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第3章 わたしの知らない彼女
第10話 待ってたよ
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教室のドアをそろそろと開ける。
ひょこ、と顔を出すわたしに気づいた友達数人が心配そうな面持ちでこちらへ駆け寄ってきてくれた。
「ちょっと小詠、大丈夫なのっ? いきなり倒れたって聞いたよー!」
「あはは……うん。でもちょっと休んだらよくなったから、もう平気だよ」
「もーっ。調子悪いなら早く言いなさいよ! 無理はよくないよ!」
「うん、ありがと。……ごめんね、心配かけて」
えへへと笑うと、友達はわたしにぎゅうっと抱きついてくる。移動教室で先に行っててと言ったきり、そのまま授業に出席しなかったのだから、驚かせただろう。申し訳なくて、もう一度「ごめんね」と謝った。
ふと藍達くんの席へと目をやる。
いつもならば、藍達くんは休み時間には席で一人読書をしているはずだ。……なのに、今は姿が見当たらない。
一体どこに行ってしまったのだろう。ほんの数分前まで一緒にいたのに。
彼の席を見つめながら、自分の席につく。
そのとき鐘が鳴った。教室に先生が入って来て、号令がかかる。
藍達くんの姿がないまま、一日の最後の授業が始まった。
* * *
当たり前のように進んでいく授業。だけど、ここにいる誰もが、藍達くんがいないことに気づいていない。
藍達くんは、やっぱり空気だ。いてもいなくても変わらない存在。……改めてそんなことを思い知らされる。
それでも、わたしだけは確かに彼の存在を感じていた。いるはずのない彼の席を何度も見て、そこにいないかと確認してしまう。
……藍達くんはどこに行ったのだろう。
彼のゆくえと、保健室で見てしまったあの写真。そればかりが頭から離れず、授業の内容がまったく耳に入ってこなかった。
そっとポケットの中へと手を入れる。コツンと爪の先に彼のスマホが当たった。
……授業が終わったら、あの場所に行ってみよう。きっと彼はそこにいるはずだから。
そう決めたわたしは、授業終了の鐘が鳴るのをじっと待った。
* * *
「起立。礼。ありがとうございました」
ようやく授業が終わった。急いで鞄に荷物を詰め込む。
ポケットを叩き、藍達くんスマホが入っていることを確認する。それから急ぎ足でとある場所へと向かった。
北校舎の三階。部屋の前に掲げられているプレートには図書室の文字。
授業中、ずっと考えていた。きっと彼はここにいる。ここに来れば彼に会える。……確信なんてないけれど、そう思えて仕方がなかった。
扉に手をかけ、そっと開ける。
からりと乾いた音が廊下に響く。
「……やっぱり開いてる」
薄暗い室内。
そこに一歩足を踏み入れる。
古い本と埃の匂い。
「……っ」
呼吸をするたび、図書室の匂いが体中を満たす。
……思い出す。昨日ここで彼にされたことすべてが、記憶に鮮明に蘇ってくる。
全身に冷や汗がじわりと滲んだ。きっと体がこの匂いを、空間を、拒否しているのだろう。
目眩さえ起こしそうになる中、わたしは彼の名前を呼ぶ。
「……あ、藍達くん……?」
ゆっくり、ゆっくりと、図書室の奥へと足を進める。わたしの背丈より遥かに高い書架が規則正しく列をなし、視界を遮る。キョロキョロと忙しなくあたりを見まわしながら彼の姿を探した。
「藍達くん、どこにいるの……? いるなら返事して……! ……藍達くん!」
そのときだった。
あのときと同じような、ひときわ明るい夕焼けの橙色が室内の奥にあるカウンターを照らした。
それと同時に、黒い人影がわたしの視界に飛び込む。
「待ってたよ、羽村さん」
正面から聞こえる声。
窓から差し込む夕日が眩しくて、目を細める。じっと見続けていると、だんだんと目が慣れてきて、そこにいる人物を確認することができた。
「羽村さんから図書室に出向いてくれるなんて、嬉しいな」
……やっと見つけた。
やっぱりここにいたのだ。
「藍達くん……!」
藍達くんはカウンターの向こうに座って頬杖をつき微笑む。どこか嬉しそうな表情でこちらを見ていた。
「僕の名前なんて呼んで、どうしちゃったの?」
