あの夏に僕がここに来た理由

便葉

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生活

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海人はこの日は早めに仕事を終え、サチに買い物に行くと言って外へ出た。
夜が深まるとこの近辺は全く人通りがなく静まり返っている。
海人は電話ボックスに入り、崩しておいた百円玉を電話の上に置きひまわりに電話した。
すると、ひまわりは待っていたのか、すぐに電話に出た。

「海人さん、早くに仕事が終わったの?」

海人は、ひまわりの電話越しの声を初めて聞いた。

「そう、急いで仕事を済ませたんだ」

受話器の向こうで、ひまわりは笑っている。
ところが、まだ何も話していないのに電話の料金はどんどん増えていく。

「海人さん、ごめんなさい。
公衆電話から携帯電話にかけるのって、すごくお金がかかるんだ…」

ひまわりは、すまなそうに海人にそう伝えた。

「そうなんだ…
じゃ、もうすぐ切れるかもしれないから、何か伝える事はある?」

海人が焦ってそう言うと、ひまわりは黙ってしまった。

「ひまわり?」

海人が問いかけると、ひまわりは小さな声でこう言った。

「会いたい…」

「僕も、会いたいよ、でも」

海人がそう言いかけると、非情にも電話は切れてしまった。
慌ててかけ直そうと思ったが、手持ちのお金はあと数百円しかない。
海人は、目の前にあるバス停の時刻表を見た。
最終バスが5分後にやって来る。
ひまわりに会いたい…
その気持ちはどんどん海人を追いつめる。
右往左往している内に、バスが見えてきた。
海人は何も考えずにバスに乗り込んだ。
もう、ひまわりの事しか頭にない。

ひまわりは、海人の言いかけた言葉は想像がついた。
会いたい、でも、会えない…
切れてしまった海人からの電話はもうかかることはなかった。
ひまわりは、気分転換に、明日持っていくお弁当の下ごしらえをした。
少し前にさくらから電話があり、前に申し込んであった予備校の合宿に行かなきゃならないと、泣く泣くそう言ってきた。
さくらはひまわりのことが気になりその合宿に行かないつもりでいたのだが、そういう訳にはいかなかったようだ。

「ひまちゃん、大丈夫?」

さくらは、電話口のひまわりの様子を確かめる。

「大丈夫だよ。
今日も、海人さんに会いに行ってきたんだ。
もう、元気だから、ありがとね、さくら」

ひまわりはさくらに元気になったことを伝え、そして、いってらしゃいと送り出した。
そして、台所の仕事を済ませ歯磨きをし終えたひまわりは、もう寝ることにした。
海人からまた電話がかかってくるかもしれないと思い、ずっと胸ポケットに入れていた携帯も充電するためにリビングに置いた。
すると、遠くから誰かが歩いてくる音がかすかに聞こえる。
ひまわりは玄関の鍵を閉めた事を確認し、他の窓の鍵がかかっているか急いで見て回った。
その時、カーテン越しに海人の姿が見えた。
ひまわりは会いたい気持ちが強すぎて幻影を見たのだと思い、もう一度、そろりとカーテンの隙間から外を覗いてみた。

「海人さん?」

ひまわりは半信半疑のまま玄関から飛び出すと、そこには、はにかんだ顔の海人が立っている。

「ごめん、来ちゃった… 
帰るバスはないのにさ。どうかしてるよ、全く…」

私は今まで人を愛するという事に臆病になっていた。
前に進む勇気がいつも持てなかった。
でも、海人に出逢って海人を愛する事によって、私の未知の扉が開いた気がする。
体裁ばかり気にしてきた私は、もうここにはいない。
海人のためなら何でもする、何もかも捨てても構わない…

その夜は、久しぶりにこの家で私達はたくさんの話をした。
これからの事、もっと先の未来の事…
そして、海人の口から過去へ戻るという言葉は、二度と出てくることはなかった。

「絶対に離さないよ…」

海人はひまわりを抱きしめて、何度もそう言った。
これほどまでに僕を惹きつけて僕の心を一杯にするひまわりを、僕は永遠に何があっても離すもんか…
この先に訪れるかもしれない別れの予感を吹き飛ばすように、海人は心の中で何度もそう呟いた。
ひまわりはそんな海人の腕に包まれながら、いつの間にか静かに眠りについた。
そして、夜が明ける前、海人はひまわりの祖父の自転車を借りて民宿に向かって走り出す。
薄紫の夜明けの海を僕は二度と忘れない。
愛する人を見つけた僕は、今、自転車を漕ぎながら生きている幸せを実感している。
この潮風のささやきを海の匂いを、清々しい朝を、僕は決して忘れないだろう。
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