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エピローグⅡ
しおりを挟むあぁ、いやだなぁ。
漠然とそう思った。
だってどう見たってこれ、あれなのだもの。
ランプの魔人であった頃、僕は夢を見ることができなかった。
三大欲求と、涙を流すという人間的な機能。
それらすべてを取り上げられていた僕は、眠りに落ちることすら許されなかった。
まるで機械のように、意識という機構のスイッチを切る。
その先に待つのは、何もない――ただの真っ暗闇。
起きているときに比べれば、思考の流れが極端に遅くはなるけど、僕という人格の“核”といえば良いのかな?
僕が僕であるという意識は、必ずどこかに存在していた。
いちおうね?
特典というのか、神様がそうした方が都合が良いと考えたからなのか。
“眠りにつく”と、外界からの干渉を受けなくなる。
触れられればなんとなく振動は感じられるのだけど、何枚も何枚も布を被せてくるみ、さらにいくつも重ねあわせた箱の中に隠されたみたいに、感覚が遠いんだ。
だから、僕は人間に戻るまで、まったく夢を見ることがなかった。
はじめは、とてもワクワクした。
今日はどんな夢を見るんだろう?
そう考えると夜になるのが待ち遠しくて、アルバイト中だっていうのにそわそわして、お爺ちゃん店長に落ち着きなさいって良く怒られた。
けど、ある日。
いつもとは明らかに違う感覚に包まれた。
そもそもの話、僕が見る夢って、ふわふわしてる。
まず、感覚がない。
あ、でもこの言い方だと語弊があるかな。
そこにあるのに、それをきちんと正確に受けとめられていないというか。
立ってるとか、座ってるとか。
足裏に感じるはずの地面の感覚がないんだ。
自分が何をしてるのか、ふんわりとした視覚情報でしか捉えられない。
そう、音もないんだよ。
だけど誰が何をいってるのか、なんでかわかるんだよね。
とっても不思議。
話が逸れた。
つまり僕の夢って、まるで雲みたいにつかみ所がないものなの。
けれど、あの日見た夢は、違う。
それ以降も時折見るこの夢だけは、明らかに違うんだ。
その夢は、何もない“無音”からはじまる。
しんしんと降り積もるような――そう形容したくなる、静謐で、しかし確かな“音の輪郭”を伴う無音。
そこには、どこまでも続くような果てのない真っ暗闇が広がっている。
目の前に掲げた自分の指ですら、輪郭を捉えることができないぐらい、深く濃い闇なんだ。
立ってるのか、座ってるのか。
水の中だから浮かんでいるのか、それすらわからない。
でも歩こうと思うと、たぶん行きたい方向に進んでいるのだろうなとわかる。
そうして極めつけは、格好。
金糸で煌びやかに飾り立てられた真っ白な立て襟ハーフトップに緩い履き心地のアラビアンパンツ。
トップスと同じく金糸で細かな模様が織られた、目に痛いぐらいに鮮やかな赤い腰布。
これでアラビアンパンツをきゅっと留めて、下に落っこちないようにしてるんだ。
耳、手脚、首周りには金の装飾具。
耳には、大ぶりな円盤形のフックピアス。
首元には、扇状に広がる円盤やスクエア型が重なる、じゃらじゃらと音を奏でるネックレス。
手首から肘までを覆う手甲や、三連に連なるリング状のブレスレット、足首には一部に鈴をあしらったアンクレットなどが嵌められている。
うん、我ながらなかなかうるさい装飾の数々。
動くたびに姦しく響き渡るそれは、慣れればなんてことないのだけど、久しぶりに耳にすると鼓膜というか、脳に直撃する音だなぁとしみじみ思う。
まぁ、つまり。
その夢の中において、僕は在りし日のランプの魔人であったときの姿をしているのだ。
仕える主によって、魔人としての衣装を着続けることもあれば、キヨやアキラのように、その時代に即した衣装を身につけるよう求められることもある。
アキラなんて契約初日から数えて十日目に真っ赤な顔をしながら、これを着ろって紙袋を押しつけてきたんだ。
あんなおっかない顔をした彼が、僕に似合うだろう服をわざわざ見繕ってくれたのだから、それを着ない選択肢なんてない。
だから、実に半年ぶりぐらいに懐かしい服に袖を通したわけで、それにほんの少しの感慨を覚えたんだ。
そこまでなら、ランプの魔人として契約待機時のことを夢に見たのかな、と不思議ではあれど、受け入れることができた。
けれど、問題はここから。
しばらくすると、それは現れる。
音もなく、ぬるりぬるりと。
それは、少しずつ輪郭を確かなものにしながら、忍び寄ってくる。
捕まったら切り裂かれてしまうんじゃないかってぐらいに鋭い鉤爪に、どこもかしこも節くれだった五本指。
そんなにばきばきに折れていて大丈夫なのかと心配になる、いくつもの関節で曲がりくねる腕。
――まるで、闇から作り出されたような、底なし沼みたいに黒々とした手。
これが僕を捕まえようと、あとからあとから湧いて出る。
あれに捕まったら、なにか悪いことが起きる。
本能が、危険だっ!離れろっ!とうるさいくらいにわめき立てるのに従い、脱兎のごとく走り抜ける。
でも、右を見ても、左を見ても。
その先には隙間なく、無数の腕が密集していて――逃げ場なんて、どこにもない。
だからいつも、そう走りきらぬ内に捕まってしまう。
そうしてふん捕まえた僕を、どこともしれぬ水底へと叩き落とすのだ。
そこからは気が狂いそうなぐらいの“声”に包まれる。
どうして逃げた?