「い、今までどこにいたの? 保健室から出て行っちゃったかと思えば、教室にもいないし、六時間目の授業もサボったりなんかして……わたしずっと探してたんだから!」
声を張る。
すると、彼はすっと目を細めた。
「へえ? 羽村さん、僕のことを心配してくれてたんだ?」
意地悪な微笑みを口もとに浮かべる彼に、思わず狼狽えてしまう。
心配……は、確かにしていたけど、そう言われるとなんだか悔しい。余裕げに笑む藍達くんがひどく腹立たしかった。
なにも言えずにいると、藍達くんは突然手をそっと前に出し、人差し指をクイクイと動かした。一瞬、なんのことだかよくわからなかったけれど、すぐに「こっちへ来い」と言っているのだと気づく。
少し躊躇ってから、意を決して彼のほうに歩み寄った。怖くない、怖くない、と心の中で呟く。カウンターの前まで行き、そこで立ち止まって彼を見据えた。藍達くんは視線こそわたしに向けるけれど、頬杖をついた姿勢は崩さない。
「羽村さん、おかえり」
「へ? あ、ええと……た、ただいま……?」
「ん」
頷く藍達くんに、わたしは小さく息を吐いた。
そっと胸に手を当ててみる。制服の上からでもわかるほど、胸がドキドキと高鳴っていた。緊張しているのだ。藍達くんにばれないよう、こぶしをぎゅっと握った。
「ねえ、藍達くん……どうして授業に出なかったの?」
「ああ、ちょっと読みたい本があったんだ」
「言い訳でしょ。本なんていつでも読めるじゃない」
「すぐに読みたかったんだよ」
彼は、「ほらこれ」と、数センチはあるだろう分厚い本を片手でひょいと持ち上げた。いかにも難しい内容が書かれていそうな本だ。藍達くんは好みそうだけど、普通の高校生ならあまり興味を示さなそうだと思った。
「羽村さんも読んでみる?」
首を傾げて聞かれる。
読書は嫌いじゃない。でも、わたしが読む本といえば、ほとんどがライトノベルで恋愛ものだ。その他のジャンルは……読んでいるうちに決まって必ず眠くなる。だからいつも結末を知ることなく、わたしは断念してしまう。藍達くんが持つ本をちらと見やる。その本は……SFっぽい? たぶん無理。
「羽村さん、聞いてる? これ、読んでみる?」
「……昨日も言ったけれど、わたし図書貸出カード持ってない」
「ああ、そうだったね」
そう言うと、藍達くんは本を置く。
カウンターにある引き出しをガラリと開けて、そこから一枚のカードを取り出した。それから、自分の胸ポケットに入っているボールペンをすっと取り出し、なにかを書き始める。
藍達くんが持つペンを見て思い出すのは、昨日の出来事。密やかにここで行われた情事。
いろいろと思い出してきて、頬が紅潮していくのを感じた。わたしはふるふるとかぶりを振って、それを振り払う。これ以上は思い出したくない。
「羽村小詠……っと。これでオッケー」
藍達くんがわたしに向かい手を伸ばす。
そこにはわたしの名前が書かれた貸出カードがあった。
「それ、羽村さんの貸出カード。本を借りたいときに使ってね」
「あ、ありがとう……」
わざわざ作ってくれたらしい。
お礼を言って、カードにそっと視線を落とした。藍達くんが書いてくれたわたしの名前を、そっと指で撫でる。
彼の字は驚くほど綺麗だった。まるで教科書に載っている文字みたい。
「小詠」
「……え?」
突然だった。
藍達くんがいきなりわたしの名を呼んだ。
どきりとして、カードから急いで視線を上げる。彼のほうに目をやった。
「……って、いい名前だよね」
「へっ? ……あ、ああ。ええと……そう、かな」
なんだ、そういうこと。
急に名前を呼んだりするから焦ってしまった。
今まで「羽村さん」だったのが、いきなり「小詠」と下の名前で呼ばれたから……胸の奥がドキドキしている。
「僕、羽村さんの名前、好きだな」
「……好き?」
「うん」
言いながら、本をぱらぱらとめくる。
わたしはそんな彼の様子を、じっと見つめた。
「綺麗な名前だと思う。字面も響きも。だから好き」
好き。そう言って、ふわりと優しい微笑みを見せる彼。
名前のことを言っているとはわかっているのだけど、なんだか照れてしまう。
藍達くんの言葉に、わたしは小さく頷いた。それに対して、彼はまた微笑む。あまりにも優しげなその表情に、思わず目を奪われてしまう。
