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嵐の頃 …1
しおりを挟む気がつくともう7月に入っていた。
4月と5月は学校や職場の健康診断が多く、診察自体はそれほど忙しくなかった。
流人は専門外の科の勉強に励むと同時に、去年から取り組んでいるボストンの学会に提出する論文の期限が6月いっぱいということで、何かと毎日を忙しく過ごした。
きゆも医療事務の通信講座の自宅受験を6月に控えて、役場の保健課の人に教えてもらいながら、やはり勉強に励んでいた。
その二人にとっての慌ただしい6月が過ぎ、7月に入ると少しだけ生活にも仕事にも余裕が出てきた。
「きゆ、今日、うちに来ない?」
最近、流人は人里離れた自宅で時間を過ごすことが多くなっている。
ここに来た頃は、静けさと暗闇が怖く長い時間を一人で過ごすことができなかったが、今ではそれでも泊まる事はしないけれど、休日の昼間にあの豪華な家でくつろぐことの楽しみを覚えた。
「また、俺に料理を教えてよ」
以前、暇さえあれば家に籠って論文を仕上げていた流人に、きゆはご飯の炊き方を教えてあげた。
「料理って…
お米を炊くのって料理なのかな?…」
「でも俺は、ご飯の作り方なんて知らなかったから、すごく役に立った」
きゆは伸びてきた前髪をちょんまげのように結んでいる流人を見て、堪えきれずに笑った。
「流ちゃん、髪切ってあげようか?」
流人はこの島に来てから一度も髪を切っていない。
きゆに教えてもらった散髪屋は70代のおじいさんが営んでいると聞き、しり込みしていたからだ。
「きゆが? 切れんの??」
診察室の椅子に座っている流人の髪を、きゆは優しく撫でて触った。
「こんな小さな島で育つと、一通り何でもできるようになるの。
だって、私、二人いる兄達の髪を二人が中学を卒業するまで切ってたんだから」
流人はきゆに疑わしい眼差しを向ける。
「その髪型は坊主でした、じゃないよな?」
きゆはまた笑った。
「坊主じゃないよ。
普通の男の子がする髪形。
分かった…
じゃ、前髪だけ切ってあげる」
流人はしぶしぶ頷いた。
どのみち、この前髪の限界は近づいている。
「じゃ、今日は土曜日だから、午前の診察が終わったら、俺の家に行こう」
7月に入り、梅雨の季節は終わったようだ。
今日は、夏を思わせる雲一つない濃い青色の空が広がっている。
流人は、きゆと大切な話がしたいと思っていた。
去年のきゆの誕生日の言い訳をしたい。
あの時、俺に何があって、何を考えていたか…
この話をちゃんとしない限り、俺達は前に進めないんだ……
*** *** ***
「流ちゃん、ちゃんと、掃除してるんだ?」
流人の家に久しぶりに訪れたきゆは、綺麗に片付いている家の中を見て驚いてそう言った。
「いや、それが、たまに誰かが来て掃除しくれてるんだ…
役場の人かな?
本当に至れり尽くせりで気が重いよ」
きゆは海を眺める大きな窓を開け放った。
この間ここに来た時は雨が降っていて、ここから見える空も海も灰色だった。
でも、今日の窓から見える風景は、素晴らしくため息がこぼれるほどだ。
高台から見下ろす海と空の絶妙な青色違いのグラデーションが、目を見張るほど美しかった。
きゆは外から入ってくる柔らかい海風に体を預けていた。
流人は電気ポットに水を入れて、お湯をグツグツ沸かしている。
「流ちゃん、お茶を飲む前にちゃちゃっと切っちゃおうか?」
「え~~、マジ?」
「マジだよ」
きゆは洗面台からはさみと剃刀とブラシを持って来た。
床に新聞紙を敷き詰めて椅子を置き、そこに流人を座らせる。
「ちびまる子ちゃんみたいなパッツンはやめてくれよ…」
「大丈夫だって」
きゆは自分の顔を流人の顔の位置まで下げる。
流人の頬にきゆの息が何度もかかった。
剃刀とはさみの音が、流人の耳元に心地よさをもたらしてくれる。
流人はきゆの口もとをずっと見ていた。
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