君の左目

便葉

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彼の時間 …4

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「幹太、コーヒー淹れようか?」

私は幹太の涙に気付かないふりをして、そう聞いてみた。

「…うん、飲みたい」

幹太は大きく深呼吸をした。そして、振り向く私にいつものあの笑みを見せてくれる。

「寧々…
この先どんな事があっても、俺のそばにいてくれる…?」

いつの間にか雨は上がっていて、どんよりとした空は、夕方の橙色の空に変わっていた。

「幹太こそ、私を捨てないでね」

私が冗談めかしてそう言っても、幹太は笑わずに私の目をジッと見ている。

「寧々…
寧々こそ、俺を捨てないでくれよ。
もう、俺は…」

幹太はそう言いかけて、口を閉ざした。
でも、幹太のくちびるは私のくちびるを捉える。
二人の想いが大き過ぎて、たった一回のキスじゃ全然足りない。
やっと、巡り合えた二つの魂は、くちびるを重ねる事でお互いの傷ついた心を慰め合った。
幹太が好き、幹太が好き…
もう、私は、幹太がいないと生きていけないよ…

キスだけじゃ収まりそうにない私達は、とりあえず部屋の中に入った。そして、もう子供じゃない二人は、むさぼるようにキスを交わす。

でも、幹太は引き離すように、私の首元に顔を沈めた。息を整えながら、私の首筋に優しくキスをする。

「ごめん…
コーヒーを淹れてくれるんだったっけ…
俺、マジでヤバいわ。
頭の中がグルグルしてる」

私も幹太の胸の中で小さく深呼吸をした。
私だってヤバいよ。もう、家に帰りたくない。

幹太の腕の中は、まるで私のためにあるみたいにすっぽりと優しく包み込んでくれる。幹太の肌の温もりと脈打つ心臓の音に、私こそ、ここから離れられない。
でも、コーヒーを淹れなきゃ…
本当は私も幹太もコーヒーなんかどうでもよかった。
でも、たがが外れてしまった二人には、こういう日常が大切な事くらいちゃんと分かっている。

「このマグカップ、本当に可愛かったね…」

私はその真新しいマグカップを洗いながらそう呟いた。
幹太は電気店で買ったドリップ式のコーヒーメーカーを、段ボールから必死に取り出している。幹太の新しい家は本当に何もなくて、でも、それが私達には心地よく、まるで私達二人のようだと思った。

何もかもが新しく始まる。
今、この歳で出会った偶然にはきっと理由があって、大人になった子供じゃない私達に、神様は何か問いかけている。

「ねえ、こんな感じでいいの?」

私の好みで買ったブルーの色のコーヒーメーカーは、そこに置いてあるだけでインテリアとしてお洒落だった。

「うん、ばっちりだよ、ありがとう。
でも、なんだか、使うのがもったいないね」

一仕事終えた幹太は、すぐに私の隣に来る。

「でも、使わなきゃコーヒーが飲めないよ…」

幹太はそう言いながら、私を後ろから抱きしめた。

「もう、幹太… 今はやめて、コーヒーの粉がこぼれるよ」

でも、幹太は私から離れようとしない。
私はクスッと笑って首元に顔を埋める幹太にこう囁いた。

「私は逃げないよ… 幹太の側にずっといる…
これからずっと一緒に居るんだから、だから、コーヒーを淹れるまで、ソファで待ってて下さい」

幹太も笑ったのが分かった。だって首元にフッと息がかかったから。
でも… でも、温かい息と一緒に、また冷たい何かが私の首元を濡らした。
幹太は泣いている…

「幹太…? 泣いてるの?」

今度の私はそれを見逃がしたりしない。
私は振り返り、幹太の瞳から零れる涙を確認した。そして、今度は私が幹太を強く抱きしめた。

「幹太…? 何で涙が出るの?」

幹太は力を抜いて、私に体を預ける。

「寧々と…
寧々と、またこういう風に、他愛もない幸せな時間を過ごせてる事が、何だか嬉しくて…
俺は、あの日から、ずっとこんな日を夢見てた。
寧々の可愛らしい笑顔を見る事を、俺は、ずっと夢見て待ってたんだ…」

「もう、大げさなんだから」

私はそう言うしかなかった。今は何も分からないけれど、もし私の記憶が戻った時、幹太の言葉に隠れた意味が分かる時が来るのだろう。
でも、今は分からないでいい。ううん、この先も分からないでいい。
あの悪夢のような私の事故は、幻だったと、今だけはそう思いたいから。

「寧々、今日の話を聞いてもいい?」

二人でくっついてソファに座り、まったりとコーヒーを飲んでいる時に、幹太が急にそう聞いてきた。

「麻生さんの事…?」

幹太は私の顔を見ずに頷いた。

「聞く程の事じゃないよ。だって、私達つき合ってたわけでもないし」

幹太はゆっくりとテーブルにマグカップを置く。

「うん…
俺も聞かないように努力はしてたんだけど、無理みたいだ。
で、ちゃんと伝えたか? 俺の事」

ま、私の中では想定内だった。あの頃の幹太と何も変わっていなければ、絶対に聞かないはずはない、とそう思っていたから。

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