犯されておいて、こんなことを思うなんて……おかしなことだとは、思うけれど。
ひょこ、と顔を出すわたしに気づいた友達数人が心配そうな面持ちでこちらへ駆け寄ってきてくれた。
「ちょっと小詠、大丈夫なのっ? いきなり倒れたって聞いたよー!」
「あはは……うん。でもちょっと休んだらよくなったから、もう平気だよ」
「もーっ。調子悪いなら早く言いなさいよ! 無理はよくないよ!」
「うん、ありがと。……ごめんね、心配かけて」
えへへと笑うと、友達はわたしにぎゅうっと抱きついてくる。移動教室で先に行っててと言ったきり、そのまま授業に出席しなかったのだから、驚かせただろう。申し訳なくて、もう一度「ごめんね」と謝った。
ふと藍達くんの席へと目をやる。
いつもならば、藍達くんは休み時間には席で一人読書をしているはずだ。……なのに、今は姿が見当たらない。
一体どこに行ってしまったのだろう。ほんの数分前まで一緒にいたのに。
彼の席を見つめながら、自分の席につく。
そのとき鐘が鳴った。教室に先生が入って来て、号令がかかる。
藍達くんの姿がないまま、一日の最後の授業が始まった。
* * *
当たり前のように進んでいく授業。だけど、ここにいる誰もが、藍達くんがいないことに気づいていない。
藍達くんは、やっぱり空気だ。いてもいなくても変わらない存在。……改めてそんなことを思い知らされる。
それでも、わたしだけは確かに彼の存在を感じていた。いるはずのない彼の席を何度も見て、そこにいないかと確認してしまう。
……藍達くんはどこに行ったのだろう。
彼のゆくえと、保健室で見てしまったあの写真。そればかりが頭から離れず、授業の内容がまったく耳に入ってこなかった。
そっとポケットの中へと手を入れる。コツンと爪の先に彼のスマホが当たった。
……授業が終わったら、あの場所に行ってみよう。きっと彼はそこにいるはずだから。
そう決めたわたしは、授業終了の鐘が鳴るのをじっと待った。
* * *
「起立。礼。ありがとうございました」
ようやく授業が終わった。急いで鞄に荷物を詰め込む。
ポケットを叩き、藍達くんスマホが入っていることを確認する。それから急ぎ足でとある場所へと向かった。
北校舎の三階。部屋の前に掲げられているプレートには図書室の文字。
授業中、ずっと考えていた。きっと彼はここにいる。ここに来れば彼に会える。……確信なんてないけれど、そう思えて仕方がなかった。
扉に手をかけ、そっと開ける。
からりと乾いた音が廊下に響く。
「……やっぱり開いてる」
薄暗い室内。
そこに一歩足を踏み入れる。
古い本と埃の匂い。
「……っ」
呼吸をするたび、図書室の匂いが体中を満たす。
……思い出す。昨日ここで彼にされたことすべてが、記憶に鮮明に蘇ってくる。
全身に冷や汗がじわりと滲んだ。きっと体がこの匂いを、空間を、拒否しているのだろう。
目眩さえ起こしそうになる中、わたしは彼の名前を呼ぶ。
「……あ、藍達くん……?」
ゆっくり、ゆっくりと、図書室の奥へと足を進める。わたしの背丈より遥かに高い書架が規則正しく列をなし、視界を遮る。キョロキョロと忙しなくあたりを見まわしながら彼の姿を探した。
「藍達くん、どこにいるの……? いるなら返事して……! ……藍達くん!」
そのときだった。
あのときと同じような、ひときわ明るい夕焼けの橙色が室内の奥にあるカウンターを照らした。
それと同時に、黒い人影がわたしの視界に飛び込む。
「待ってたよ、羽村さん」
正面から聞こえる声。
窓から差し込む夕日が眩しくて、目を細める。じっと見続けていると、だんだんと目が慣れてきて、そこにいる人物を確認することができた。
「羽村さんから図書室に出向いてくれるなんて、嬉しいな」
……やっと見つけた。
やっぱりここにいたのだ。
「藍達くん……!」
藍達くんはカウンターの向こうに座って頬杖をつき微笑む。どこか嬉しそうな表情でこちらを見ていた。
「僕の名前なんて呼んで、どうしちゃったの?」
「い、今までどこにいたの? 保健室から出て行っちゃったかと思えば、教室にもいないし、六時間目の授業もサボったりなんかして……わたしずっと探してたんだから!」
声を張る。
すると、彼はすっと目を細めた。