なぜこの愛がわからない?
傍にいて、ひとりにしないで……。
そんな風に延々、頭が割れてしまうんじゃないかってぐらいの音量と質量でまくしたててくる。
そうしていつも僕は、それに泣きたくなってしまう。
あぁ、あなたは。
――本当に、彼を愛していたんだ、って。
僕はある意味、手違いでランプの魔人になった。
この力も、いま身にまとう服ですら、本当は彼、不死の魔人のために用意されたものだ。
護り神は、初代を。
ジンと呼ばれた、みずからの国を護って戦う戦士である彼を、本当に愛していた。
だから、その忘れ形見である肉体を継承した、新たな魂の望みを叶えた。
愛しているから、手放した。
愛しているから、傍に置く。
そのどちらも本心で、偽りなんて欠片もなくて。
だから、ランプを忍ばせた。
いつか、その心が折れたとき。
――今度こそ、自分のもとにかえってくるように、と。
だけど彼は、心を折ることなく望みを叶えた。
残ったのは、彼の運命を継承した、似ても似つかぬ少年のみ。
だから、魔法のランプは誤認した。
だって、それまでまったく揺らぐことのなかった、成熟した大人の精神から、幼さ故に揺れる、子どもの精神に切り替わったのだもの。
その揺れを、心が折れたって勘違いしても仕方がない。
そうしてランプに閉じ込められた僕は、護り神にいらないものとして捨てられた。
けど、ランプを作ったときの執着は薄れることなく残り続け、僕が人間に戻ったいまも、わずかな残滓がこうして時折、顔を出す。
僕は、それがたまらなく悲しい。
その悲痛なまでの愛が苦しくて、胸がいっぱいになる。
だから、目が覚めるといつも、涙で顔がぐちゃぐちゃになっている。
僕は、時計がなくてもいまが何時かってわかる。
目覚ましをかけなくても、毎朝、アキラよりも先に目が覚める。
こんな顔を見せたら、アキラは心配してお仕事を休んじゃう。
そうならないように念入りに顔を洗って、朝ご飯をつくって、時間の余裕があれば外を散歩して、何食わぬ顔をしておはようをいうんだ。
だから、今日も。
そうなるんだろうなって思いながら、沈んだ気持ちでそこに立っていた。
あぁ、来た。
音も気配もないのに、あれが来たんだって、どうしてだかわかる。
無駄だってわかってるけど、それでも逃げなきゃ。
そう思って駆け出した瞬間、ふいに何かに腕を引かれてつんのめった。
何事?
