、海の上にいるのは危険だ、そう判断したのだ。
それから、男は一人で漁に出るのを止めた。人魚の恨みの原因が、全く分からぬ以上下手に一人にならぬ方がいい、そう考えたからだ。なるべく目立たぬようにしよう。そう考えた男は、鳴りを潜めるようになった。

そうこうしているうちに、月日は経つ。いつしか女は男と夫婦になった。子供もできた。それでもなお、女は美しいままだった。そんな女を村の女衆の誰もが羨んでは噂しあった。いくら名主の娘とはいえ、この貧しい村でそこまで優遇される訳もない。同じように働き、子を産み育て、それなのに美しいままなのは、何かあるのではないかと。
村の女衆の羨望の眼差しは女を優越感で満たした、人魚のことなど記憶から消えかかっていた。
不老不死の意味も知らず、去り際の人魚の呪いの言葉も意に介さず。女は見せかけの美しさに溺れ満足できる程度には軽い気持ちだっだ。
美しくありたいとは思っていたが、不死まで望んだ訳ではなかった。ただ、恋しい男を誑かした人魚を貶め傷付けられたらそれで良いとしか考えていない浅はかさ。その浅はかさが、後にどんな災いとなって自らに襲い掛かってくるのか、女はついぞ考えもせずその日を迎えることになる。
少なくとも、その時までは女の思惑は成就していた。男は人魚のことなど一言も口に出さないし、漁には毎日みんなで出ている。人魚と逢瀬などする間もない。魚も捕れない訳じゃない。
全ては、私の手の中にある。不遜にも女はそう思って生きていた。だが、人魚の呪いは強力だった。そして成就されるものだった。
 ある時、夕食も終わってのんびりしながら、自分の女房を見ていた男は言った。
「おめぇはいつになっても変わらねえなあ。きれーなまんまだ。」
そう言われて気分が良くならない女はいない。照れながらも、女はその言葉を純粋に喜んだ。だが、それはぬか喜びであったと、すぐに思い知ることになる。
「おれぁ、おめぇみてえなべっぴんを前にも見たことがあるんだよなぁ。」
のんびりとした声で続けられたその言葉に、女は過剰に反応した。
「いや、待て、別になんかあった訳じゃねえぞ。昔、おめぇと一緒になる前の話だし、別にちぃとばかり話をしたことがあるだけで…」
女の豹変ぶりに狼狽えた男が弁解する。だが男にとってはそれが仇となった。
一緒になる前。話をしたことがあるだけ。
それだけで、それが人魚のことを言っているのだと女は気付いた。眠っていた嫉妬が一気に燃え上がった。
…許せない! 嫉妬の炎が女を焼き尽くした。
私がこんなに綺麗になっても。こんなに尽くしても。こんなに好きで好きでいるのにもかかわらず。未だに人魚に心を占められているのか。誑かされたままなのか。
許セナイ。
「ひィッ?」
男はひきつった悲鳴をあげた。女の姿が、がらりと変わっていたのだ。髪は真っ白に、目の色は血でも吸ったかのように真っ赤に。そうして般若の形相をしていた。
「あ、のな、頼む、許してくれ…」 
何が何だか分からぬが、男は許しを懇願した。女のその鬼のような姿に命の危機を感じたのだ。だが、もう女の耳に男の声は届いていなかった。
許せない。許せない。どうしたら、このひとを私のものにできるだろうか。その事だけが、女を支配していた。
「ッひ、た、、助けてくれ…ッ!」
男が怯えもはや悲鳴としか聞こえぬ声で、女に救いを求めた。女はただ嗤っていた。それはそれは残酷な笑みを顔を浮かべて男を見ていた。男は恐怖を通り越え絶望の中、死を覚悟した。

「ぎゃあアぁアッ!」
断末魔の悲鳴が響き渡った。さすがに異変を感じた家の者たちが何事かと慌ててやってくる。
果たしてそこには。
白髪の鬼女が、男の喉笛を喰い千切り、その肉を貪り食らっているところだった。
「なっ、なんだ、これ、鬼がっ、」
駆け付けた者たちは、その凄惨な場面に怯えた。それを目にした女は言う。
「だって、このひとが悪いのよ? 私というものがありながら、他の女の話をするんですもの。」
女は既に冷静さを取り戻していた。男を喰らい、彼女としては目的を果たしたと腹落ちしたからだ。

いっそ殺してしまおうか。それでは足りぬ。それなら。
その肉を喰らい尽くしたなら、私の血肉となって、この先ずっと私と一緒にいるでしょう?
と、それこそが、嫉妬に狂った彼女の答えだったから。

その後。白髪の鬼女が娘であることが分かり、名主の家では箝口令が敷かれた。
女はすぐさま座敷牢に監禁された。女はなぜ自分を閉じ込めるのかと哀れを装い訴えたが、名主をはじめ家人たちは取り合わず土蔵の扉も固く閉ざされた。そうして村の者たちへは、夫婦で流行り病にかかり看病の甲斐無く亡くなったことにされた。
 そうして。家の者は気付く。女が一向に衰えないことに。白い髪に赤い瞳と、異形の姿をしていようと、顔の美しさは相変わらずだった。それが一層、異様さを際立たせる。その様が薄気味悪いと、女の喉笛を掻き切っても命を落とすどころかすぐに傷が癒えてしまう。そこで女を問い詰めた末に人魚の肉を喰らっていることが改めて分かり、浦野の者たちは新たに決まりを作った。
 長男だけが、人魚の世話をすること。人の口に戸は建てられぬ。それなら最小限にしなくてはならぬ、そう判断したからだ。少なくとも、衰えて死ぬまではと。だが、その目論見は半分外れる。人魚の肉を食らった女は、少しずつ容姿が衰えることはあっても死ぬことは無かった。
やがて、浦野の娘たちにも呪いが発症することが分かる。見目が変わった娘たちは病とされて人目を避けるように部屋に閉じ込められた。他人の目に入ってしまった者は、哀れにも殺された。
何人もの娘たちがそうやって殺されたり衰弱して死んだりしでも、相変わらず女だけは生き続けた。何のかかわりもない娘たちにまで人魚の呪いを及ぼす影響を恨みの言葉と罵詈雑言で叩き込まれ、さすがに女も己の仕出かした事の大きさを思い知る。何代にも亘って責められ女の気が狂れても、女が息絶えることは無かった。
それが、人魚の恨みの末の、呪いの姿。
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