「へえ? 羽村さん、僕のことを心配してくれてたんだ?」
意地悪な微笑みを口もとに浮かべる彼に、思わず狼狽えてしまう。
心配……は、確かにしていたけど、そう言われるとなんだか悔しい。余裕げに笑む藍達くんがひどく腹立たしかった。
なにも言えずにいると、藍達くんは突然手をそっと前に出し、人差し指をクイクイと動かした。一瞬、なんのことだかよくわからなかったけれど、すぐに「こっちへ来い」と言っているのだと気づく。
少し躊躇ってから、意を決して彼のほうに歩み寄った。怖くない、怖くない、と心の中で呟く。カウンターの前まで行き、そこで立ち止まって彼を見据えた。藍達くんは視線こそわたしに向けるけれど、頬杖をついた姿勢は崩さない。
「羽村さん、おかえり」
「へ? あ、ええと……た、ただいま……?」
「ん」
頷く藍達くんに、わたしは小さく息を吐いた。
そっと胸に手を当ててみる。制服の上からでもわかるほど、胸がドキドキと高鳴っていた。緊張しているのだ。藍達くんにばれないよう、こぶしをぎゅっと握った。
「ねえ、藍達くん……どうして授業に出なかったの?」
「ああ、ちょっと読みたい本があったんだ」
「言い訳でしょ。本なんていつでも読めるじゃない」
「すぐに読みたかったんだよ」
彼は、「ほらこれ」と、数センチはあるだろう分厚い本を片手でひょいと持ち上げた。いかにも難しい内容が書かれていそうな本だ。藍達くんは好みそうだけど、普通の高校生ならあまり興味を示さなそうだと思った。
「羽村さんも読んでみる?」
首を傾げて聞かれる。
読書は嫌いじゃない。でも、わたしが読む本といえば、ほとんどがライトノベルで恋愛ものだ。その他のジャンルは……読んでいるうちに決まって必ず眠くなる。だからいつも結末を知ることなく、わたしは断念してしまう。藍達くんが持つ本をちらと見やる。その本は……SFっぽい? たぶん無理。
「羽村さん、聞いてる? これ、読んでみる?」
「……昨日も言ったけれど、わたし図書貸出カード持ってない」
「ああ、そうだったね」
そう言うと、藍達くんは本を置く。
カウンターにある引き出しをガラリと開けて、そこから一枚のカードを取り出した。それから、自分の胸ポケットに入っているボールペンをすっと取り出し、なにかを書き始める。
藍達くんが持つペンを見て思い出すのは、昨日の出来事。密やかにここで行われた情事。
いろいろと思い出してきて、頬が紅潮していくのを感じた。わたしはふるふるとかぶりを振って、それを振り払う。これ以上は思い出したくない。
「羽村小詠……っと。これでオッケー」
藍達くんがわたしに向かい手を伸ばす。
そこにはわたしの名前が書かれた貸出カードがあった。
「それ、羽村さんの貸出カード。本を借りたいときに使ってね」
「あ、ありがとう……」
わざわざ作ってくれたらしい。
お礼を言って、カードにそっと視線を落とした。藍達くんが書いてくれたわたしの名前を、そっと指で撫でる。
彼の字は驚くほど綺麗だった。まるで教科書に載っている文字みたい。
「小詠」
「……え?」
突然だった。
藍達くんがいきなりわたしの名を呼んだ。
どきりとして、カードから急いで視線を上げる。彼のほうに目をやった。
「……って、いい名前だよね」
「へっ? ……あ、ああ。ええと……そう、かな」
なんだ、そういうこと。
急に名前を呼んだりするから焦ってしまった。
今まで「羽村さん」だったのが、いきなり「小詠」と下の名前で呼ばれたから……胸の奥がドキドキしている。
「僕、羽村さんの名前、好きだな」
「……好き?」
「うん」
言いながら、本をぱらぱらとめくる。
わたしはそんな彼の様子を、じっと見つめた。
「綺麗な名前だと思う。字面も響きも。だから好き」
好き。そう言って、ふわりと優しい微笑みを見せる彼。
名前のことを言っているとはわかっているのだけど、なんだか照れてしまう。
藍達くんの言葉に、わたしは小さく頷いた。それに対して、彼はまた微笑む。あまりにも優しげなその表情に、思わず目を奪われてしまう。
犯されておいて、こんなことを思うなんて……おかしなことだとは、思うけれど。
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