そう思って右手を見たとき。
あぁ、アキラだ。
なんの躊躇いもなく、そう思った。
刃渡りは一メートルあまり。
装飾なんてひとつもない、無駄な機構すべてを排除した諸刃の剣。
刃と一体化した鍔に、ただ斬ることだけを目的にした、武骨な作り。
鋼特有の冷え冷えとした気配をまとうのに、手に持った部分はあったかくて、しっくりと肌に馴染む。
質実剛健という言葉が、これほど似合うものもないだろう。
僕が手にするのは、まさしくそんな形をした剣だった。
試しにその場で振ってみても、手からすっぽ抜けない。
まるで羽みたいに軽くって、手に吸いついてくるような感じがする。
再度思う。
アキラみたいだって。
どっしりと構えて、黙って傍にいてくれる。
決して押しつけがましくない距離の取り方が、まるで彼みたいだ。
うん、これなら。
彼となら、きっとやれる。
ぎゅうと柄を握り締めて、えいやと目の前の手に剣を振り下ろした。
切り裂かれたところからパッと塵が舞うようにして、手がかき消える。
無我夢中で剣を振り回しながら駆け回る。
これが正しい剣の振るい方なのかわからない。
僕が魔人になったのは、まだ狩りの仕方も知らない子どもの頃で、剣を振るったのは、昔の主にともに戦ってほしいと戦争に連れ出されたときぐらい。
だから、正しい振り方なんてわからないままに我武者羅に剣を振り回して走り抜ける。
がくんっ!
焼けるような痛みを感じてつんのめった。
何が起きたのかと足下を見れば、万力みたいに強い力で足首を掴む手が見えて、慌てて剣で振り払う。
けど、遅かった。
そんな致命的なタイムラグ、それを見逃すほど彼らは甘くない。
わっと寄り集まって、僕の全身を逃さぬように掴みあげると、側にできた底なしの水たまりへと放り込んだ。
じゃぶんっ!と大きな音をたてて、身体が奥へ奥へと、底に向かって落ちていく。
必死で水を掻いて上へ泳ごうとするけど、足首を掴まれてもっと深く水底へと引きずり込まれる。
逃れようと暴れれば暴れるほど、運命の糸がぴたりと身体に張りつき、ぎちぎちと締め上げてくる。
もともとあったはずのものなのに、こうして可視化してまで動きを奪うなんて――あんまりじゃないか!
なんで君まで、僕の邪魔をするの?
それでも諦めきれなくて、なんとか動く手を、天に――水面に向かって伸ばす。
あぁ、あまりにも、遠い。
ここは暗くて何も音がしなくて、凍え死んでしまいそう。
力の限りにもがくけど、その努力を嘲笑うように――底へ向かって、どこまでも沈んでゆく。
それに諦めて目を閉じかけた、そのとき。
チカッと強い光が瞬いた。
目を焼くような、その奥の頭の中までつんざくような、強い強い光。
鋭い閃光のようなその光は、何度も何度も瞬いて、こっちを見ろとでも言うかのように再度、強く輝いた。
そうやって、こっちに来い、お前ならできると呼びかける。
あぁ、行かなきゃ。
彼が待ってる。
彼が――君が信じる僕なら、絶対にできるんだって、そう信じて待ってくれるから。
思いきり水を蹴った。
身体を力いっぱい振るって、まとわりつく運命の糸を振りほどく。
がむしゃらに水を掻き、蹴り飛ばし、ただ天を目指して手を伸ばす。
届かないなんて、思わない。
君の信じる僕なら、絶対にできるのだから。
歯を食いしばって、何度も水を蹴り上げる。
爪を立て、必死に身体を押し上げて、少しずつ天へと昇っていく。
あとちょっと、もう少し。
腕を限界まで伸ばして、指先までぴんと立てているのに、あと少しのところで水面に届かない。
ずっと足をばたつかせ、もう片方の手で水を叩きつけるように掻いているのに、なんであと一歩のところで届かないの?
さらにもう一度、大きく水を蹴りつけたとき、伸ばした手をぐわしと掴まれた。
そこから燃え上がるのではないかと思うぐらいに、熱い手のひら。
太くって大っきくて、骨が浮き出て筋張った、男らしい手。
だけど誰かを傷つけないようにと真っ白な爪の先がまったく見えないほどに切り揃えられた、深爪の指先。
あぁ、君の手だ。
そう思った矢先に強く引っ張られ、ついに水の中から僕の身体は引きずり出された。
ぷはっ!
水から顔を出した途端、大きく咳き込む。
お腹の中も肺の中も、どこもかしこも水がいっぱい詰まっていて、咳き込むたびに鼻や口からあふれてくる。
げほげほ苦しい咳をくり返す僕を、彼はそっと地面に下ろした。
そうしてしゃがみ込むと、心配げな顔をして口を開いた。
「大丈夫か?」
その問いに大きく頷いて答える。
それに安堵したように息を吐くのが聞こえる。
あぁ、心配をかけちゃった。
濡れて貼りつく前髪を手で払ってから、顔を上げた。
「心配をかけてしまって、ごめんなさい」
僕の謝罪に彼はほんの少し目を見開くと、ふっとやわらかに眼を細めて笑った。
「そんなに心配はしてなかった。
お前のことだから、ここまで来るとわかってたしな」
彼はあたたかな濃茶の瞳に無類の信頼をのせて、僕を見ている。
あぁ、君の信頼に応えられてよかった。
そう思ったところで、どっと肩の力が抜ける。
気が緩んで大きく息を吐いたところで、彼の大っきな手がぽふりと僕の頭に乗っかった。
そのままゆったりとした調子で、右から左に手が動いて、頭を撫でてくれる。
あぁ、この撫で方、好きだなぁ。
大きな手で頭を包まれるだけで、ほっとしてしまう。
そこに心地よい温もりに加え、眠りに誘うリズムで頭を撫でられたら、どうしたって微睡んでしまう。
これはきっと、俺の胸に飛び込んでこい、そういっているに違いない。
ならそれに甘えようと誘われるままに彼の胸にぽすりと倒れ込んだ。
彼の胸元の服をきゅうとつかんで、目を瞑ったままゆっくりと動く手と広い胸板の感覚だけを追う。
あぁ、気持ちよくてたまらない。
うとうととしかけたところで、つむじにやわらかな感触がして笑ってしまった。
君、よくそこにキスを落とすよね。
君にそうされるとくすぐったいのに、心があったかくなるんだ。
くすくすと笑い声が漏れる。
それに彼がほんの少し憮然とした声で、笑うなというのもまたおかしくて、ぐりぐりと額を押しつけた。
再度つむじにやわらかな感触を感じる。
そうしてそこに吐息を降りかけるようにして、頑張ったなと声をかけられて、ふにゃりと締まりのない顔になってしまった。
あぁ、見ていてくれたんだ。
あんな不格好な奮闘を、それでも君は頑張ったと、そういってくれるんだ。
僕は、三千年もの間、ずっとひとりで過ごしてきたわけじゃない。
最初の三世紀かそこらは、誰かと添い遂げることもできるんじゃないか、なんて甘い考えを持っていて、その願いを叶えようとしたこともあった。
でも、できなかった。
どうやっても、死ぬまでしか一緒にいられない。
そうしてそれを、誰もが泣いて謝るんだ。
ずっと一緒にいられなくてごめんなさい。
あなたを置いていくのが辛くてたまらない。
そうやって、泣いて謝るんだ。
彼らはなにひとつ、悪くないのに。
僕の力不足が原因なのに、どうしたって泣かせてしまう。
だからやめた。
だから、突き放すことにした。
僕は神代に作られた道具だからと、一線を引くようにした。
そうすれば、無駄に泣かせることはないのだから。
けど、君は違った。
お前は人間にしか見えないから、人間だ。
そういって、僕の手をとってしまった。
顔を上げろと手を引いて、色んなところに連れ出してくれた。
自由に動いていいんだって、好きなことをしていいんだって、無言のままに示してくれた。
あんなに小っさくて泣き虫だった君が、こんなにも静かであたたかい情を寄せて、僕を。
道具として振る舞う僕を、“ひと”として扱ってくれた。
だから、欲を抱いた。
もしかしたら――もう一度、誰かを。
君を、愛せるかもしれない。
ううん、違う。
愛せるかも、じゃなくて、愛してもいいんだと。
誰かを愛することも自由なんだって、君は、僕に思い出させてくれた。
たとえ、死がふたりを別つとも。
そうしてそのときに、泣いたとしても。
ともに過ごした時間は、嘘にならない。
その気持ちをずっと抱いて、生きていけると。
それでいいと、示してくれた。
君は、そんな僕の手をとって、ひとに戻してくれた。
好きだといってくれた。
その言葉に胸が満たされて、僕も、君が好きだと。
心のままに伝えられる、そのしあわせを思い出させてくれた。
俯いていた顔を上げる。
眉尻を下げてほんの少し不安そうにこちらを見ている彼の頬に手を添える。
そうして膝立ちになる僕の方へと上向かせた。
こつりと額を重ねあわせ、万感の思いを込めて、いう。
「君のことが、好きだ。
僕は、君を好きになれたことを、誇りに思う」
こんなにも、胸がいっぱいになって。
こんなにも、胸が熱くなって。
こんなにも、泣きたくなってしまう。
本当は、もっとたくさんの言葉で好きっていいたい。
愛してるっていいたい。
あんなにたくさんの時間があって、色んな国の、色んな言葉を知っているくせに。
このあふれ出る気持ちを、胸を締めつけるぐらいに切ない気持ちを、僕は、愛としか言い表せない。
僕のちっぽけな身体に収まりきらないほどに大きな気持ちを、そんな一言でしか表せないなんて。
本当に、はずかしくて仕方がない。
長生きしてるだけじゃ駄目なんだって、そう思いはしても。
それでも、君にこの気持ちを伝えたくて、つたなく形にする僕を、君は嬉しいと、しあわせだと、そう瞳に湛えて僕を見る。
その目が、たまらなく好きだ。
だから、胸が痛い。
ここは、僕の夢。
護り神の残滓が見せる、悪夢。
そんなところに、本人ではないにしても、君を。
愛するひとの現身を残していくのは忍びなかった。
ぽろぽろと涙がこぼれる。
ここは、怨嗟以外には何もない。
真っ暗で、時の流れもなくて。
どこまでもひとに情を寄せる君が、こんなところにいたら、心を壊してしまう。
誰かに置いていかれるのは、辛い。
ともに歩めぬのは、辛い。
それを僕は、痛いほどに知っている。
残される側の辛さを知っていても。
残す側も、こんなにも胸が痛むんだってことを、はじめて知った。
胸が引きちぎれるぐらいに痛くて痛くてたまらなくて、君の孤独を思うと涙が止まらなかった。
くん、と抱き寄せられて、胡坐をかいた彼の腕の中にぽすりと身体が収まる。
泣き止まぬ僕の目尻に唇を寄せ、あふれ出る雫を吸うと、彼は口を開いた。
「泣かないでくれ。
お前の泣き顔を見ると、胸が痛くて痛くてたまらなくなる」
あぁ、でも、と。
僕の頬から滑り落ちる雫を何度も唇で受けとめながら、甘やかに双眸をとろかして君はいう。
「泣き濡れるお前もまた、美しい」
なぁに、それ。
どこでそんな口説き文句を覚えてくるんだか。
しかも、その顔がどうにも得意げなのがおかしくてたまらなくなる。
でもそれが、そんなところが、どうしようもなく君らしい。
手で笑い声を押さえようとするのに、指の隙間からくすくすとした笑い声が漏れてしまう。
あぁ、もう。
泣いて、笑って、どこもかしこもぐしゃぐしゃだ。
とても誰かに見せれたものじゃないのに、君だったらそれもいいかと思ってしまう。
彼はそのまま僕の鼻先へと顔を寄せると、かぷりと甘く噛みついた。
あぁ、確かにこれは、君の癖だ。
そのお返しに額に一度。
目尻にも一度。
そうして最後に、たっぷりと時間をかけて、唇へと口づけた。
再度、彼から額をこつりと重ねられ、視線を合わせる。
間近で互いの目を見ながら、言葉を紡ぐ。
「俺だけのお姫様。愛おしい君。
俺も、お前を愛せたことを――これ以上ない幸福だと、そう思う」
そう言って、温かな手で涙を拭ってくれる。
あぁ、もう――お別れの時間なのだ。
「もう起きる時間だ。
ここに俺がいる限り、お前は二度と悪夢を見ない。
あとは――あちらにいる“俺”に任せるとしよう」
その言葉を聞いても、まだ、涙は零れ落ちていた。
でも、もう大丈夫。
ぎゅっと目をつむって、手で擦って、残骸を振り払う。
最後は、笑顔がいい。
これ以上ないほどの、特上の笑顔で送り出すんだ。
もう大丈夫なんだって、心配しないでいいんだよって、
伝わらなかったら――意味がないのだから。
「ありがとう。そして、さようなら。
いつかまた会えるその日まで、僕は泣かないように頑張るよ」
僕の決意に、ほどほどになと彼は返して――一度だけ、唇が触れあった。
意識が、高みへと引きずられるような感覚がして、徐々に、徐々に、身体が浮いていく。
もう、どれだけ手を伸ばしても、触れあえない。
そんな遠くまで、来てしまった。
愛しい彼の現身へと手を振る。
大きく振り返される手に、さらに手を振って――大きな声で、愛してると叫んだ。
その姿が見えなくなるまで、ただただ、愛してると叫び続けた。
それが、いまの僕にできる――唯一、彼に贈れるものだった。
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